表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/136

15(2)

 蛍貝を追ってさらに進むと、やがて行き止まりになった。目の前には黒ずんだ木の扉が立ちふさがり、床に目を落とすと、例のスプーンが、予想以上に無惨な姿で散らばっていた。

 ぼくはヘンリー王に目配せした。眠たげな半眼のまま、かれは首を振った。

「人の気配は、まったく感じねえな。ただ……」

「ただ?」

「百ぺん頼まれても、おれなら入りたいとは思わんね」

 かれが何を言いたいのか、ぼくにもわかっていた。ぶ厚いドア越しに感じられる妖気は、尋常ではなかった。気配を感じただけで、ぼくの全身が粟立つなんて、めったにないことだ。

「あ……」

 取っ手の前で身をかがめ、思わずよろめくように後退りした。鍵穴には、泥が詰め込まれていた。タム・ガイのしわざか。それとも、低地人の少女に命じてやらせたのか……慎重に取っ手を回し、前後に揺すってみたが、案の定、びくともしない。

 もし中にだれかいるとしても、明らかに、みずからの意志で扉を閉ざしているわけではなさそうだ。幽閉されている、というぼくの直感は本当だろう。けれど、ならばなぜヘンリー王は、人の気配を感じなかったのだろう。

 下級精霊のビジョンを通して、ぼくは鍵穴から「貴婦人」の姿を、はっきりと見た。妖気が強すぎるせいで、人の気配を掻き消しているのかもしれないが、鍵穴に泥まで詰めるに至っては、あまりにも非道だ。狂っているとしか、言いようがない。

 軽く、次にやや強くノックしてみたが、応答はない。顔を近寄せ、だれかいますか? と声をかけても結果は同じ。牢獄でも通用しそうな扉の表面は、ゾッとするほど冷たかった。

「扉を破れるかい? なるべく静かに」

「難しい注文だねえ」

 下がってな、と、ぼくに告げて、かれは片膝をつき、だらしなくぶら下げている剣の柄に、手をかけた。

 このたびは、ジェシカ戦で見せたような、逆手ではなかった。瞬く間に抜かれた切っ先は、鍵穴と文字どおり、紙一重のところで静止していた。蒼い火花とともに、詰めこまれていた泥が弾け飛び、同時にくぐもった、金属的な音が響いた。かれはすでに、剣を鞘におさめていた。

「開いてるよ。ただ、レディの部屋に無断で入るには、それなりの覚悟がいるだろうけどよ」

 わかってる。そうつぶやいて、取っ手を回した。

 確かな手応えがあり、重い扉が少しずつ、内側へ引きこまれてゆく。冷気が、肌に染み入るように、流れこんできた。部屋の中は闇の底に沈み、荒涼としたにおいに満ちていた。石室のにおいだと思った。死滅した菌類のにおい。長い年月、墓場の地下で眠り続けていた、死の部屋の香りだ。

 そして、すさまじい妖気!

 といっても、化け物の気配とは明らかに異なる。強いて例えるならば、凝り固まった人間の嘆きだ。歳月をかけて、幾層にも蓄積された、悲しみの堆積だ。いわば、この部屋に満ちた空気そのものが、悲鳴の塊なのだった。

 ぼくの全身から汗が吹き出し、そのくせ肌は粟立っていた。冷たい戦慄が何度も背筋を貫いた。ヘンリー王の言ったとおりだ。一刻も早くここから逃げ出したかったが、体は芯まで凍りついたようで、その場に釘付けにされていた。

 質量をもつような、闇の濃さに圧倒されるのか、蛍貝の光も、周囲のごく狭い範囲を照らす程度に、弱められていた。恐怖と不安に、ともすれば砕け散りそうになる思念を、ぼくはなるべく集中させて、蛍貝を奥へ進めた。

 部屋の広さは、十ジョエルに満たないだろう。客室とは趣を異にする、ここがプライベートな部屋であることが、なんとなく知れた。蒼い薄闇にぼんやりと浮かぶ調度からして、部屋の主は女性とおぼしい。最も奥に横たわるのは、寒冷紗のカーテンに覆われた、天蓋つきのベッドだろうか。

 相変わらず、人の姿はおろか、気配さえ感じなかった。

「あんたが見た貴婦人てえのは、あれじゃねえのかい?」

 ヘンリー王の低いつぶやきに、覚えず飛び上がりかけた。かれは古めかしいドレッサーの前に立ち、その上方の壁を仰ぎ見ていた。ぼくは瞠目した。

「これは……!」

 大きな、楕円形の肖像画が、かけられていた。それはちょうど鍵穴から覗いた場合、壁の正面に位置していた。

 肖像画には、こころもち目を見開いた、例の「貴婦人」が描かれていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ