20(3)
「アザニ」
「え?」
「わたしの名前」
「覚えているの?」
表情を変えずに少女はうなずき、ぼくは少なからず焦った。落ちぶれたとはいえ、記憶を消すくらいの術なら、まだまだ使えるはずだ。
文字どおり、固唾を呑んで見守っていたけれど、低地人の少女、アザニの様子に変化はあらわれなかった。笑顔こそ見せないが、決してパニックに陥ってはいない。
「名前だけを、忘れていたのかもしれませんね」
いつのまに舞い降りたのか、レムエルがかたわらに立って言う。アザニはけれど、善鬼の姿をみとめても、落ち着いた態度を崩さない。善鬼は肖像画の「貴婦人」に似ているのだから、恐れないところをみると、たしかに術は効いているようだ。
「どういうこと?」
「せめて名前を忘れなければ、耐えられなかったのではないでしょうか。観念の上だけでも、自分自身を消してしまわなければ」
「それで、術をかけたことによって、逆に名前が記憶の表面にあらわれたのか」
水の音に驚いて振り向いた。泉に大きな波紋が広がり、少女の姿は消えていた。ぼろぼろの服が、水際に脱ぎ捨てられているばかりで。やがて驚くほど遠くで、ほっそりとした裸身が、仰向きに浮かんだ。花のような落ち葉がそれを縁取っていた。
「戻ってくるんだ。危険だぞ」
ぼくが叫ぶと、軽い水音とともに少女はもぐり、たちまち近くに顔を出した。ほっそりとした肩。荒野ではあれほど痛々しく見えた、きめ細かな亜麻色の髪は、みずみずしく潤っていた。
「だいじょうぶ。ここの水は、ヒーシェに守れています」
ヒーシェとは低地人の用語で、地霊を意味する。霊といっても、人格をもった精霊ではなく、土地のパワーとでも訳すべきか。なるほど、とくに古い神殿は、「ヒーシェ」の強い場所に建てられる場合が多く、その力ゆえに、何千年も砂漠に呑まれず、清らかな水を保ってきたのだろう。
ぼくは溜め息をもらしつつ、好きなだけ泳がせることに決めた。
「きみは指輪に封印されている間、あの家で一部始終を見てきたのかい」
レムエルは石段の上に身をかがめ、片手を泉にひたしていた。木洩れ日が、髪や頬を彩っていた。ぼくが尋ねると、うなずくかわりに、長い睫毛を伏せたのがわかった。
「当然かもしれないが、きみについてはまだ、わからないことだらけだ。なぜあの家にいたのか。何ものにも囚われないはずのきみが、指輪の中に、なぜ封じられていたのか」
「産まれるとすぐ、彼女はケルビムの祠で祝福を受けました」
「タム・ガイの妹のことかい?」
「はい。その祠では、祝福を受けた者に指輪を授け、精霊をつけます。本来は婚約指輪を嵌めるべき、右手の薬指につけて、逆に結婚と同時に取り外す決まりでした。わたしは彼女の守護精霊として、ともにありました」
「ぼくはてっきり、指輪も盗品だと思っていたよ。でも、なぜ封じこめられていたの?」
「人鬼の邪念が、彼女を包んだからです。もっとも、ご存知のとおり、わたしを完全に使役するには、強いミワをもち、しかるべき呪文を知っている必要があります。ケルビムの祠の主といえども、さすがにそこまでは知りませんから」
こういった話を聞くたびに、あらためてダーゲルドの凄さを思い知らされる。あるいはそれを、「罪深さ」と言い換えてよいが。
善鬼はあまり、宿のことを話したくなさそうだった。泉の上に目を伏せたまま、片手ですくっては、指先から透明なしずくに変えていた。アザニは遠くで水しぶきをたて、ヘンリー王はすでに一個のビア樽と化して、大理石の上に転がっていた。
「ぼくがきみを探して、ここまで来た理由がわかるかい?」
顔を上げたレムエルの表情が、当惑の色を帯びていた。ぼくの質問に対してでないことは、彼女の視線を追えば、すぐにわかった。ぼくの左手の親指で、指輪がしきりに明滅していた。
「逆リクエスト……ジェシカが?」