16(2)
「ミイラだ……」
自分に言い聞かせるように、ぼくはつぶやいた。
すでに腐臭さえ感じられず、包帯の下で、肉はかさかさに乾き、骨に貼りついているに違いない。それでも、目の前のむくろが、今にもごそりと動き出しそうで、しばらくの間、目を離すことができなかった。
指輪を見るまでもなく、これが「貴婦人」の成れの果てであることは、金色の髪が証明していた。髪の毛だけが、肖像画そのままに、豊かに波うち、床にまで垂れていた。
彼女がだれなのか、なぜ包帯に覆われた姿で横たわっているのか、わかりすぎるくらいわかっていた。
(妹の体が崩れ始めるや、あのものは、その血をすすり、肉を食らったと申します)
赤マントの男が伝えた話が、どこまで真実なのか、わからない。ただ、タム・ガイが、秘薬を染みこませた布で妹の全身を包み、彼女の蘇生をはかったのは事実だろう。けれど、そのくわだては成功しなかった。やがて彼女の体が崩れはじめ、タム・ガイは狂乱した。
おおおおおん……という、うなり声が通りすぎた。
荒野を吹きぬける、風がうなるのだろうか。けれどもそれは、亡者たちの嘆きのように、足の下から響いてくるのだった。家全体が揺れて、天井がみしみしと鳴った。まるで屋根裏を、巨大な何かが歩いたように。
いつまで眺めていても、むくろは指一本、動かさなかった。ぼくはおずおずと彼女の右の手首をつかみ、慎重に持ち上げてみた。木材のように硬くなっているかと思えば、意外にすんなりと持ち上がり、ただ茶色い粉が、包帯の間から、ぱらぱらとこぼれた。
「おいおい、こそ泥のおっさんの真似事とは、あまり感心しねえなあ。それに、あんたらしくもないじゃねえか」
指輪に手をかけたところで、ヘンリー王に言われ、あらためて、自身がやろうとしていた行為に驚いた。
「ぼくは……」
「まるで、とり憑かれてるみてえだぜ。三百年も生きて、五つも指輪を嵌めているあんたが欲しがるほど、そいつは値打ちものなのかい?」
首を振らざるを得なかった。
間近で見てわかったのだが、銀のリングに嵌めこまれている透明な石は、水晶と判じられた。クラックや夾雑物はおろか、気泡ひとつ入っていない。逸品には違いないが、しょせん、鉱物としては、最もありふれたもの。闇市に流したところで、晩飯代くらいにしかならないだろう。
「亭主を引きずり出す、よすがくらいには、なるんじゃないか。もしこのむくろが、本当にタム・ガイの妹なら」
我ながら、言い訳にしか聞こえなかった。そもそもぼくたちは、人鬼を退治に来たわけではないのだ。ヘンリー王はけれど、苦笑を洩らしたばかりで、それ以上、異議を唱えようとはしなかった。
少し引っかかるような抵抗を示したばかりで、指輪は、貴婦人の手から、すんなりと抜けた。瞬時、叫び声を上げるのではないかという、恐怖に駆られたが、むくろは沈黙したまま。文字どおり骨と皮ばかりの腕を、再び寝台の上に横たえた。
そのとたん、何かが崩れるような感触があり、事実、ぼろぼろの包帯で、かろうじて支えられていた彼女のむくろは、いよいよ土くれと化してゆくようだった。黴の臭いのする煙が、隙間という隙間から立ちのぼり、包帯はしだいに立体感を喪失すると、最後に豊かな金髪だけを残して、ぺしゃんと潰れた。
ぼくはようやく理解した。
「この指輪自体が、肉体を蘇生させる魔力を持っていたんだ。ただ、しかるべき儀式が行われた形跡はないし、おそらくタム・ガイは、蘇生の呪文を知らなかった。逆に考えれば、こんな場所で、無造作に寝かされてさえ、彼女の体をミイラの状態に保っていられたほど、この指輪には力が秘められているのだろう」
呪文も儀式も抜きに、力を発揮する石なんて、そうそうあるものではない。けれど、どう見ても、この石はひたすら透明なばかりで、外見からはどんな力も、感じさせなかった。ゆえに何がぼくを惹きつけるのか、最初はまったくわからなかったのだ。
「いわゆる使鬼ってやつが、その石の中に入ってるってえのかい」
またしても、かれの言葉にハッとさせられた。
むろん、魔力をもった石が、必ずしも使鬼を宿しているとは限らない。石そのものの力が、他へ影響を及ぼすケースのほうが、はるかに多いだろう。そもそも、五匹の使鬼たちだって、最初から指輪に入っていたわけではなく、いわば、ぼくのミワで無理に封じ籠められているのだから。
あらためて、ぼくはこの指輪を、蛍貝の光にかざしてみた。