19(3)
こめかみを伝う、冷たい汗を意識した。やはり、そこを攻めてきたか。
「意地になってしまったのは、認めるよ。きみがあんなことを言うから、反対のことをしたくなった」
「それを無慈悲というのです」
「とどめを刺さなければ、いずれやつは復活していた。そして人を食い、人を苦しめなければ、やつは生きていけないんだ」
「だから殺した?」
「違うな。何度も言うように、ぼくはやつの悪行を責めるつもりはないし、その資格もない。蜘蛛が蝶を捕るからといって、蝶に同情するイワレはないんだ。やつも度々叫んでいたが、あの家に勝手に乗り込んでいったのは、ぼくたちのほうだからね。ぼくたちの行為は、ただの虐殺だよ。この指輪を盗むための」
右手の甲をかざしてみせると、レムエルは眉根を寄せた。
「せめて最後くらい、優しい言葉をかけてあげられなかったのですか」
「無理だろう。心にもないことを言ったって、皮肉しか聞こえない」
そうですか、とつぶやいたきり、レムエルは黙りこんだ。半転してぼくに背を向け、ゆるやかに翼をはためかせた。鳥の翼とは、明らかに構造が違うようだ。あるいは、彼女の白い羽は、飛ぶための器官ではなく、完全な武器なのかもしれない。
タム・ガイの宿でみせた、全方位遠隔攻撃が思い起こされた。
明け方に吹き荒れていた風も、今はぱたりと止んで、砂の上を、陽がじりじりと照りつける。腕の中で、低地人の少女が、うんと呻いて、身じろぎした。ただでさえ乾きに弱い上に、衰弱しているのだから、早くオアシスにたどり着く必要があった。振り向かずに、レムエルが言う。
「進路を、北北西に修正してください」
「なぜだ。この地図が間違っているのか」
「地図にあるかどうかは存じませんが、そちらのオアシスのほうが近いようです」
あり得る話だ。都市で発行している地図に至っては、荒野や砂漠は真っ白いまま。むしろ荒野で出回っている、手製のジャンク地図のほうが、はるかに役に立つものだ。それでも小さめのオアシスなんて、無数に書き洩らされているだろう。
ジンバの向きを変えて、振り返ると、ヘンリー王は相変わらずいびきをかきながら、進路修正して着いてくるのだ。この男、本当に眠っているのか? 目を見張ったところで、善鬼がたずねた。
「フォルスタッフさまは、なぜ魔法使いになられたのですか」
彼女は振り向かないし、ぼくはどんな顔をしていいかわからない。古傷がうずくように、胸の奥が鈍く痛んだ。
「この仕事を選ぶ理由が、あまり幸福なケースは、少ないんじゃないかな。あえて抽象的な言いかたをすれば、許せなかったのさ」
「なにを、許せなかったのです?」
「運命を。そしてぼくより無能な人間が、我がもの顔で威張り散らしている世界を」
金色の髪を波うたせて、レムエルが振り向いた。
「だから?」
「魔法が使えれば、運や偶然をアテにしなくて済む。ぼく自身の意志と力で、運命を変えられる。それに支配されるのではなく、運命の支配者になれる。そう信じたのさ」
「その願いは、叶ったのですか?」
ぼくは首を振った。
「叶うわけがないことは、きみだってよく知っているだろう。どれほど偉大な魔術師にも、星座の位置は変えられない。沈もうとする太陽を、押し戻すことはできない。せいぜい雲を動かして、雨を降らせるのが、やっとだよ。その降雨の術だって、こんな雲ひとつ見えない砂漠の真ん中では、使えないんだから」
彼女はかすかにうなずくと、また前を向いた。
「若かったのですね」
「魔法の言葉だね。その一言で、すべて許されるような気がしてくる」
見はるかす砂の中に、樹木らしい影が、難破船のように、ぽつんと浮かんでいた。