13(2)
橙色の炎は、家の前に吊るされたカンテラの灯りだと知れた。
なるほど、赤マントの男が言ったとおり、もとはなかなか瀟洒な宿屋だったと思われる。二階建てで、ずっしりとした石造り。ただし、他の家屋同様、無惨に荒廃して、家全体がこちら側に傾き、今にも崩れ落ちてきそうだ。
どの窓にも灯りはなく、いくつもの暗い、うつろな目のように、ぼくたちを見下ろしていた。こんな廃墟にも虫は棲むのか、ごく小さな翅虫たちが、危うげな灯りの周りで、ちらちらと踊っていた。舌なめずりしながら、ヘンリー王がつぶやいた。
「薄気味わりい家だな」
まったく、この凄まじい荒廃は何事だろう。荒れているのはどの廃屋も同じだし、中でもよく保っているほうなのに、眺めているだけで、心臓が凍りつきそうな、言い知れぬ寂寥感に見舞われた。まるでこの家の周りだけ、粘液質の黒い霧に覆われているようだ。また得体の知れない、毛むくじゃらの怪物の幻が、ぼくの脳裏をよぎった。
「おい」
ヘンリー王が目配せした意味に、ぼくも気づいた。家の裏手から、馬の胴震いする音が、かすかに聞こえたのだ。先客がいるのか、それとも宿屋で飼っている馬なのか。いずれにせよ、この家が無人でないことは、確からしい。
玄関は街路よりも下にあるという、ちょっと珍しい構造。とりあえず、ガルシアを表通りに残して、ぼくたちは階段を降りた。何々亭と書かれたお定まりの看板はどこにもなく、黒ずんだ木の扉には、大きな鋲が無数に打たれていた。ベルの類いも見当たらないので、ぼくは直接扉を叩いた。
ぶ厚い板の表面は、氷のように冷えきっていた。
だいぶ待たされたように思う。もう一度叩こうとした手を、ヘンリー王が隣で制した。間もなく金具の外れる音が聞こえ、ぎちぎちと音をたてながら、扉がこちら側に開いた。隙間から顔を覗かせたのは、けれどおぞましい怪物ではなく、痩せた一人の少女だった。
低地人だ。怯えきったような少女の顔を見たとたん、そう直感した。
髪は亜麻色で、一本一本が糸のように細く、浅黒く思える肌は、日の光の下では緑に近く見えただろう。安っぽいカーテンを縫い合わせたような、白い服は薄汚れてぼろぼろ。痛々しいほど細い肩や膝が、剥き出しになっていた。首に巻かれた革のベルトは、よもやアクセサリーではないだろう。
先の尖った長い耳。小動物をおもわせる、大きな瞳。よく見ると、愛くるしい顔立ちをしていた。少女は、細い指を扉の縁に這わせたまま、声を震わせた。
「あの……」
「酒はあるかい?」
ヘンリー王が常套句を吐いたが、どうせとっくに匂いは嗅ぎつけているのだろう。相変わらず怯えきった表情で、低地人の少女はこたえた。
「は、はい。ございますが。お客さまがたは、お食事をご所望ですか。それとも、ご宿泊なさいますか」
「もちろん、泊まらせてもらうよ」
「それは……」
いけません。と、少女が言おうとしたように、ぼくには思えた。けれど彼女の唇はその形を描いただけ。ひっ、という声と同時に、言葉も呑みこまれた。扉の奥から、太い杖で床を打ち鳴らすような、重々しい音が響いたからだ。泣きそうな顔で、少女は言う。
「どうぞ、こちらへ。お入りになってください」
彼女が身動きすると、家畜用のベルに似た、金属の触れ合う音がした。細い腰に吊るした鍵束が鳴るのだと、すぐに知れた。見れば少女は裸足だった。
「馬はどうすればいい?」
「後ほどわたくしが、裏の馬小屋までお連れいたします。もちろん飼葉もご用意しております」
「それはありがたいね」
顔をそむけるような、少女のしぐさを、ぼくは見逃さなかった。
扉の先は広間ではなく、せまい廊下だった。細々と燃える手燭を持って、彼女が闇の中を先導した。廊下は奇妙な角度で曲がりくねり、床と壁とが、ちぐはぐに歪んで接していた。目を上げると、天井はびっしりと蜘蛛の巣で覆われていた。まるで死へいざなうような鍵束の音が、うつろに反響した。
やがて廊下は行き止まりになり、正面にはやはり黒ずんだ、ぶ厚い扉が嵌めこまれていた。少女は鍵束から迷わず一つの鍵を選び、扉の金具に挿しこんだ。玄関はともかく、なぜこんな所に鍵を? といった当然の疑問を口にする前に、陰気な音をたてて扉が開いた。