15(2)
蛍貝を追ってさらに進むと、やがて行き止まりになった。目の前には黒ずんだ木の扉が立ちふさがり、床に目を落とすと、例のスプーンが、予想以上に無惨な姿で散らばっていた。
ぼくはヘンリー王に目配せした。眠たげな半眼のまま、かれは首を振った。
「人の気配は、まったく感じねえな。ただ……」
「ただ?」
「百ぺん頼まれても、おれなら入りたいとは思わんね」
かれが何を言いたいのか、ぼくにもわかっていた。ぶ厚いドア越しに感じられる妖気は、尋常ではなかった。気配を感じただけで、ぼくの全身が粟立つなんて、めったにないことだ。
「あ……」
取っ手の前で身をかがめ、思わずよろめくように後退りした。鍵穴には、泥が詰め込まれていた。タム・ガイのしわざか。それとも、低地人の少女に命じてやらせたのか……慎重に取っ手を回し、前後に揺すってみたが、案の定、びくともしない。
もし中にだれかいるとしても、明らかに、みずからの意志で扉を閉ざしているわけではなさそうだ。幽閉されている、というぼくの直感は本当だろう。けれど、ならばなぜヘンリー王は、人の気配を感じなかったのだろう。
下級精霊のビジョンを通して、ぼくは鍵穴から「貴婦人」の姿を、はっきりと見た。妖気が強すぎるせいで、人の気配を掻き消しているのかもしれないが、鍵穴に泥まで詰めるに至っては、あまりにも非道だ。狂っているとしか、言いようがない。
軽く、次にやや強くノックしてみたが、応答はない。顔を近寄せ、だれかいますか? と声をかけても結果は同じ。牢獄でも通用しそうな扉の表面は、ゾッとするほど冷たかった。
「扉を破れるかい? なるべく静かに」
「難しい注文だねえ」
下がってな、と、ぼくに告げて、かれは片膝をつき、だらしなくぶら下げている剣の柄に、手をかけた。
このたびは、ジェシカ戦で見せたような、逆手ではなかった。瞬く間に抜かれた切っ先は、鍵穴と文字どおり、紙一重のところで静止していた。蒼い火花とともに、詰めこまれていた泥が弾け飛び、同時にくぐもった、金属的な音が響いた。かれはすでに、剣を鞘におさめていた。
「開いてるよ。ただ、レディの部屋に無断で入るには、それなりの覚悟がいるだろうけどよ」
わかってる。そうつぶやいて、取っ手を回した。
確かな手応えがあり、重い扉が少しずつ、内側へ引きこまれてゆく。冷気が、肌に染み入るように、流れこんできた。部屋の中は闇の底に沈み、荒涼としたにおいに満ちていた。石室のにおいだと思った。死滅した菌類のにおい。長い年月、墓場の地下で眠り続けていた、死の部屋の香りだ。
そして、すさまじい妖気!
といっても、化け物の気配とは明らかに異なる。強いて例えるならば、凝り固まった人間の嘆きだ。歳月をかけて、幾層にも蓄積された、悲しみの堆積だ。いわば、この部屋に満ちた空気そのものが、悲鳴の塊なのだった。
ぼくの全身から汗が吹き出し、そのくせ肌は粟立っていた。冷たい戦慄が何度も背筋を貫いた。ヘンリー王の言ったとおりだ。一刻も早くここから逃げ出したかったが、体は芯まで凍りついたようで、その場に釘付けにされていた。
質量をもつような、闇の濃さに圧倒されるのか、蛍貝の光も、周囲のごく狭い範囲を照らす程度に、弱められていた。恐怖と不安に、ともすれば砕け散りそうになる思念を、ぼくはなるべく集中させて、蛍貝を奥へ進めた。
部屋の広さは、十ジョエルに満たないだろう。客室とは趣を異にする、ここがプライベートな部屋であることが、なんとなく知れた。蒼い薄闇にぼんやりと浮かぶ調度からして、部屋の主は女性とおぼしい。最も奥に横たわるのは、寒冷紗のカーテンに覆われた、天蓋つきのベッドだろうか。
相変わらず、人の姿はおろか、気配さえ感じなかった。
「あんたが見た貴婦人てえのは、あれじゃねえのかい?」
ヘンリー王の低いつぶやきに、覚えず飛び上がりかけた。かれは古めかしいドレッサーの前に立ち、その上方の壁を仰ぎ見ていた。ぼくは瞠目した。
「これは……!」
大きな、楕円形の肖像画が、かけられていた。それはちょうど鍵穴から覗いた場合、壁の正面に位置していた。
肖像画には、こころもち目を見開いた、例の「貴婦人」が描かれていた。