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二枚の羽根が空気を切り裂く音が、鋭く響いた。機体は強大な推進力を得て、すでに砂漠の上を滑走していた。風がわき起こり、ぼくのマントを、ちぎれんばかりに、はためかせた。
すごい!
ボッカーに乗るのは初めてだが、イコがロブロブに与えているパワーが、並大抵でないことは、よくわかる。けれど、当の少女グレムはというと、ホコラの上に、いかにも間の抜けた調子で、あぐらをかいているのだ。このすさまじい風圧と震動を、どこ吹く風とばかりに。
「ひゃっほー! 天国までイッちまいそうだぜ」
田舎の不良少年みたいな、下品な歓声をあげて、アモン伯爵が操縦桿を、おもいきり引いた。
ぶーん、と子気味よい音をたてながら、機体はたちまち地上を離れ、見る間に上昇してゆく。お腹の中身を、すっかり地上に置き忘れたような感覚。その居心地の悪さは、しだいにどこか捨て鉢な、不思議な快感へと変わってゆく。
これが、空を飛ぶということなのか。神をも恐れぬ、禁断の行為。
かなりの高度を得たところで、ボッカーは水平飛行に転じた。機体が安定し、揺れもかなり治まった。が、顔がゆがんでしまいそうな、このすさまじい風圧は、どうにかならないものか。
「ハハハ、美少年が形無しだな」
肩越しに、飛行眼鏡が差し出されていた。不承不承受け取り、嵌めてみたところで、ようやく周囲を見わたせる余裕ができた。
果てしなく広がる空。雲の切れっ端が、ぷかぷかと浮いていた。ロブロブの後方に、イコは相変わらず、呑気そうに座っていた。ただ、額のツノのきらめきが、彼女の発する大きなパワーを示しているようだ。それは青緑色に輝く螺旋を描きつつ、火花のような光の粉を、きらきらと放った。
見下ろせば、やはり砂の荒野がどこまでも続き、ボッカーの影が、染みのようにぽつんと落ちていた。潅木の茂みが点在し、遠くを行く商隊が眺められた。どこか危険な香りのする、うっとりとした気分に、ひたされてゆく気がした。
「そんなに好きなのか?」
風を切る音の向こうから、伯爵の声が届いた。こちらに背を向けたまま。マフラーの端が目の前で踊っていた。
「えっ?」
「指輪の女さ。なに、人生経験ってやつは、あんたより少ないかもしれないが、色事に関しちゃ、百年ぶんくらい経験した自負はあるぜ。もっとも、女は相手にしないがね。それでも、色事のイロハってやつは、おんなじだろうさ。見たところあんた、その女にずいぶん振り回されてるね」
飛行眼鏡の中で、ニヤリを目を細めた。
ぼくはまた、苦笑せずにはいられなかった。どの指輪の? と、訊き返したいのをこらえるには、なかなか骨が折れた。どうやらル・アモンは、右手の薬指の、水晶の指輪を指しているようだが、そうだとすれば、由々しきことだ。
ぼくがレムエルのことで悩んでいると? 意中の女の子に振り回される、初心な少年のように? 怪伯爵ではないが、それこそイロゴトに関しては百戦錬磨のこのぼくが?
「いっそ、押し倒しちまったらどうだい? 少しくらい乱暴に扱ったほうが、そのての女は喜ぶんじゃないか。もっとも、愛のない力押しはただの暴力だが、女のほうでも、あんたの気持ちなら、充分わかってるんだろう? わかってるから、困らせたいんじゃないのかい」
「そうかもしれませんね」
あまりにも的外れな忠告に、吹き出すのをこらえるのが、やっとだった。どうやらこの男、魔法使いが何百年も生きることを、絵空事と片づけて、信じていないフシがある。そうでなければ、こんな児戯に等しい忠告など、恥ずかしくてできるわけがない。
ぼくは少しばかり、この怪しげな男に、好感を抱き始めていた。ひゅうひゅうとうなる風の中、我が意を得たようにうなずいて、自称色事師は続けた。
「間違いないさ。きっとその娘は、あんたが押し倒すのを心待ちにしてるぜ」
指輪の中で、レムエルはこの会話を聞いているはずだ。どんな顔をしているのか、見られないのが残念である。わざとぼくは、彼女に聞かせるために応じてみせた。
「次に会ったときは、きっとそうしますよ」
ホコラの上で、イコがすっと立ち上がるのが目に入ったのは、そのとき。
相変わらず間の抜けた調子で、腕を組み、いかにも思索的に空を見上げた。また旨そうな雲でも見つけたのだろう。そう考えているうちに、よく通る、澄んだ声を響かせた。
「太陽の中に、機影がありますねえ。ぜんぶで六機。じつに、殺意に満ちあふれておりますよ」