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効果はてきめんにあらわれた。
酒のにおいを嗅いだとたん、ヘンリー王はひくひくと鼻梁を蠢かせ、むっくりと上体を起こした。赤子でも抱くように瓶を受け取ると、頬ずりし、大きく傾け、咽を鳴らして飲みに飲んだ。最後の一滴が、きらきらと月光を浴びながら、酔漢の口の中に消えた。
ダーゲルドでさえ、すべて飲み干しはしなかったのに。ぼくは別の意味で、不安になってきた。
右に左によろめきながら、ヘンリー王は立ち上がった。二本の足で巨体を支えているのが、奇跡のようだった。燃えるような息を吐きながら、酔漢は前へ進んだ。断続的にもれるゲップ。血走った目は半眼で、やはり鞘に収めたままの剣先を、街路に引きずっていた。
隣に並んだところで、肩を叩かれた。恐るべき酒臭さ。
「よお、兄弟。こいつはじつに素晴らしいねえ。天国だねえ、ちくしょうめ。天国への階段が見えるってもんだ」
と、完全無欠のぐでんぐでん。ジェシカの声が響いた。
「イ・アイルの使い手か。ふん、あんたの悪運の強さには、いつもながら呆れるよ」
見れば意外なことに、彼女は腰の大鉈を外し、左手に引っさげていた。長い付き合いになるが、ジェシカが一人の人間を相手に鉈を抜いたのは、今夜が初めてかもしれない。
ヘンリー王はよろよろと足を踏み出し、柄に手をかけた。常に上体は揺れているが、腰から下はまったく動かないのだ。
「お前さんには、何の恨みもねえが、やくざな渡世だ。ごめんなすってと言っておく」
「あたしも先に忠告しておくけど、手加減はしないよ」
だめだ、と思った。
たしかにぼくは平素からこの酔漢を、腕の立つ男だと認めていた。だらしない仕草で包み隠そうとしても、隠しきれない鋭利さが垣間見えたからだ。しかし、どんな達人であれ、剣術使いが使鬼とまともにやりあって、勝てるわけがない。しかも自慢ではないが、力でジェシカを上回る使鬼など、まず思いつかない。
もしヘンリー王に勝ち目があるとすれば、相手が油断している場合に限る。ふらふらと攻撃をかわしながら、隙に乗じて仕留めるという、これも東方伝来の酔いどれ拳法と同じカラクリだ。最初からネタがばれているのでは、お話にならない。
しかもジェシカは、先のゴブリン戦で、充分ヒートアップしていた。鉄を叩いて鍛えるように、わざと叩きのめされた肉体は、金属の鎧よりも強靭になっているはずだ。
こうなっては、もうだれにも止められない。日頃はのんびり屋の彼女だが、ひとたびヒートアップすれば、好戦的な修羅としての本性が剥きだしになる。スマートなミランダやヴィオラより、よほどタチがよくない。文字どおり敵を血祭りにあげるまで、暴走し続けるだろう。
むろん、最後に血を絞り尽くされるのは、ぼくなのだ。
「覚悟しな、ビア樽!」
ぎくりとしたが、その言葉はぼくではなく、ヘンリー王に投げかけられたもの。たちまち薙ぎ払われた大鉈を、酔漢はわずかに抜いた刀身で、がっちりと受けとめた。世界をつんざく音が響き、銀色の火花が散った。
「はああああああっ!」
ジェシカは鉈を返しながら後ろに飛び退き、すかさず踏み込んできたヘンリー王の一撃を浴びた。逆手にかかげた一刀を、足を開いて踏ん張り、両手で鉈をかつぐ恰好で、かろうじて受けとめたのだ。よほど手が痺れたのか、彼女は眉間に苦悶の皺を寄せた。対して、大酔漢は半眼のまま、口ひげの下に笑みすら浮べていた。
両者は同時に飛び退いた。ジェシカが鉈を構えなおし、ヘンリー王は再び剣を革の鞘におさめた。両者の間に、究極まで張りつめた弦のように、殺気の糸が張られていた。
「やるじゃないか」
「お前さんこそ」
「だけど次は、本当のビア樽になってもらうよ」
ぺろりと凄惨な舌なめずりをして、ジェシカが踏み込んだ。鬼の膂力で、次々と打ち込まれる大鉈を、ビア樽、いやヘンリー王は、逆手にかざした剣の根もとで、軽やかに受けとめてゆく。酔っ払いのだらしなく肥えた体に、鬼神が乗り移っているとしか思えなかった。