6(2)
眼下に横たわる街のいたるところで、水路がきらめいていた。お世辞にも美しくないズ・シ横丁の、積み重なる屋根たちさえ、祝福を浴びているような朝だった。
彼女が悪鬼でなければ……ふとそんな考えが、頭をよぎった。ぼくたちもまた、祝福されたのだろうか。永遠に。永遠なんて、存在しないとわかっているのに。
「朝は苦手ではなかったのですか、ご主人さま」
くすりと肩をすくめて、彼女は黒い瞳を向けた。ぼくをまだ主人と呼んでくれたことが、やっぱりうれしかった。
「最近はね、闇のほうが恐ろしく感じる時がある。闇の力を得てこそ、この肉体を保っているぼくなのにね。横丁には月や星の光がささず、灯火もまったく届かない一角が多いけれど、そんなところに入り込んだりするとね、食べられてしまいそうな気がするんだ」
「食べられる、のですか?」
「ああ。闇そのものに呑みこまれ、永久に出られなくなりそうな。限りない無の中に、閉じ籠められてしまいそうな。実際に、闇が質量を得てぼくに纏いつき、手放すまいとする意志みたいなものさえ感じる。あれほど大嫌いだった朝の陽光に、いつのまにか救いを求めている自分に気づく」
「夢はご覧になりますか」
ぼくは口ごもった。言われてみれば、最近また、ヴィオラの夢を見るようになっていた。まるで彼女を目の前に呼び出しているような、生々しい錯覚とともに、目覚めることさえあった。
途絶えた会話の糸口を探すように、草の中に視線をさまよわせた。天人や怪物のレリーフを宿したままの、神殿のカケラが散らばっていた。一輪だけ咲いている赤い薔薇が、思いがけない鮮やかさで、目に飛びこんできた。
「ダーゲルドが訪ねてきたことは、知っているね」
「存じております」
指輪の中に封印されてる間も、使鬼たちは完全に眠っているわけではない。個性にもより、例えばジェシカなどは本当に熟睡している場合が多いし、ミランダは戦闘以外には基本的に無関心だが、ヘレナはぼくの日常をよく観察していた。ダーゲルドとの間に交わされた会話も、耳を澄ませてすべて聞いていたのだろう。もちろん、それを責めるつもりはない。
「どう思う?」
「善鬼とミワを結ばれることについて、ですか」
「そうなれば、いずれはおまえも、善鬼と闘わなければならない」
光の存在、善鬼が彼女たち悪鬼の文字どおりの天敵であることは、言を待たない。光は闇を駆逐する。ただもちろん善鬼にもレベルがあり、たいていの光なら、彼女たちの闇に陵駕されてしまう。けれどもダーゲルドは、闇の中の闇、ヴィオラをもそれに駆逐させようというのだ。よほど強力なエナジーと、結びつけるつもりなのだろう。
ヘレナは指を光にかざした。光のささない水底のように、彼女もまた、はかり知れない闇を自身の内に秘めていることが、信じがたかった。
「それが運命なら、受け入れたいと思いますわ」
「精霊にも、運命という概念があるのか。束縛しておいて、こんなことを言うのはおかしいけれど」
「わたくし自身の力ではどうにもならないもの、それが運命なのでしょう。あるいは、わたくしの意志であるように見えても、実際にはそうでないものが。例えば……」
「たとえば?」
「使鬼の掟とか」
術を破られた術者は、おのれが放った使鬼に食い殺されなければならないのも掟。ミワが弱まったとき、おのれの使鬼と闘わなければならないのも、また掟。それを運命と呼び、逆らえないなら従おうという。優しい彼女の、これは彼女らしい宣戦布告なのかもしれない。ヘレナは語を継いだ。
「ただし、わたくしにも意志というものがございます。運命の力に抗し得る限りは、わたくしはご主人さまを守ってさしあげます」
「ミランダやハーミアと闘うことになっても?」
「はい」
「たとえぼくが、善鬼とミワを結んだとしても?」
「運命に抗し得る限りは」
後ろからヘレナの肩を抱いた。その肌はひんやりとして、濡れた石のように滑らかだった。強く抱けば折れてしまいそうなほど、華奢な体。その奥に秘められた闇までも、ぼくは抱きしめようと焦った。