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ぼくはヘレナを呼び出した。
彼女は水妖である。
長い髪は黒い流れのように、ほっそりと引きしまった肩に、背に、なびいていた。つぶらな瞳は黒く、それは髪同様、光の加減によっては紺碧の輝きをおびた。亜麻色の布を、つつましやかに身にまとい、装身具といえば、手首の細いリングと、やはり細い銀色の髪飾りくらいなものだった。
火妖であるミランダと並べれば、一対の絵ができあがるだろう。お互いに美しい髪をなびかせ、片方は豊かな肉体を誇らしげに燃え上がらせているのに対し、彼女のほうは、ひかえめな、けれど均整のとれた体を、しっとりと潤わせていた。
どちらかというと小柄であるが、ジェシカほどではない。それでもなぜか彼女は、そのことを苦にしているらしく、「小さい」と言われることを、非情にいやがった。彼女の前で、この一言は禁句なのである。
人魚にせよウンディーネにせよ、娘の姿をもつ水妖が総じておとなしいように、彼女もまた穏やかな性格の持ちぬしだった。水がなければ、人は生きられない。それどころか、あらゆる生きものの源といえるだろう。人は水辺に町を作り、雨の恵みをうけて耕作する。
けれど、ひとたび手におえなくなると、水ほど恐ろしいものはない。火には限りがあるけれど、水は無限ともいえる圧倒的な質量で襲いかかる。これほどまでに温厚なヘレナでさえ、そんな水の性質を有していることに違いはない。
もしも本当にヘレナを敵にまわせば、ミランダより恐ろしい相手となるだろう。
だから彼女を呼び出すときは、ぼくもかなり悩んだ。悩み抜いた末に呼び出すことにしたのは、ハーミアの宣戦布告に肩を押された恰好である。
ハーミアとヘレナは、姉妹のような関係にあった。ハーミアは風の精であり、また植物をもつかさどる。風と植物が、水と深い関係にあるのは、言うまでもない。何かと気難しいハーミアであるが、ヘレナにだけは頭が上がらない傾向にある。水を断たれれば、植物が枯れてしまうように。
「ジェシカはまだ中立とみていいかもしれない。けれど、ミランダとハーミアは、もはやあからさまに敵意を示している」
耳の長い巨獣が地下に眠るという、古代神殿の廃墟である。数日前にダーゲルドと対面したところ。もうすぐぼくのミワが尽き、使鬼たちに滅ぼされるであろうことを宣告された丘に、今日はまだ朝のうちにのぼったのだ。新しい日の光が、彼女の黒髪を紺碧に輝かせるように。
丘を覆う草は、まだ露をしっとりと宿していた。きらめく草地にヘレナは腰をおろし、みずからの髪を掌にためては、さらさらと滑り落ちるにまかせた。
「わたくしも、お味方のままでいるとは限りませんでしょう」
「わかっている」
「それでもお呼びになったのは、なぜですか」
ぼくはぎくりとした。やはりヘレナも変調をきたし始めている。ぼくをこまらせるような質問を、ぶつけてくる女ではなかった。
魔方陣を描くことも、もちろん考えた。危険な精霊、とくにデモンを呼び出すときに用いるやり方だ。魔方陣の中に召喚し、封じ込めることで、こちらに危害が及ばないようにする。もちろん易々と結界を破られる場合もあるが、少なくともそのまま呼び出すよりは安全だ。
ミワの衰えた現在のぼくは、丸腰に等しい。ヘレナといえども一匹の使鬼に過ぎないことは、重々承知している。それでも魔方陣を描かず、またヘンリー王を同席させなかったのは、なぜか……ぼくは自嘲的に微笑んだ。
「感傷だよ。きっと、それ以外の何ものでもない」
かつては平時にも、ヘレナとともにいたことがあった。もっとも、いつ敵に襲撃されるかわからないといった、理由をつけた上でだが。ヴィオラをシザーリオと呼んで召し使っていたという、ダーゲルドとおそらくは同じ気持ちで。
きっと、そんな感傷の名残りなのだ。
「わたくしに、何をお望みですか」
「とくに考えていなかった。もちろん、おまえに泣きついて守ってもらいたいという、下心はおおいにあったさ。ただ呼び出したとたん、おまが襲いかかってくるのなら、それはそれでよかったんだ」
「わたくしに命を奪われても?」
「少なくともハーミアよりは、優しく殺してくれそうだからね」