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「あれは……!?」
覚えず声をあげた瞬間、映像がふっつりと途切れた。
背後から、何者かによって匙がへし折られたのがわかった。精霊は逃げ去り、もはやぼくに何の情報も送ってこなくなった。たかだかスプーンとはいえ、ずいぶん硬くて太いやつだ。それを一瞬でへし折るのだから、凄まじい力が加えられたに違いない。
「おい兄弟、どうした。何が見えたってんだ?」
ヘンリー王が赤ら顔を近寄せ、酒臭い息を吐きかけた。それでようやく、茫然自失の体から立ち直った。
「……女だ」
「なに?」
「貴婦人のようなドレスを着て、椅子にかけていた。豊かな髪が、金色のベールのようだった。歳はまだ十七、八だろうか。おそろしく奇麗な顔で、こちらを向いて、少し淋しげに微笑んでいた。やや蒼ざめた顔に比べて、唇は血のように赤かった。膝の上で軽く手が組まれているが、その右手の薬指に、美しい銀の指輪が嵌めこまれていた」
女を見たのは、ほんの一瞬だった。にもかかわらず、その指輪の輝きは異様なインパクトで、ぼくの目に焼き付けられていた。ヘンリー王が尋ねた。
「この蜘蛛の巣の宿屋には、貴婦人みてえな若い女が住んでいるってえのかい?」
「住んでいるというより、幽閉されているみたいだったな」
あんな奥の部屋に押し籠められていること。そして淋しげな、何かをあきらめたような微笑。幽閉されていると考える以外、どんな解釈があるだろう。いずれにせよ、人鬼のやることは、どこまでもえげつない。
この粘りつくような執着心が、人鬼とデモンの性質をわけている。どちらも人の心の負の側面が増幅された姿だが、ザミエルをはじめデモンたちは、いわば抽出された悪の形であり、対して人鬼は沈殿した悪。あるいは、最近出回りはじめているウォーカー酒のような蒸留酒がデモンならば、人鬼は最も原始的なにごり酒だろう。
よって、人鬼にデモンの洗練はない。悪のための悪をはたらくのだという、虚無感やあきらめもない。人鬼はもっとどろどろした、あまりにも人間的な執着の中でのたうちまわり、果てしない欲望を自我とともに肥大化させ、あくまで自身の欲望のために悪事を行う。
と、ここまで考えて、自嘲せずにはいられなかった。ぼくだって、稀代の悪党と呼ばれた男。生に執着して、三百年も行き続けている愚か者だ。きっとタム・ガイとぼくは、どこか似ているのだろう。だから、暗いエニシで結びつけられたのだろう。ただ、ミランダの言葉を借りるなら、
(やりかたが気に入らないのよね)
ぼくは赤マントの男が語った、タム・ガイの所業を思い返す。
(あやつめは、妹に対する禁断の愛に迷ったのです。迷ったあげく弟を殺し、ついには愛する妹をも我が手にかけて、鬼となったのです)
単純なストーリーだ。愛に迷ったかれの目には、善良で温厚な弟が、疎ましく映りはじめた。かれの逸脱した愛情を、常識という名の枷で縛りつけようとする、巨大な障害に思え始めた。逸脱した愛を成就させるためには、まず、かれの愛を逸脱と決めつけてはばからない、常識を抹殺する必要があった。
かくして、閉ざされた家の中には、かれと妹だけが残された。密室で何が行われたか、それはだれにもわからない。
悲劇的な結末から、想像することはできる。おそらくかれの妹は、かれの愛を拒んだのだろう。一室に閉じ籠もり、かたくなに拒み続けたに違いない。愛の言葉も、贈り物も受け付けず、食事すら断ったのかもしれない。しだいにやつれてゆく妹を前にして、タム・ガイは狂乱した。
彼女が変わり果てる前に、永久に我が者とするために残されている方法は、ひとつしかなかった……
ごとり、と音が響き、ドアが開いた。ゼイロクが出て行ったほうのドアから、低地人の少女が、おずおずと顔を覗かせていた。
「あの、お食事はお済みでしょうか」
「げえっぷ。おかげさまでな。タヒムを丸ごと平らげりゃあ、この腹もご満悦さあ」
タヒムが丸ごと、ビア樽に漬け込まれている絵が浮かんだ。少女はけれど暗い目をしたまま、にこりとも笑わなかった。
「かしこまりました。お部屋のご用意ができておりますので、どうぞこちらへ」
先ほど精霊を飛ばしたので、ドアの向こうの様子はだいたいわかっていた。細々と燃える手職を手に、少女は前を歩いてゆく。ぼくは頭陀袋ひとつぶら下げ、ヘンリー王は吊るした剣の先を引きずりながら、痛々しいほど痩せた少女の背に従った。