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歩み寄れば、ビア樽を見下ろすかっこう。見事なまでに隙だらけで、剣は、かろうじて帯で腰に引っかかったまま、草の中にだらしなく投げ出されていた。ぼくの不安は、にわかに増した。
ミワが弱まれば、人を見る目まで節穴になってしまうのだろうか。
白髪混じりの髪は乱れ、鼾のリズムで口ひげがそよぐ。年寄りのようであり、案外若いのかもしれない。そもそも、ヘンリー王と呼ばれるこの男の年齢はおろか、素性を知る者もこの界隈にはおるまい。ただ一年ほど前から、いつのまにかズ・シ横丁に棲みつき、常に酔っ払っては、所構わず転がっていることを除けば。
「カゼをひくぜ、王様」
声をかけたが、まったく反応はない。つま先で軽く蹴ると、腹がぼこんと間抜けな音をたてた。口ひげが、生きもののようにうごめいた。
「カゼをひこうが、火を吹こうが、わしの勝手と知るがいい。例え王国をくれてやると言われたって、起きねえもんは起きねえんだ」
寝言にしては、王立劇場の役者のように朗々と響く声。それでも薄目すら開けず、たちまち鼾をかき始めるのだから、呆れる。ぼくは苦笑しつつ、身をかがめてささやいた。
「あいにく、王国の持ち合わせはないんだ。百年以上前に、取りそこなったからね。そのかわり、酔い覚ましの酒ならご馳走してもいい」
かっ、とヘンリー王の目が見開かれた。酒臭い息が、炎のようにわき上がった。
「ならば、話は早え」
こいつ、まだ飲むつもりか。そう考えたときには、ビア樽がごろりと縦になり、膨れに膨れた腹が、ぼくの視界をふさいでいた。アダムの実をふたつぶら下げたような、ピカピカの赤い頬。ばかでかいゲップをひとつ吐き、まばらな歯をのぞかせて、ビア樽はニヤリと笑うのだ。
「天国へなら、喜んでご同行させていただくってもんだ、なあ兄弟」
ぼくたちは天国への道を急いだ。
ヘンリー王は、滑稽なほど長いマントをはためかせ、今にもずり落ちそうな剣を、革の鞘ごと街路に引きずりながら、それでも遅れをとらなかった。ふうふうと吐く息が夜空を焦がし、月をレードムの実の形に縮み上がらせた。青猫亭の前には、七人の男たちが転がっていた。
死体かと思い、つま先でつついてみると、ああとかううとか、借金取りに生返事するような呻き声をもらした。見れば、青猫亭の常連の中でも、腕っ節の強い連中ばかり。中には火のついた煙草をくわえたまま、伸びているやつもいた。
「よお、気が利くねえ」
ヘンリー王がパイプをもぎ取り、一服して、また男の口に戻した。
店の中は、思ったほど荒れていなかった。テーブルと椅子がいくつか逆立ちしており、床には多少の料理や、割れた酒瓶がまき散らされていたが。要するに、表に転がっていた七人が、いとも簡単に放り出されたあと、他の客は皆、尻尾を巻いて逃げたのだ。
ヒゲ達磨は、カウンターの後ろで憮然と腕を組んでいた。まったくケガをしていないのは、最初から手を出さなかったからだろう。ぼくたちが入って来るのを見届けると、仏頂面のまま、店の奥へ目をやった。そこでは五匹の半鬼どもが、おおいに飲み、かつ食っていた。
(前の三匹はザコだ。が、奥の二匹は少々、厄介だな。ほとんどゴブリン化している)
瞬時にぼくはそう判断した。
ユゴラ族を含め、半人半鬼のエルフは長く生きればそれだけ、人より鬼の要素が勝ってくる。奥の二匹は、少なくとも五百年は生きているのではあるまいか。強靭な筋肉を包む皮膚は、甲羅のように角質化して、尖った突起を肩からいくつも生やしていた。かれらに比べれば、ヘンリー王の巨躯も見劣りするほどだ。
三日前、ぼくとダーゲルドが座っていた席に、その二匹は腰を据えている。残りの三匹は立ったまま飲み食いしていたが、ぼくが近づくと、おもむろに威嚇する調子で身構えた。
「あいにく、そこはぼくの席なんでね」
そう言うと、人とも獣ともつかない声で、ちんぴらどもはわめいた。言葉の意味はさっぱりわからないが、失せやがれとか死にてえのかとか、そんなところだろう。
「もちろん、きみたちが相応の代金を支払っているのであれば、ぼくだって、席を譲ることにやぶさかではないさ。でも、もしそうでなければ、今すぐ席を空けてくれたまえ。とくに今夜は、友達とおおいに飲み、かつ語り明かすつもりなんだから。天国についてね」
片目を閉じてみせた。ばかにされたと思ったのか、三匹のちんぴらは床に皿を叩きつけ、きーきーと踊り上がった。長い舌が顎の下まで垂れ、大量の唾液が料理の残骸の上にあふれた。まったく、これから食事をしようという時に、食欲が減退するような光景を見せつけてくれる。
「言葉が難しすぎたのなら、もっとわかりやすく言ってあげるよ。ロム川の魚の餌になりたくなければ、とっとと失せな!」