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風がおさまり、泉の波紋が絶えるとともに、低地人の少女、アザニがいなくなっていることに気づいた。
(ハーミアにさらわれた?)
瞬時、そう考えたが、しかし去り際を目の当たりにしているのだ。ただでさえ派手好みのハーミアが、アピールもせず、こっそり連れ去るとは考えられない。あるいは、いきなり始まった戦闘に驚いて、逃げてしまったのか。アザニは泉の中にいたし、ぼくは闘いに気をとられて、一度も振り返らなかった。
「水の中じゃねえのかい。低地人は息が長えというぜ」
「いくら息が長いと言ったって……」
いつまで眺めていても、泉には、さざ波ひとつ浮かばなかった。知らぬ間に水から上がって、向こう岸か、あるいは両側の木立に隠れたと考えるのが、妥当かもしれない。
それでもぼくたちが、泉から目を離せずにいるのは、アザニがここから出ていないことを、なんとなく感じているせいなのだ。
「消えた……んだよな。ここで洗濯していた娘たちも」
そう言ってヘンリー王は、レムエルへ視線を移した。寝ながら歩いていたくせに、話はちゃんと聞いていたのか。彼女はうなずいた。
「煙のように、というわけではありませんが。あまりにも忽然と、いなくなってしまいましたね」
「そういうのを、『消えた』というんじゃねえのかい。なあ兄弟、スプーンを使って、水の中を調べてみねえか」
「スプーン? ああ、下級精霊のことか。もちろんできるけど、その必要はないんじゃないか。水は澄んでいるし、深いところでも、足がつくかつかないかだろう。人を呑むほどの怪物が潜んでいるのなら、ひと目でわかるよ」
水妖であるヘレナを呼び出すべきか。そう考えたが、まだハーミア戦のダメージから回復していないことは、青い指輪の沈黙が物語っていた。
「わたしが見て参りましょう」
レムエルの提案を意外に感じたのは、背中の翼のせいだろう。あれは空を飛ぶための器官であり、水に潜るのに向いているとは思えない。どうするつもりか、興味深く見つめていると、みずからの胸を抱いて頬を染め、眉を吊り上げた。
「脱ぎませんからね」
「ああ、そう」
ぼくとヘンリー王は口をそろえた。やはり彼女には、心を読む能力があるに違いない。派手に飛び込むわけでもなく、彼女は水際に膝をつき、そのままするりと水中に没した。青い水の中を、白い影がゆっくりと進んでゆく。そうして、泉の中ほどに達したところで、影は忽然と消えたのだ。
「どうなってるんだ?」
人を食う泉や沼地は、よく見かけるが、それらはたいてい淀んでいた。泥や淵が人を引き込むか、あるいは「主」が棲んでいて、ひと呑みにするか。いずれにせよ、こんな見とおしのきく泉とは正反対の印象。稀に、「溶ける泉」があるにはあるが、こうも一瞬にして溶かす話は、吟遊詩人の口からも聞いたことがない。
驚いて見つめるうちに、レムエルの消えた辺りから、何やら白いものが浮かんできた。彼女自身ではなく、布のようなもの。レムエルの服ばかりが、浮いてきたのだろうか。彼女の体はすっかり溶けて……けれど、それにしては形が単純すぎる。
確かめたくても、棒きれを使って引き寄せられる距離ではない。見わたすと、潅木にしがみついている、一匹のドワーフが目に入った。
仔猫ほどの大きさで、緑がかった半透明。額に角が生えていた。厩の精、コイワイなんかよりずっと格の低い、下級精霊に近い小人だ。呪文で捕らえると、キーキーと鳴いて抵抗したが、やがて水面すれすれを浮遊して、白いものを拾ってきた。
「へえ。シーツみてえだな。洗いたてみてえに、奇麗なやつだ」
洗いたて、という言葉が、みょうに引っかかった。レムエルが見たという娘たちは、ここで洗濯していたのではないか。
「フォルスッタフさま」
声に驚いて目を向けると、水面からレムエルの肩から上と、翼の先がのぞいていた。溶けたわけではなさそうだが、ではいったいなぜ、姿が見えなくなったのか。彼女の髪は、少しも濡れていないように、さらさらと揺れていた。
「どうしたの? きみの姿が、消えたように見えたんだけど」