8(2)
黒衣の青年は口の端を吊り上げた。目は無表情なままなので、なんとも空恐ろしい笑顔となった。
「フォルスタッフさん、あなたのお名前は常々、耳に入れておりましたが。意外にお甘いのですな」
そんなことは、言われなくてもわかっている。この世に生を受けて三百年、自分のどうしようもない甘さのせいで、何度だまされ、苦労を背負いこんだか知れない。
ザミエルは語を継いだ。
「念のため申しておきますが、わたしは一切、不正をはたらいてはおりませんよ。カ・ヴゥードの契約は、王国の定めた法律にのっとって、公正に遂行されたものです。どのような義憤に駆られようと、それはあなたのご勝手ですがね。正しい者に対して、一方的な暴力をふるえば、大神アブラクサスをはじめとする、あらゆる神々の呪いを受けましょうぞ」
「よくもぬけぬけと、神の名を口にできたものだな。魔薬で人間の意志を操ることも、不正じゃないというのかい」
「魔薬の使用に関しては、同じ穴の何とかではありませんか、大魔法使い殿」
デモンと言い争ったところで、埒があかない。
こいつらは言葉を歪めるプロだ。デモンどもの口車に乗せられれば、山は歩きだし、雲は火を降らせ、月も逆さまに昇りかねない。
「とにかく、表へ出てもらうよ。ぼくに話し合いに応じる気のないことは、神々に誓って真実だから」
蒼白い美青年は、また奇怪な笑顔を作り、大儀そうに腰を上げた。例の四角い、風変わりな鞄をつかむのを見届けてから、ぼくはきびすを返した。
店の外は相変わらず濃い霧に覆われ、硫黄をおもわせる臭いが、たちこめていた。半透明の小妖怪どもが至る所でうごめき、あるいはカワクラゲのように浮遊していた。屋根の上で、大きなフクロウが、またばさばさと羽ばたいた。
鞄を右手にさげたまま、青猫亭の入り口の前で少し体を傾けて、青年は立った。あの鞄の中にこそ、カ・ヴゥードが入っているに違いない。そいつを破棄してしまえば、事は終わる。力対力の勝負なら、デモンが使鬼に敵うはずがない。ヘレナの圧勝は目に見えている。
が……
(なぜこいつは、ニヤニヤしてやがる?)
もし身の危険を感じれば、尻尾を巻いて逃げてしまうのが、かれらの流儀だ。名誉など鼻にもかけないから、卑怯と言われようが、臆病と罵られようが、蚊に刺されたほども感じまい。なのにザミエルの態度は、百戦の勇士のような余裕さえ感じられる。いったい何を考えている?
ぼくの疑問を見透かしたように、デモンは左手をひらひらと躍らせた。
「ご存知のとおり、わたしは根っからの道化者でして。人間を死ぬまで踊り狂わせようが、仔猫が勝手に踊り出そうが、愉快でさえあれば、どうでもよいのですよ」
「何が言いたい?」
「いえね、さっきも申しましたとおり、わたしはあなたのお名前を、よく存じておりました。あなたの行状に注目しておりました。いわゆる、ファンというやつで。あれは百年ほど前でしたか、フォルスタッフさん。あなたがヘネラルの大将を相手に大暴れしたときは、じつに愉快でしたなあ」
「そいつはどうも」
べつにデモンを喜ばせるために、暴れたわけではない。しかしぼくのファンだなんて、どこまでホラを吹いているのか知れないが、なかなか魂胆が見えてこない。口車に乗せられる前に、ヘレナに命じて一気に片づけるべきか。それが得策だと理解しながら、ぼくはいつしか、ザミエルの言葉に呪縛されようとしていた。
かれの巧みな語り口には、あやしげな魅力があった。
「そうですとも、フォルスタッフさん。あなたはわたしを、じつに愉快な気分にさせてくださる。今宵、お越しになった理由も、もちろんよく存じております。こいつがお望みなのでしょう」
デモンは四角い鞄を水平にかかげ、金具を外す音を響かせた。さらに半回転させて、蝶番が嵌まっているらしい、鞄の底を自身の側に向けると、ゆっくりと開いてみせた。だまし討ちの常套手段だ。と、身構えたものの、中には羊皮紙の束が、うずたかく積まれているだけだった。
カ・ヴゥードだ。
「お望みどおり、こんなものは灰にしてしまいましょう。あなたの業績に比べれば、木屑ほどの値打ちもありませんから」
鞄を器用に左手で支えたまま、もう片方の手を、手品でも披露するように、ひらりと高くかざした。浮遊する小妖怪を一匹、その手につかんだかと思えば、緑色の炎に変えた。
デモンはニヤリと口の端を吊り上げた。田舎芝居の看板に描かれる、悪魔そのものの顔になった。炎が鞄に近づけられると、たちまちカ・ヴゥードが、めらめらと燃え上がった。思わず目を奪われるほど、鮮やかな、おびただしい緑色の炎。
「ご主人さま、罠です!」
ヘレナが囁くと同時に、風が吹いて、女の笑い声が響いた。