0(2)
「余計な口をきくな。おまえは黙って命令に従えばいいんだ」
「あんたこそ、だれに向かって口をきいてるつもりなの、ビア樽」
「お仕置きされたいのか」
「ふん」
鼻で笑いやがった。ちなみにビア樽のことを、タジール公領の方言で「フォルスタッフ」と呼ぶ。これがすなわち、ぼくの名である。
ミランダが剣を振り上げ、軽く振り下ろすと、刀身の炎がほとばしり、一匹の大蛇と化して突き進んだ。こちらへ向かって、だ。ぼくは素早く水冷の呪文を唱え、マントをひるがえした。
眉毛が少し焦げた。もう少し対応が遅れたら、美少年の丸焼きが湯気をたてていたところだ。
「殺す気か!」
と叫んだものの、我ながら愚問だった。今の一撃は勢いこそ弱かったが、完全にぼくをロックオンしていた。要するに、殺る気満々。
さてこうなると厄介だ。今夜の彼女はことさら機嫌がわるいし、ぼくのミワも予想以上に弱まっている。ミワが弱まれば、使鬼を束縛する力も減少する。大魔法使いだなんてうそぶいているが、しょせんは生身の体。使鬼とタイマン張ったところで、勝ち目なんかあるわけがない。
(ヘレナを呼び出すか……)
薬指に嵌まっている青い指輪を横目で眺めた。
五匹の中では最も温厚なヘレナだが、血も涙もない悪鬼であることに変わりはない。ミワによって拘束されていればこそ、命令を聞くわけで、こんな状態で呼び出せば、ミランダとタッグを組んで襲ってくる可能性が高い。いや、ぜったいに襲ってくる。
そんなぼくの窮地を救ったのは、意外にも円眼鬼だった。
「後ろだ、ミランダ!」
三マリートはゆうに越える巨体が大斧を振り上げ、図体からは信じがたい素早さで、彼女の背後にせまっていた。真円形の一つ目が、呪われた鏡のようにぎらぎらと輝いた。
「言われなくたって!」
彼女は振り返りざま、炎の剣をひと薙ぎした。閃光が巨人の胴を直撃した。爆音とともに炎が渦を巻き、円眼鬼はおぞましい悲鳴を上げながら、後方に吹き飛ばされた。そのまま背中で巨岩に突っ込み、ばらばらに打ち砕いた。
澄みきった夜空の下、ミランダは踊るように身をひるがえした。赤く発光する髪がなびき、緋色のドレスから、白い脚があらわになった。生意気なやつだし、さっきは殺されかけたが、じつに美しい。使鬼というものは、こうでなくてはいけない。
「仕留めたか」
「冗談でしょう。相手が何だと思ってるの? そんなことも感知できなくなったんじゃ、あんたもそろそろおしまいね、フォルスタッフ」
「ご主人さまだろう!」
痴話喧嘩している間に、崩れた大岩の塊が四方へ弾け飛んだ。ラマ王の彫像のように円眼鬼が立ち上がり、雄叫びを上げた。さっきの一撃で腹がざくりと裂け、傷口から蒼い炎が吹き出していた。片手で斧を引きずりながら、よろよろと歩き、一つ目に憎悪をみなぎらせた。
ミランダの瞳に、世にも高慢な侮蔑の色が宿るのを見た。使鬼は飼い主に似るというコトワザは、あながち嘘ではない。彼女は優雅に腕を振り上げ、片膝を立てた。いにしえの女神像をおもわせる、「終撃」の構え。
野獣の咆哮にも似た雄叫びを上げながら、円眼鬼は地を蹴って駆けだし、宙に踊り上がった。見る間に距離が縮まったが、ミランダは微動だにしない。巨人は背後になびいた大斧を片手で引き寄せるようにして、水平に切りつけた。
血の色をした炎が、夜空で弾けた。
次の瞬間、炎に包まれた円眼鬼の上半身が、くるくると回りながらはるか彼方へ飛んで行くのを見た。残りの半分がどうなったか、知るよしもない。ひとつだけわかっているのは、円眼鬼を送りこんだ術者が、今ごろ苦しみのたうちながら、あの世への旅路を急いでいるだろうこと。
使鬼の敗北は、即座に術者の死を意味する。相手を抹殺するために送りこんだ力が、すべて自身に跳ね返ってくるからだ。
月は一つになっていた。さっきより数倍に膨らんだように思える、巨大な満月。その前にたたずんで、ミランダはぼくを見下ろしたまま、赤い唇にすさまじい笑みを浮べた。
「思い知らせてあげましょうか、フォルスタッフ。どちらがご主人さまなのか」