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翼の音を耳にした。
光を発しながら、降りしきる羽毛が見えた。
金色のベールのように、微風にそよぐ、豊かな髪。純白の翼が広がり、さらに光の羽毛を降らせる。
古代人をおもわせる、白い服の上から、銀色の、短い甲冑を身につけている。すんなりと伸びた手足の先も、手甲と、短い金属の靴で鎧われている。抜けるように白い肌。青い目。そして薔薇の花弁のような、赤い唇。肖像画の貴婦人と、よく似ている。
善鬼、レムエルは、微光を発しながら宙にとどまり、白い翼を、ゆるやかにはためかせた。人鬼の正面まで下降すると、囚われの少女を真っ直ぐに指さした。
「なりません。すぐにその子を、お放しなさい」
聖歌が神殿にこだまを返すような、澄んだ声。
タム・ガイの目が、驚愕に見開かれた。くぐもった声を洩らしたのは、妹の名を呼んだとおぼしい。が、間もなく「別人」と悟ったらしく、ぐにゃりと顔をゆがめた。
「なん、だ……ああ? てめ、え、はあ、ああ?」
「愛と光の精。ケルビムの眷属、レムエル。タム・ガイさん、あなたは、愛に迷われたのですね」
「なんだ、とお、おおお?」
「愛することは、罪ではありません。愛のために人は苦しみますが、苦しみの中にあってこそ、初めて光を見出すことができます。本当の光を、あなたは見ているはずです」
「おおおおおお!?」
だめだ。
呼び出すことに成功したのはよいが、こんなところで、よりによって人鬼を相手に説教を始めるとは、考えてもみなかった。ミランダなら、とっくに相手をこんがり焼いている頃だ。
少女ごと、だが。
「何をしている? さっさとそいつを屠ってしまわないか!」
思わずそう叫ぶと、白い翼が、ぴくりと震えた。キッと、善鬼はぼくを振り返った。
「無慈悲なことを仰らないで。このかたは、今も苦しんでおられます。苦しみのあまり、罪を犯すのです」
「ばか、敵に背中を向けるやつがあるか!」
紫色の舌を震わせて、顎の関節など存在しないかのように、タム・ガイが大口を開けた。新たに大量の糸が吐き出されると、束になり、先の尖った、強靭な数本の蝕腕と化して、レムエルの無防備な背中を急襲した。
光の繭が、善鬼の全身を包んでいた。剣戟に似た音とともに、すべて弾き返された蝕腕を、光の羽毛が舞って、ずたずたに切断した。神殿の円柱が崩れ落ちるように、床に散らばる残骸を、ぼくは呆然と眺めていた。
「これが……善鬼」
善鬼はゆっくりと翼を広げ、タム・ガイに向き直った。ぎちぎちと関節を鳴らして、さすがに大蜘蛛は後退りした。再び発光しながら羽毛が舞い、今度は低地人の少女を捕らえている糸を寸断した。宙に放り出された細い体は、もう、レムエルの腕の中にあった。
すごい。
全方位遠隔攻撃。これと似た技が使える使鬼を、ぼくはヴィオラしか知らない。
「どうして弱い者を傷つけるのです? 愛を知っているあなたなのに、どうして憎しみばかりを、弱者にぶつけようとするのですか」
ただ、いくら善鬼が強力でも、これでは埒が明かない。開いた口が塞がらないぼくの後ろで、野太い声が響いた。
「そりゃ、ちいとばかり甘いようだぜ、嬢ちゃん」
「生きていたのか?」
「冷たいねえ。ヘンリー王さまの最期に際して、滂沱の涙を流さぬまでも、せめて怒りに肩を震わせるとか、そんな場面がちっともなかったな、あんた。まあ、おれだって、最後のセリフが、ほがああああ! てんじゃあ、浮かばれねえや」
ビア樽はのっそりと起き上がり、肩を回して関節を鳴らした。どうやら指の骨一本、折れていないらしい。次の瞬間、体つきからは想像もつかない速さで飛び出すと、剣を拾い、人鬼に向かって床を蹴った。
蒼い刃が一閃すると、大蜘蛛の巨大な胴が雷に打たれたように、まっぷたつに裂けた。