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7(4)

 しかし原因がわかったからといって、危機が回避できるものではない。

 ロザリオが振り下ろした切っ先は、目の前三ミルインのところで静止していた。きしむベッド。絡みあいながら、震える腕。ぼくと彼女の喘ぐような吐息が、間近で溶け合う。こういうと甘美なまでに官能的だが、現実はなかなかどうして、甘くない。

 枕が切り裂かれ、ぼくの脳味噌のかわりに、白い綿が飛散した。まったくヒサンとしか言いようがない。ぼくはそのまま硬く冷たい床に転げ落ち、後頭部を強打した。見上げると、ぼくの下半身をまたぐ恰好で、彼女はジオウ神像のように立ちはだかっていた。

 剥き出しの太腿。張りつめた乳房。赤い新月のように、嫣然と微笑む唇。シチュエーションが異なれば、じつに素晴らしい眺めなのだが、もはや彼女は悪鬼にしか見えない。

 今ぼくを襲っているのが、ミランダではないかと錯覚するほどに。

 守り刀を、彼女は捨てた。なるほど、壁には斧なり剣なり、手ごろな武器がいくつもかかっている。どれも儀式用であるが、ぼくの頭骸骨を粉砕するウエイトは充分。けれど彼女は、そのまま柔らかな布地のように、ふっさりとぼくに覆いかぶさった。

「な、なにを……?」

 薔薇の吐息。蜜の香りが、まともに吐きかけられた。頭の奥が、じんと痺れ、全身の力が抜けた。

 これにてジ・エンドか。ご観覧の紳士淑女の皆さまは、さあ、拍手のご用意を、ってやつか。長いようで短い、悲劇のような喜劇だったが、しかしまあ、ロザリオに殺されるのなら本望。少なくとも、円眼鬼みたいなフンドシ野郎の腕の中で死ぬより、五億倍ましである。

 ぼくは言わずと知れた極悪人だから、彼女が罪に問われることはない。ただ彼女に理性が戻ったとき、そのことで悩まなければならないのは、気の毒だけれど……ぼくは彼女の瞳を覗きこみ、ガラスの向こうにある、彼女の意志に呼びかけた。

「ロザリオ、聞いてくれ。最後に二つだけ頼みがある。ぼくを殺す前にキスして。それから一言、グッド・バイと言ってくれないか」

 グッド・バイ。

 古代語で「さようなら」を意味する。最高の別れの言葉であると、古い魔法書に書いてある。

 彼女の指はすでにぼくの咽に絡められ、徐々に引きしぼられていった。やはり、届かなかったか。文字どおり苦笑しつつ、彼女の宣告に従って覚悟した。目を閉じたぼくの唇に、薔薇の花弁のようなものが、ためらいがちに触れた。咽をしめつける指の力が、すっと抜けた。驚いて目を開くと、ロザリオは泣いていた。

 あとからあとから、涙がこぼれる。濡れた瞳は、もはやうつろなガラス玉ではなかった。

「グッド・バイだなんて、そんな……そんな悲しいこと、言わないでくださいよ……フォルスタッフさん。だれだって……どんな人だって、死んでしまうのは……悲しいことじゃないですか……」

 泣き崩れた彼女の背を、ぼくはずっとさすっていた。

 ひとしきり泣きじゃくったあと、彼女はいつのまにか眠ってしまった。薬の効果が、完全に切れたらしい。次に目を覚ましたとき、ロザリオは何も覚えていないだろうし、むろん、そのほうが望ましいのだ。振り返ると、ひとつだけカップを手にして、ヘレナが立っていた。

「わざと助けなかった?」

 彼女はうなずき、カップをぼくに手わたした。

「でも、わたくしの意志ではございません。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、ご主人さまが心の奥で、そう望まれたから」

「わかるよ」

 ありふれた一杯の薔薇茶が、霊薬のように全身に染みた。立ち上がった時には、さっきまでの高熱が、嘘みたいに引いていた。小康状態なのだろうけど、これから一仕事待っている今は、とりあえずありがたい。

「さて、だれがロザリオに薬を飲ませたと思う?」

「お父上が。されど……」

「おそらくね」

 カップを置いて、片目を閉じた。たしかにヒゲ達磨はごうつくばりだが、明らかにやつの優先順位は、娘、命、金、と並ぶ。命に代えても、娘だけは守る男だ。おそらく、青猫亭は現在、デモンどもに乗っ取られていると考えるべきだろう。

 マントを羽織るぼくの手は、我知らず怒りに震えた。

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