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日が暮れて霧がたちこめた。ロザリオは今ごろ、ぼくのベッドで安らかに眠っているだろう。
今宵は珍しく、街路で誰ともすれ違わない。ねっとりと纏いつくような闇の濃さ。異様な夜の気配に恐れをなしたのか、ほとんどの住人が戸を閉ざし、ランプを吹き消して、早々と布団に潜りこんだとおぼしい。
逆に、夜行性の生きものたちは、目が冴えて仕方がない様子で、無数のコウモリが狂ったように飛び交っていた。猫たちは落ち着きなくうろつき回り、あちこちで諍いを起こしては、奇怪な声を張り上げた。
濃い霧と闇の中に、青猫亭の灯りが、ぼんやりと滲んでいた。いやに大きなフクロウが一羽、屋根の上に止まっていた。近づいてきたぼくたちを、黄色く光る目で見下ろし、威嚇するように高く羽ばたいた。
「おじゃまするよ」
外れたままのドアが、入り口の脇に立てかけてあった。店の中は、一昨夜の格闘の跡もそのままに、荒れ放題だった。吊りランプは黒い煙を吐き出し、大きな蛾を纏いつかせていた。カウンターの前に、たった一人で腰をおろしている男の姿がみとめられた。
ヒゲ達磨は、男と対面する恰好で、カウンターのうしろに突っ立っていた。ぼくとヘレナが入って行くと、瞳だけこちらに向けたが、さっきのロザリオ同様、それはガラスでできていた。いつもの減らず口はどこへやら、ばかみたいに開けた口から、だらだらと涎を垂らした。
ぼくは懸命に怒りをおさえた。感情的になっては、相手の思う壺である。
「この辺りじゃ、見かけない顔だけど。山の手のほうから来たのかい」
強いてにこやかに話しかけると、男は椅子をきしませて、体ごと向き直った。
長身で痩せている。まだハタチそこそこの青年のようだ。髪をぴったりと油で撫でつけ、豪邸の執事のような黒服を身に纏っている。顔立ちは、非の打ちどころのないほど美しい。ただ、目と目の間がやや狭すぎて、耳と鼻が尖りすぎ、肌が蒼白すぎる点をのぞけば。
青年もぼくに笑みを返した。もう一点、犬歯が鋭すぎるという欠点を発見した。また、かれの足もとに置かれている、風変わりな鞄が目に入った。黒くて四角い、あんな箱みたいな鞄を見るのは、はじめてだ。
「ごきげんよう、フォルスタッフさん!」
かれは飲みさしの杯をかかげ、朗々と声を響かせた。見知らぬ相手に、いきなり名指しされるのは、あまり気分のいいものではない。
「あいにく、近頃は気分も機嫌もよくないんだ。そういうあんたは、名を教えてくれるのかい」
青年が口にした名には、たしかに聞き覚えがあった。ぼくの背筋を、悪寒が貫いた。
「なるほど、有名な御仁だね。いつの間に商売替えをしたのさ」
ザミエル。
森の猟師たちから、最も恐れられていたデモンである。猟師たちがザミエルの誘惑を退けられないのは、かれが弓矢や鉄砲の、百発百中を約束するからだ。そうして力を授けられた猟師は、どれほど慎み深い男でも驕慢になり、みずからを見失い、やがて必ず破滅する。
誘惑された猟師たちの、あまりにも悲惨な末路が、吟遊詩人たちによって、多く語り伝えられている。
「なに、鉄砲に小細工しての身すぎ世すぎなんて、もはや時代遅れでさ。近頃人間は、鉄砲よりもずっと素晴らしい、支配のための道具を発明してくれましたからね」
「それが、カ・ヴゥードか」
「おかげでわたしも、いっぱしの魔術師になった気分ですよ。ただの紙切れを右に左に振ってみせるだけで、人間たちを踊り狂わせるのですから」
思わず眉をひそめた。デモンと一緒にされてはたまらない。魔術師はあくまで人間であって、魔物ではないのだ。
ちなみデモンは、ぼくの使鬼たちのような、自然の精霊とも異なる。彼女たちは、火や水など自然のエナジーが凝縮された精霊だが、デモンは人の心の闇から生じた。底知れぬ、無窮の闇。人の心の奥底に横たわる暗い深淵から、やつらは這い出してきた。
よってデモンは、人の心の隙間から侵入する。人間の人間らしい弱さにつけ入り、破滅へと導く。
「気に入らないんだよね。そういうやり方は」