第2話
大変お待たせして申し訳ありません!
いつもと同じように起きて、会社に来て、朝ご飯を食べる。だけど最近、少しだけ日常に変化あり。
―ガチャ
静かなオフィスに、吹きこんだ外の空気。椅子から立ち上がり、振り返る。物音を立てず部屋に滑り込んできた彼に、ぺこりと頭を下げた。
「おはようございます、係長」
「おはよう」
無表情のまま、わたしの目の前に差し出された係長の大きな手。それに、鞄から取り出した布巾着を載せる。我が家で一番大きな容器を使ったのだけど、彼の手に乗るとちんまりして見える。些か輝いて見えるその瞳に笑いそうになりながら、口を開いた。
「今週は、旬の鰯のフライに、ベランダで育てた野菜が収穫できたのできゅうりのお漬けものとささみの梅大葉巻き、かぼちゃの甘煮です」
おかずを四品と頑張った分、ご飯は普通に市販のふりかけをかけただけ。余談だけど、ふりかけは非常に使える。見た目にも楽しい、味付けにも使える。そして、どうしても自炊が面倒な時やお金がない時にご飯やパンにかけてそのまま食べられる。パンにかけるのは、結構おすすめ。上にチーズなどかけると更に豪華な感じになる。安売りしているとついついまとめ買いしてしまうのは、そういう理由だ。
家庭菜園は、元々実家の母が仕事をしている傍ら、庭で色々育てていたのを知っていたから。と言っても、茄子やトマトなど簡単なものばかりだったけど。マンションに一人暮らしのわたしはベランダ栽培、育てるものは更に限られる。今のところきゅうりと大葉、上手く行けば一ヶ月後くらいに枝豆が収穫できる予定。楽しみだ。来年はほうれん草など冬野菜にも挑戦してみたい。
「……鰯の、フライ」
目の前の係長は、わたしの言葉をぽつりと繰り返した。
「はい。この間鰯が安売りしていたので、つみれ汁が飲みたくなりまして。残りをフライにしてみました。骨まで食べれて美味しいですよ」
「そうか」
こくりと頷く係長に、説明を続ける。
きゅうりは、お弁当に入れるので切ってしまったけれど元は一本漬け。鷹の爪を入れて、ちょっとピリ辛風味。ぽりぽり歯ごたえが良く、ビールと一緒に串に刺して丸ごと食べると日本人で良かった!!と心から思う。あとは家で取れた大葉、それに梅肉とささみを巻いて焼いたのは酸っぱいけれどさっぱりしていて食欲をそそる。ささみは淡白だから色々料理の幅も広いし、いくら食べても飽きない。そしてわたし的三大夏野菜の一つ、かぼちゃ。栄養価も高く、ほっこり柔らかくて甘い。とろとろに煮込んだ黄金色の実を嫌う人はなかなかいないだろう。
……なんて、熱く語るわたしに係長はこまめに相槌を打った。
週に一回、係長にお弁当を作って来る約束が決まったのは二か月ほど前のこと。話し合いは難航したけれど、毎週水曜日の朝、お弁当を渡すことで決着した。水曜日はうちの会社はノー残業デー。早めに仕事が終わった後、会社から二駅ほど離れた喫茶店で待ち合わせ、お弁当箱を返してもらっている。わたしは定期券内だし、係長は車出勤。お互い、特に問題はないのでこのスタンスで落ち着いた。
当初は直接会社で渡した方が楽なのでは、と口にした係長だったけれど、わたしが全力で拒否してからは何も言ってこない。係長自身は無関心みたいだけど、彼は社内でも屈指の『モテ男』なのだ。そんな人に毎週お弁当を渡しているなんて、確実に社内の女性の数割を敵に回すこととなる。さすがに今時恋敵を虐める、なんて大人気ないことは流行らないと思うけれど、それでも遠巻きに陰口を言われたり、噂の的になることは出来るだけ避けたい。面倒臭さはもちろん感じるので、最初のころはやっぱり断ってしまおうか、とも考えた。けれど人に料理を食べてもらうのは嫌いじゃないし、まめな係長は毎度おかず一つ一つにコメントと賛辞をくれる。それでお弁当を渡す時の語りが熱くなるのだけれど、ちゃんと反応をくれる係長に熱は上がる一方だ。個人的に言えば、係長にお弁当を作って来ることは、嫌いじゃない。というよりも、楽しんでやっているのだろう。
壁に掛けられた時計を確認すると、そろそろ七時半。部長秘書の先輩が来るころ。さすがに毎週水曜日だけ係長が早いのを怪しまれて、先輩に突っ込まれたので素直に白状した。先輩は彼氏もいるし、口の堅い人だから。ただ、わたしと係長が話しているのを見て、たまににやにやしているのが気になるけれど。
「ああ、そうだ。神代、今日はなにか用事はあるか?」
「いいえ」
係長の質問に、即座に首を振った。週末ならたまに友達と飲んだりするけれど、今日は週半ばの水曜日。いつも係長と喫茶店へ行った後はまっすぐ家に帰っている。
わたしの言葉を聞いて係長は、少し考え込んだ後に口を開いた。
「じゃあ、夕飯でも一緒にどうだ?」
「……え?」
突然の台詞に目を丸くする。ぱち、ぱち、と瞬きをするわたしを気まずげに見つめながら係長は首の裏を掻いた。
「もちろん、材料費は別にちゃんと渡す。ただ、前にもらった二食分、まだおごっていなかったのを思いだしてな」
「……ああ」
ふ、と脳裏によみがえるのはお腹を鳴らした係長にお弁当を渡した、きっかけの朝。確かにその時おごってくださいとは言ったけど、別に本気ではなかったのだ。真面目な顔をした係長に笑いかけながら、首を振る。
「別に、大丈夫ですよ。そもそも喫茶店のお茶代、いつもおごっていただいてますし」
「それは、必要経費だろう。頼んだのは俺なんだから」
「でも、喫茶店で待ち合わせを指定したのはわたしの我儘ですから。気にしないでください」
本当に、そこまでしてもらわなくても良いのだ。わたしと違い、管理職の係長はほとんど毎日残業で。なのにこんな朝早くに来てもらっている。もちろん、お弁当を食べたいと言ったのは係長だけど、こんなありふれたお弁当にそこまでしてもらうなんて、心苦しい。
しばらくわたしの顔を黙って見つめた係長は、ゆっくりと目を細めて息を吐いた。
「……俺と夕飯を食べるのは、そんなに嫌か?」
――へ?
思わぬところから、パンチを食らった気分。ぽかんとするわたしを見ながら、係長は悲しげに眉を顰める。
「神代」
「は、はい」
「嫌、なのか?」
「い、いいえっ。決してそんなことありませんっ」
ぶんぶんと首を振ると、係長は少しだけ表情を緩めて、しばらくしてから静かに口を開いた。
「この間の礼も、もちろんあるけどな」
大きな身体を丸めて、囁かれる、低い声。だけど怖い訳じゃなくて、どこか艶を含んだ、そんな声。思わず聞き惚れてしまう。背を屈めているせいか、いつもより近くにある茶色の瞳。こんな近くで見たこと無かったから、何だか不思議な気分になりながら見つめる。
「――単純に、神代と食事に行きたいと、思ったのもあるんだ」
真っ直ぐな視線が、わたしを射抜く。仕事中は厳しく光るそれは、今は何処か、懇願するような切ない色合いで。
ずるい、って思った。だって、――捨てられた犬みたいなんだもの。
大きな身体を居心地悪そうに丸めてわたしを見つめる様は、まさに雨の日段ボール箱に入っている、犬。今にもぺしょんと垂れた耳が見えてきそうだ。ここで断れば、間違いなくわたしが悪者。係長、やっぱりずるいんじゃないでしょうか、と内心ため息を吐きながら、首を縦に振らざるを得なかった。
「……わたしなんかで、よろしければ」
その返事をした途端、ぱあっと輝く係長の瞳。表情が変わらないかわりにいきいきと感情を映しだす瞳が、可愛くて。頷いて良かったな、と素直に思えた。思わず頬をにやけさせてしまうと、係長ははっとして恥ずかしそうに俯いてしまった。ここ二カ月、何度も思ったけれど、やっぱり係長は可愛らしい。本人に言えば怒られてしまいそうだけど、心からそう思う。
「係長、お店、わたしが選んでもいいですか?」
「、ああ」
首を傾げ、俯いた係長の顔を覗き込む。突然のことでびっくりしたのか、切れ長の瞳を丸くしていた。申し訳ない気持ちと、何だか少し楽しい気持ちと。不思議な感覚になりながら、口を開く。
「会社からちょっと離れるんですけど、友達とよく行くお店があるんです。ご夫婦でやっている小さいお惣菜屋さんなんですけど。安いし、美味しくて。しばらく行っていなかったので、わたし、そこが良いです」
「ああ。神代が行きたいところで、構わない」
「じゃあ、そこで」
頷く係長に、頬を緩める。普通、御馳走してもらうならお店は任せるべきなのかもしれない。でも、あそこの料理を係長と食べたかった。
お弁当を渡し始めたけれど、食事自体は別々に取っている。係長がご飯を食べているのを見たのは、最初の朝だけ。あの時みたいに、大口開けて一気にお皿を空けていく係長を、もう一度見たい。きっとあのお店を、係長は気に入る。なんとなくだけど、そう確信していた。
「小さなお店なのでメニューは少ないんですけど、季節や仕入れ状況によって内容がすごく変わるんです。今の時期だと、新じゃがの煮っ転がしがあるかなぁ」
「美味そうだな」
「美味しいんですよ。時々レシピを教わったりします」
係長の相槌に笑顔で頷きながら、今日の仕事も頑張ろう、って心から思えた。間違っても残業になったりして、せっかくのご飯の機会を潰したくはないから。
係長は、話し掛けた時に笑顔を浮かべてくれている訳じゃないし、基本的に聞き役で、話上手という訳じゃない。相槌も淡々としているし、一緒にいて話がすごくはずむということもあまり、ない。
――それでも係長といると、何にもなくても顔が綻ぶ。側にいるだけで、何となく楽しくて、心が湧き立つのだ。今まで知らなかった表情を見せられる度、もっと係長のことを知りたいって自然と思う。それがどんな気持ちから来るかは分からないけれど、このまま、時を重ねていければいい。そうすれば、いつか分かる日が、自然と来ると思うから。
書いているうちに、係長のキャラが全然分からなくなってしまいました。長編にしようかな、と思ったのですがこのまま三話完結で進めます。