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「あの野郎、そろそろおっ始めやがったな」
ヘンリー王のつぶやきが耳に届き、ぼくは眠りから引き戻された。かり寝のつもりが、すでに真夜中らしいことは、空気から察せられた。
「だれのことを言っているの?」
「ゼイロクとか言ったっけか。力士くずれの宿屋荒らしさ。忍び足で、この部屋の前を通り過ぎやがったのは、ちょうどさっきよ」
どうやら寝言ではないらしい。あれほどしこたま飲みながら、この男は、ずっと起きていたのだろうか。
もう油が残り少ないらしく、吊りランプの火は、ほとんど消えかかっていた。闇に蝕まれた部屋には、鬼気としか言いようのない、すさんだ気配が満ちていた。
「力士だって?」
「気づかなかったかい? 一見、だらしなく膨らんでいるように見えて、やつは全身筋肉の塊さ。いざとなりゃ、宿に居合わせた者の首を、一つ残らずへし折るくらい、わけなかったろうさ」
「でもぼくたちには、あっさり正体を明かしただろう」
「なに、あんたとおれが、筋金入りのワルだってことくらい、裏稼業の人間にゃ一目でわかる」
お互い、やばい世渡りをしているのだから、干渉はなしにしましょう、といったところか。
むろん、ゼイロクが何をしようと知ったことではないが、低地人の少女が巻き添えをくうのは、あまり感心しない。往々にして、罪の少ない者ほど、罪深い暴力の犠牲になりやすい。
そんなぼくの気持ちを察してか、ヘンリー王は笑い混じりに言う。
「感傷的だねえ、相変わらずあんたは。何百年生きたって、とことん女で苦労するタイプだ。そんなに心配なら、様子でも見てくるかい」
床でごそごそと、巨体が起き上がる気配。同時に、のしかかるような視線の圧力が、すっと弱まった。視線の主は、明らかに蜘蛛の巣に覆われた天井にいて、ランプが消え、真の闇がおとずれるのを、待ち構えていたような気がした。
灯りが消えてしまう前に、ぼくは袋から、蛍貝の化石を取りだした。せいぜい二セトル程度の巻貝で、呪文をかけてやると、内側からぼうっと、緑色の光を放ちながら浮遊した。ヘンリー王が、子供のように目をまるくした。
「便利なもんだ」
「大昔は、こんな生きものがいたんだね。魔法で生き返らせても、一晩しかもたないけど。ぼくが動けば、勝手に前へ移動して照らしてくれるから、手燭代わりにはなるよ」
じっ、という断末魔とともに、吊りランプが燃え尽きた。蛍貝はぼくの思念を読みとって、ふらふらと扉の方へ漂った。掛け金を外し、半分くらいドアを開けた。ねっとりと、粘つくような闇が廊下を覆っているばかりで、とくにもの音は聞こえなかった。
廊下に出ると、すさんだ空気が、ひやりと肌に触れた。人が住まなくなって久しい家、特有のにおいがした。
すべてが幻ではなかったのか?
そんな疑いが、ぼくを嘲笑うように、脳裏でこだまを返した。低地人の少女も、宿屋荒らしのゼイロクも、料理や酒も、何もかもが本来は存在せず、住む者とていない宿屋が、荒野に建っているだけではないのか……
斜め向かいの扉は、簡単に内側に開いた。先に蛍貝が入って中を照らしたが、藻抜けの殻で、寝台に寝た形跡すらない。ただ、古びた革の鞄が、ぽつんと壁に寄せてあるばかり。
「おい、やつが向かったのは、そっちじゃないぜ」
扉を閉めて、左へ向かおうとしたところで、ヘンリー王に肩をつかまれた。
「いいんだ。先に確かめておきたいものがある」
かれは目をしばたたかせ、次に合点がいったように、うなずいた。
「なるほどな、例の貴婦人ってやつか」
蛍貝に導かれながら、ぼくたちは、みょうに曲がりくねった廊下を進んだ。精霊の目で見たとおり、細く開いた扉は、たしかに存在した。金具が錆びついたまま、何年も経っているような、ひどく固い扉で、ビア樽が通れるようになるまで、多少の喜劇が演じられた。
その先に、また廊下が続いているのも、予想どおりだった。