18(2)
低地人の少女は、贄のように大蜘蛛の前へ運ばれた。この化け物は、吐き出した糸を、蝕腕のように自在に操れるらしい。少女を目の前に留めたまま、タム・ガイはヘンリー王を見据え、勝ち誇ったように舌なめずりした。
「首をひねってやろうか。それとも、手足を一本ずつ引き抜いたほうが面白えか。てめえがいつまでも、物騒な得物を握ってやがる気なら、いつでもそうするぜえ」
ヘンリー王は目の端で振り向き、あきらめの笑顔を送った。それからいかにも不器用な手つきで、鞘ごと剣を外し、床に横たえて、数歩後ずさりした。
「ぶん殴ってやりてえよおおお!」
毛むくじゃらの脚が一本、巨大な鞭のようにひるがえり、ヘンリー王の巨体を叩いた。
「ほがああああっ!」
それこそビア樽のように、吹き飛ばされたかれの体は、ごろごろと転がりながら、後方へすっ飛んで行った。石の柱に激突し、前方へ押し戻されると、それっきり動かなくなった。即死か。少なくとも、全身の骨は算木のように、ばらばらになっているだろう。
「てめえもぶん殴ってやろうか。それとも、この役立たずを、なぶり殺しにするほうが先か」
糸が引き絞られ、少女は気を失ったまま、うめき声を洩らした。ぼくは人鬼の三白眼を睨みつけたまま、どうすることもできずにいた。
左手に目を遣ったが、五つの指輪は沈黙したまま。薄情にも、自分を呼び出せと逆リクエストを送ってくる使鬼は、一匹もいなかった。ミワの衰えた「ご主人さま」の悲劇。だが、彼女たちの性格を考えれば、当然かもしれない。
唯一同情してくれそうなヘレナは、すでに役に立たないし。ハーミアとヴィオラは封印状態。ミランダだって、さすがにそこまで甘くない。人情派のジェシカはというと、こんな場合も寝ているに違いない。
万事休す。心中そうつぶやいたところで、腰の辺りに、エレキを浴びたような痺れを感じた。
(まさか……あの指輪が、逆リクエストを?)
ベルトのポーチに指を触れただけで、ぴりぴりと震動が伝わる。いったいあの指輪に何が入っているのか、かえって窮地に追い込まれるのではないか? そんなことは知る由もなかったが、これ以上の窮地があるとも思えない。ぼくはタム・ガイに向かい、わざと卑屈に笑ってみせた。
「指輪なら返すよ」
「もちろん取り戻すさ。てめえをばらばらにしてからでも、遅くはねえだろうが」
「そう言うなよ。あんただって傷をつけたくないだろう。こんなに透明な水晶は、めったに見つかるもんじゃない。冥途の土産に教えてほしいんだが、どこで手に入れたんだい?」
「なんで、てめえなんかに教えなくちゃならん?」
苦笑いしつつ、肩をすくめてみせた。それでもまだ襲ってこないところをみると、やはり指輪に傷をつけたくないのだろう。ポーチから取り出した指輪は、青みがかった銀色の光を放ちながら、ゆるやかに明滅していた。タム・ガイの顔が驚愕に歪むのを、ぼくは見た。
「なん、だ、そりゃ、あ……?」
だとすれば、どこかに「あれ」があるはずだ。人鬼に石の光り具合を示すように、かざしてみせた。指輪の裏側に、たしかにそれは刻印されていた。封じ籠められている、使鬼の名前が。
それで充分だった。儀式は省略しなければならないが、指輪のほうから逆リクが出ている以上、多少はすっ飛ばしてもだいじょうぶと踏んだ。ぼくは素早く、指輪を右手の薬指に嵌めた。自分でも意識せずに、この指を選んでいた。ミイラの「貴婦人」が嵌めていたのと、同じ指を。
雷に打たれたような衝撃が走った。
よく立っていられたものだと、我ながら思う。このまま五体がばらばらになっても、何の不思議もなかった。何百年もかけて、骨の髄まで闇に侵された人間が、今さら強烈な光に身をさらすことなどできようか。たちまち消し飛んでしまうのがオチではないか。
けれども、最初の衝撃に耐えると、かろうじて指輪を目の前にかざすことができた。幸いなことに、ダーゲルドが伝えた呪文は、簡潔だった。
「エルス・ラー・エル・ミム・マム・アルラス・ミルラン・レイス・ラー・エル・レム。大いなる恒星の支配者。光の王の御名において、我は望み、我は求む。あらゆる愛と聖なるものの守護者、ケルビムの眷属、レムエルをここに召喚せんことを!」
指輪から光がほとばしり、目を開けていられなくなった。