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「ときにフォルスタッフ、わたしの心配なら、よそでしてくれて構わないが、おまえ自身はどうなのだ? どこまで理解している?」
知らずに肩が震えた。やはりダーゲルドは、そのことを告げるために、はるばる荒地をわたってきたのだ。とっくの昔に死んだはずの男が。黒いフードつきのマントを身につけた、骸骨のようは風貌で。
月が痛いほど冴えていた。
不眠症の町、ズ・シ横丁の喧騒も、ここまでは届かない。神殿の下に埋められているという、長い耳の巨獣が、含み笑いする気配まで感じられるようだ。
「昨夜は、火のじゃじゃ馬に食われかけましたよ。円眼鬼を屠ったばかりの彼女に、です」
「おまえが悪態をついている娘に、せいぜい感謝することだ」
ミランダが、手加減してくれたというのか。円眼鬼の先制攻撃をぼくが指摘した、その借りを返したつもりか。
「だが次こそは、その減らず口ごと消し飛んでしまうと考えたほうがいい。長年の不摂生の報いだよ、フォルスタッフ。おまえのミワは、もはや一匹の悪鬼の霊力にすら耐えられない」
溜め息がもれた。おのれのミワのことは、おのれが一番わかっている。ダーゲルドはそう言ったが、ぼくもまた心の奥底では、そのことを充分理解していたのだと思う。ただ認めたくなかっただけで。
「次に使鬼を呼び出したときが、ぼくの最期だと?」
「そういうことだ」
「ヘレナでもだめですか」
「何とも言えないな。場合によってはシザーリオ……ヴィオラがおまえを見逃すかもしれない……ああ、いや。それはあり得ないか」
あり得ないと、ぼくも思う。
(我は使鬼なるぞ)
それが答えだと言ったとおり、彼女は使鬼の「掟」に忠実に従うだろう。ミワから解放された使鬼は、元の主人と対決しなければならない。彼女たちが霊力というエナジーの塊である以上、クビキを解かれた後の反動は自然な流れであり、算術博士どもが言うところの、「法則」に過ぎないのだから。
だからと言って、むりに彼女たちを引き留めようとすればするほど、事態は悪化の一途をたどるだろう。反動が膨れるだけ膨れ上がり、共鳴作用がはたらいて、やがては五匹とも封印を突き破り、同時に襲いかかってくるだろう。
一匹ずつでも打つ手がないというのに、こうなってはお手上げだ。もはや恥も外聞もなかった。かつての敵の前に、ぼくはすがるように、ひざまずいた。
「どうすればよいのですか」
口の端を引きつらせて、ダーゲルドは笑ったようだ。
「そこまで生に執着するのか。三百年も生きれば、もう充分ではないか」
「充分ですよ。やりたいことは全てやったし、思い残すことは何もない。彼女たちが望むなら、八つ裂きにされても構わない。ただ、たとえ憎まれていようとも、彼女たちは長年、ともに死線をくぐり抜けてきた相棒です。別れなければならない宿命は受け入れますが、別れたあとも、無駄口くらいは叩き合いたい」
「おまえの言いぶんは矛盾だらけだぞ、フォルスタッフ」
「何百年生きようと、人間の感情なんて、しょせん矛盾だらけですよ。とにかくぼくは、こんな別れかたは気に入らないんです」
かん、からん。
自走夜警の足音が聞こえた気がしたが、むろん空耳だろう。
ダーゲルドは足もとをまさぐり、夜露に濡れた草むらから、一輪の、野生の薔薇を手折った。蒼ざめた月光にかざされると、薔薇の花弁は血の色に燃え上がった。使鬼を失ってもなお、かれのミワがまだ充分、力を保っていることが知れた。
「ひとつだけ方法がある」
燃える花弁を一枚むしり、かれは宙に放った。それは一匹の赤い蝶と化して、月を愛でるフェリアス族のように、ひらひらと優雅な舞を演じた。ぼくは無言でそれを見つめたまま、ダーゲルドが言葉を継ぐのを待っていた。
「第六の使鬼とミワを結ぶことだ。ただし、これまでのように悪鬼ではなく、善鬼とな」