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色彩がおさえられた絵の中で、赤い唇だけが、薔薇の花弁の鮮やかさで、ぼくの目を射た。唇だけが、この女性の意思とは裏腹に、無理に微笑んでいるのだった。
「見事なもんだな。まるで生きているみてえだ」
ヘンリー王がつぶやき、ぼくは肩を震わせた。
たしかに、鍵穴から覗いた時とは、表情が微妙に異なっている気がする。肖像画の「貴婦人」は、どこか驚いてるようでもあり、恐れているようでもあり、そして何よりも悲哀の色が濃く貼りついていた。まるでぼくたち闖入者を、とがめるかのように。
ぼくは理解した。この部屋の空気は、この絵の中の女性の、声にならない悲鳴で満ちていることを。
できれば一刻も早く逃げ出したかったが、次にぼくの視線は、指輪の上に釘付けにされていた。膝の上で軽く組まれた右手。そのほっそりとした薬指に、精緻な指輪が嵌められていた。鍵穴からは、銀のリングに見えたのだが、こうして間近で目にすると、楕円形の、透明な石が嵌めこまれていることに気づく。
「何の石だろう?」
蛍貝を近寄せ、ぼくは恐怖さえ忘れて、絵を覗きこんでいた。
これを描いた絵描きは、宮廷画家も顔負けの腕の持ち主であろう。等身大とおぼしい、若い貴婦人の纏うドレスの襞は、今にも動き出しそうなほど緻密に、生き生きと描かれていた。それでも、麻布に描かれたディテールには限界があるので、さすがに硬さや、光に反射するさまを、確かめることはできない。
なぜ絵の指輪に、これほどまでに引きつけられるのか、自分でもわからない。もう一度目を上げると、若い貴婦人は悲しみをたたえた目で、ぼくを見下ろしていた。赤い唇が今にも蠢いて、非難の言葉をつぶやきそうだった。
背後でヘンリー王が言う。
「おい、ありゃあ、蜘蛛の巣じゃねえか」
反射的に、ぼくは天井を見上げた。驚いたことに、予想していたような白い靄は、そこに見当たらなかった。念のため蛍貝を上昇させてみると、板の木目が浮かび上がった。この家の、あらゆる天井に張り巡らされた蜘蛛の巣が、この部屋にだけ存在しないのだ。
「いったい……」
「違うなあ。おれが言いてえのは、そっちにはねえんだ」
ヘンリー王は突っ立ったまま、部屋の奥に目を据えていた。薄闇の中に、天蓋つきのベッドを覆う寒冷紗が、ぼうっと浮かんでいた。寒冷紗が?
「まさか、あれがそうだと言うのかい」
かれがうなずくのを、確かめるまでもなかった。目の粗い布地だとばかり思っていた、ベッドを白く覆っているものは、蜘蛛の巣にほかならなかった。
ということは、いったいあのベッドには何が横たわっているのだろう。目を凝らせば、白い幕を透かして、たしかに人くらいの大きさの影が見える。
しばらく見つめていても、動きだす様子はない。それでも今となっては、圧倒的な妖気が、あのベッドから漂ってくるのが、はっきりと感じられる。ついに一度も姿を見なかった蜘蛛が、それも巨大なやつが、あそこに横たわっているのだろうか。
「あんたが何を考えているか、おおよそ見当がつくが。まあ、確かめてみるこった」
いかにも無造作に、ヘンリー王がベッドに歩み寄るのを、ぼくはただ呆然と見守っていた。かれはまた片膝をつくと、軽く薙ぐように剣を抜いた。切り落とされた紗幕が、蜘蛛の巣の紗幕が、音もなく床に広がった。
「こいつは……!」
かれが驚いた様子を見たのは、これが初めてかもしれない。ほとんど無意識に、ぼくはベッドに駆け寄った。そこに横たわっているものを見下ろしたときは、しばらく言葉も出なかった。
女、だと思う。
華奢な体の線と、ベールのような豊かな金髪が、そのことを証明していた。ただ彼女の全身は、ほとんど隙間もなく、ぼろぼろの包帯で覆われていた。包帯は、あるところでは黒ずみ、あるところでは黄変し、またあるところでは、鮮血の色をそのまま残していた。
そうして包帯の上から、右手の薬指には、肖像画の貴婦人が嵌めているのとまったく同じ指輪が、銀色の光を放っていた。