17(2)
ヘンリー王は巨体を家具にさえぎられ、とっくに進めなくなっていた。背の高い箪笥の間をくぐり抜けたとき、ぼくは低地人の少女と、鉢合わせになった。
うつろな眼差し。
ゼンマイ仕掛けの人形のように、ぼくを振り向いたけれど、彼女の目は、そのじつ何も見ていないのではないか。かすかな火影を浴びて、呆然と突っ立っている、その両腕の肘から先は、べったりと鮮血に染まっていた。
ぼくは少女の前を通り過ぎて、奥の空間へ出た。そこだけ、がらんとしており、焦げ茶と白の市松模様の床に、銀器が散乱していた。
手燭が床に落ちたまま、細々と燃えていた。半ばこじ開けられた宝箱に、爪を引っかける恰好で、ゼイロクがうつぶせに倒れていた。首が不自然な角度でねじ曲がり、これ以上できないほど見開かれた目が、天井に向けられていた。
傷口は見えなかったが、おそらく腹をずたずたに裂かれているのだろう。おびただしい血が床にぶちまけられ、早くも凝固し始めていた。ぼくは少女を振り返った。瞳に生気が戻ったかと思うと、つんざくような悲鳴を上げた。
声に驚いた蛾が飛び交う中、肩を抱いている間も、少女の悲鳴は止まなかった。悲鳴に混じるうわ言を聞いているうちに、少女は自身がゼイロクを殺したのだと、信じていることがわかった。
「落ち着いて。きみじゃない。きみは、何もしていない」
非力な少女に、全身筋肉の塊であるゼイロクの腹を裂けるわけがない。戦斧でも使えば、あるいは可能かもしれないが、それらしい兇器は、どこにも落ちていない。人鬼、タム・ガイ以外のだれに、こんなまねができるだろうか。
おそらく少女は、人鬼に幻惑されて、これまでずっと、泊り客を殺してきたのは自分だとばかり、思い込まされてきたのだろう。その罪の意識が、逃げ出したくても逃げ出せない、不可視の枷となって、このおぞましい宿屋に、少女を繋ぎとめてきたのだろう。
(悪党の風上にもおけないやつだ)
同じ悪党として、ぼくは歯ぎしりする思いがした。
同じ悪党ゆえに、ぼくにはタム・ガイの悪を責める資格はない。殺した人間の数なら、ぼくのほうが圧倒的に多いのだから。悪の中の悪、戦争を引き起こした罪は、千年の地獄暮らしでも、つぐなえないだろう。けれども、すべての罪を他人になすりつけ、自身は正義の玉座にふんぞり返っていようなんて、そんなことを考えたためしはない。
「あんたも成長しねえな。何百年も生きながら」
ヘンリー王のつぶやきが、すき間風のように、耳に届いた。そうだ、あの戦争を引き起こしたのも、似たような怒りが原因だった。ヘネラル四世がただの暴君であれば、ぼくは笑って傍観していただろう。許せなかったのは、常に他人を盾にするようなやり方だ。相手の弱みにばかりつけこむやり方だった。
部屋が揺れていた。
地震とは明らかに異なる、波打つような揺れかた。
もし巨大な蛇に呑まれたとしたら、こうもあろうかと思われるような。うねうねと壁がゆがみ、床がのたうつ。額縁が落ち、壁紙が剥がれ、次々と倒れた家具に、ヘンリー王は、とっくに潰されてしまったのではないか。
「おれの心配なんかどうでもいい。とにかく上を見てみるこった」
天井を見上げた。
例のごとく、ぶ厚い蜘蛛の巣にびっしりと覆われているが、白い幕を透かしたように、天井いっぱいに脚を広げた、巨大な蜘蛛の影が映っていた。次の瞬間、丸太のように太い、毛むくじゃらの鞭のようなものが、何本も巣を突き破った。
「くっ……!」
マントにミワをみなぎらせ、防御するにも限度がある。しかも少女を庇いながらであるから、分がよくない。ゼイロクのむくろは、すでに原形を留めておらず、家具はばりばりとへし折られ、床に太い穴が無数に穿たれた。
巧みな罠を張ったものだ。ヘンリー王を家具の檻に閉じ籠め、少女を盾にした上で、襲いかかってくるのだから。
肩や腕に、焼けるような痛みが走った。首筋をしこたま叩かれ、思わず前のめりによろめいた。マントの襟がなければ、とっくに首がすっ飛んでいただろう。そのまま少女を覆う恰好でひざまずき、おそらくとどめとなるであろう、次の一撃を待っていた。