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しかし原因がわかったからといって、危機が回避できるものではない。
ロザリオが振り下ろした切っ先は、目の前三ミルインのところで静止していた。きしむベッド。絡みあいながら、震える腕。ぼくと彼女の喘ぐような吐息が、間近で溶け合う。こういうと甘美なまでに官能的だが、現実はなかなかどうして、甘くない。
枕が切り裂かれ、ぼくの脳味噌のかわりに、白い綿が飛散した。まったくヒサンとしか言いようがない。ぼくはそのまま硬く冷たい床に転げ落ち、後頭部を強打した。見上げると、ぼくの下半身をまたぐ恰好で、彼女はジオウ神像のように立ちはだかっていた。
剥き出しの太腿。張りつめた乳房。赤い新月のように、嫣然と微笑む唇。シチュエーションが異なれば、じつに素晴らしい眺めなのだが、もはや彼女は悪鬼にしか見えない。
今ぼくを襲っているのが、ミランダではないかと錯覚するほどに。
守り刀を、彼女は捨てた。なるほど、壁には斧なり剣なり、手ごろな武器がいくつもかかっている。どれも儀式用であるが、ぼくの頭骸骨を粉砕するウエイトは充分。けれど彼女は、そのまま柔らかな布地のように、ふっさりとぼくに覆いかぶさった。
「な、なにを……?」
薔薇の吐息。蜜の香りが、まともに吐きかけられた。頭の奥が、じんと痺れ、全身の力が抜けた。
これにてジ・エンドか。ご観覧の紳士淑女の皆さまは、さあ、拍手のご用意を、ってやつか。長いようで短い、悲劇のような喜劇だったが、しかしまあ、ロザリオに殺されるのなら本望。少なくとも、円眼鬼みたいなフンドシ野郎の腕の中で死ぬより、五億倍ましである。
ぼくは言わずと知れた極悪人だから、彼女が罪に問われることはない。ただ彼女に理性が戻ったとき、そのことで悩まなければならないのは、気の毒だけれど……ぼくは彼女の瞳を覗きこみ、ガラスの向こうにある、彼女の意志に呼びかけた。
「ロザリオ、聞いてくれ。最後に二つだけ頼みがある。ぼくを殺す前にキスして。それから一言、グッド・バイと言ってくれないか」
グッド・バイ。
古代語で「さようなら」を意味する。最高の別れの言葉であると、古い魔法書に書いてある。
彼女の指はすでにぼくの咽に絡められ、徐々に引きしぼられていった。やはり、届かなかったか。文字どおり苦笑しつつ、彼女の宣告に従って覚悟した。目を閉じたぼくの唇に、薔薇の花弁のようなものが、ためらいがちに触れた。咽をしめつける指の力が、すっと抜けた。驚いて目を開くと、ロザリオは泣いていた。
あとからあとから、涙がこぼれる。濡れた瞳は、もはやうつろなガラス玉ではなかった。
「グッド・バイだなんて、そんな……そんな悲しいこと、言わないでくださいよ……フォルスタッフさん。だれだって……どんな人だって、死んでしまうのは……悲しいことじゃないですか……」
泣き崩れた彼女の背を、ぼくはずっとさすっていた。
ひとしきり泣きじゃくったあと、彼女はいつのまにか眠ってしまった。薬の効果が、完全に切れたらしい。次に目を覚ましたとき、ロザリオは何も覚えていないだろうし、むろん、そのほうが望ましいのだ。振り返ると、ひとつだけカップを手にして、ヘレナが立っていた。
「わざと助けなかった?」
彼女はうなずき、カップをぼくに手わたした。
「でも、わたくしの意志ではございません。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、ご主人さまが心の奥で、そう望まれたから」
「わかるよ」
ありふれた一杯の薔薇茶が、霊薬のように全身に染みた。立ち上がった時には、さっきまでの高熱が、嘘みたいに引いていた。小康状態なのだろうけど、これから一仕事待っている今は、とりあえずありがたい。
「さて、だれがロザリオに薬を飲ませたと思う?」
「お父上が。されど……」
「おそらくね」
カップを置いて、片目を閉じた。たしかにヒゲ達磨はごうつくばりだが、明らかにやつの優先順位は、娘、命、金、と並ぶ。命に代えても、娘だけは守る男だ。おそらく、青猫亭は現在、デモンどもに乗っ取られていると考えるべきだろう。
マントを羽織るぼくの手は、我知らず怒りに震えた。