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男の声に聞き覚えがあることに、ぼくはとっくに気づいていた。だがどうしても思い出せない。自慢じゃないが、記憶力はあまりよいほうではない。
自分で言ったとおり、この男が旅を続けてきたことは、間違いないだろう。腰かけるときに、荒野のにおいと、血のにおいが少しした。相変わらずフードを取らぬまま、ミイラのように防水布を巻いた指を、テーブルの上で組み合わせた。なんという眼光だろう。このぼくが、生身の人間に恐れを感じるなんて。
「あの……」
胸に盆を抱いた姿勢で、ロザリオは蒼ざめていた。ぼくは彼女にウィンクしてみせた。びっしょり冷や汗をかいていても、カッコだけはつけたい。
「いいんだよ。ぼくと同じものをお出しして。それとも、肉がよろしかったでしょうか」
「いや、同じものでけっこうだよ。フォルスタッフさん」
ボロ布を巻いた片手をあげた。ロザリオが逃げるように立ち去ると、常連たちはホッとしたような、がっかりしたような溜め息をもらして、それぞれの雑談に戻っていった。なんだ知り合いか、といったところだろう。
男はたしかに、ぼくの名を「フォルスタッフ」と呼んだ。
「何年ぶりでしょうか」
カマをかけてみた。酒と料理が運ばれ、心配顔のロザリオが再び立ち去るまで、男は無言で指を組み合わせていた。砂漠のような声で、男は答えた。
「およそ百三十年ぶりかな。昔の話だ。忘れてしまうのも、無理はない」
男は酒壷の栓を開け、そのまま口をつけて傾けた。本当にミイラではないかと疑いかけていたが、一応飲み食いするらしい。百三十年前といえば、ぼくが最も羽振りのよかった時代だ。
魔軍を率い、当時のタジール公と手を結んで、強大な王国軍を次々と蹴散らしていった。王宮を包囲して五十日後、あることがきっかけで、突然気が変わるまで。
(ここに至って包囲を解くというのか。愚かな。もし汝がそれを欲するなら、我は汝のもとを離れ、必ず汝を滅ぼすであろう)
あのときの、憎悪に燃えるヴィオラの顔が、目に浮かぶようだ。
紫の指輪に封印されている、五匹の中でも最強の力をもつ使鬼。ついに彼女は反乱を断念したが、ぼくもまたあれ以来、一度もヴィオラを呼び出していない。右手の中指に嵌められた紫のリングは、いわば「開かずの指輪」と化していた。
「思い出したかね」
「いや」
なぜ男を思い出そうとして、ヴィオラの姿が浮かんだのだろう。
乾いた笑い声をもらすと、男は両手を上げてフードにかけた。ゆっくりと後ろにずらされた黒頭巾の中から、まず白い蓬髪がばさばさと食み出した。面長な、これ以上ないほど痩せた顔。白い苔のような無精ひげ。尖った鼻と険しい眉間。幾筋もの傷が走る蒼黒い顔の中で、目だけが鉱物のように輝いていた。
「ダーゲルド……!」
声が震えた。ダーゲルド・オーシノウ。かつてのぼくの師であり、敵でもあった男。百三十年前に死んだとばかり思っていたのに……そう、彼女によって、かれは殺されたのではなかったか。もとはダーゲルドの使鬼であった、ヴィオラによって。
ダーゲルドのもとで、ヴィオラはシザーリオと呼ばれていた。少年の扮装をして、戦闘時にのみ呼び出されるのではなく、平時もかれの召使のように仕えていた。
「生きていたのですか?」
むろん、目の前の男が幽鬼でも生ける屍でもないことは、わかっている。他人の空似でもない。かつての洒落者が、ボロ屑のようにやつれ果ててはいるが、こんな目をした男が、二人といる筈がない。そうしてかれがダーゲルドに違いないことは、次の一言で明らかになった。
「シザーリオは元気かね」
「あいにくと。あれから一度も呼び出していませんよ」
「だが、近いうちに、いやでも顔を合わせねばならんだろう」
「何が言いたいんです?」
かれは答えず、また酒壷を傾けた。煮豆のスープはまったく手がつけられないまま、テーブルの上ですっかり冷めていた。あらかた空になった壷を置き、指で口をぬぐった。ボロ布にどす黒い血がにじむのを、ぼくは見逃さなかった。