14(3)
「こちらでございます」
ひとつのドアの前で、少女が立ち止まり、手燭を持たないほうの手で指し示していた。
「さっきの行商人は、どの部屋に泊まっているの?」
極力、にこやかに尋ねたけれど、案の定、低地人の少女は鞭打たれたように、肩を上下させた。戸惑いと哀願の入り混じった表情が浮かんだ。
「あの……」
「だいじょうぶ。これから押しかけて、夜どおし乱痴気騒ぎをやらかそうなんて、腹はないよ。ただ、こいつを見てくれないか」
ぼくは隣のビア樽を指さした。群れからはぐれた草食獣のように、少女は目をしばたたかせた。
「ひとたびこいつが鼾をかけば、百万の大軍が真夜中に飛び起きて、突撃を開始するほど、もの凄いんだ。ぼくは慣れっこだから、耳栓をして寝ちまうけれど、さっきの客人が窓からロム川まで飛び出すようなことになれば、申し訳ないだろう。それで訊いてみたまでさ」
おずおずと、彼女は斜め向かいの扉を指さした。鍵穴はなく、これほど歪んだ家であるにもかかわらず、ドアの周りには、灯りが洩れるほどの隙間もなかった。
ぼくは演技的に、ホッと息を洩らしてみせた。
「そこならだいじょうぶかな。あとはこいつの口の中に、枕でも詰めておくよ」
ごくわずかだが、少女の唇に笑みがよぎるのを見た。稀代の大悪党、最低の女たらしの名を馳せたぼくは、女の子を喜ばせるツボを、千は心得ている。
少女は扉を開け、ギイという音の余韻の中へ足を踏み入れた。手燭の灯りがドアの陰に隠れる前に、ぼくは前方を透かし見た。半ば開いた扉が確かにあり、おそらくその突き当りでは、木製のスプーンが首をへし折られて、転がっていることだろう。
天井からは、やはり一本の吊りランプがぶら下がり、不安定な光を放っていた。安物の魚油を使っているとおぼしく、異臭がたちこめていた。広さは、八ジョエルに満たないだろう。粗末な寝台がひとつ。どうにか手紙が書ける程度の、机と椅子が一つずつ。床も壁も板張りで、やはりいびつに歪んでおり、窓はひとつもなかった。
そうしてここもまた、天井が見えないほど、びっしりと蜘蛛の巣に覆われていた。目を落とせば、床には寝台のものとは別に、形ばかりの寝具が敷かれていた。
「すみません。ベッドが一つしかないもので」
「構わねえよ、嬢ちゃん。おれは生まれてこのかた、高い所じゃ、朝まで眠れたためしがねえんだ。最初から床に転がってたほうが、大安心ってもんだ」
城壁の上で寝ていた男が、よく言えたものだ。
それでも少女は、ずいぶんホッとした様子。そうであろう。もしヘンリー王が陽気な酔っ払いではなく、近衛兵のように権柄かつ陰湿な男で、寝台の不足に腹を立て、怒鳴り散らし、大暴れしたとしても、彼女には抵抗するすべがないのだから。長剣をぶら下げた巨漢に怒り狂われては、さぞかし恐ろしかろう。
世の中には、抵抗できないとわかっているからこそ、無防備な弱者に食ってかかる矮小な人間どもが、うようよいる。また、弱者につらい仕事を押しつけて、自身はぬくぬくと甘い汁ばかり吸うヤカラがいる。タム・ガイのような、卑劣なヤカラが。
「ここの亭主は、顔を出さないのかい」
つい腹が立ったので、そう尋ねた。しまったと思った時には、少女は見る間に蒼ざめていた。遠くから、床をどんと打ち鳴らす音が聞こえた。
「申し訳ございません。主人は、その、体を悪くしておりますもので」
「ああ、いや。べつにきみが謝る必要はない。ありがとう。もう下がっていいよ」
用事があればベルを鳴らすよう告げて、少女は逃れるように部屋をあとにした。その紐は、蜘蛛の巣の間からぶら下がっているので、どこにベルがあるのか見当がつかない。
「案外よ。こいつを引っ張ったとたん、天井が落ちてくるカラクリかもな」
肩を揺すりながら、酔漢は一人でウケいるが、まんざらあり得ない話ではない。ぼくはともかく、ビア樽が潰れた後の掃除を考えると、少女が気の毒ではある。
場所を得たとばかりに、さっそく酔漢は床に転がった。ぼくもマントを着たまま、寝台に身を横たえると、沈黙がおとずれた。
一匹の有尾蛙が壁を這い、舌を伸ばしては貪欲に小虫を食らっていた。そいつは餌を求めて、徐々に上へ移動すると、蜘蛛の巣の中に、吸われるように消えた。しばらく見ていたが、ついに戻って来なかった。ここへ来た時からずっと、何者かに見られているような感覚があり、それは今も去らなかった。
火影の映える蜘蛛の巣の中で、またぞろりと、巨大な何かが蠢く気配がした。それでもぼくは、いつの間にか少し、眠ったようだ。