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第1話

 ―ピピピピ……ピピピピ……

「……うぅ」

 午前四時三十分。冬には陽も昇らない時間に、頭をかち割るような甲高い音。しばらく布団の中でごそごそしてみたものの、音は当然止まらない。諦めて、ゆっくり身体を起こした。

「……んー」

 しょぼしょぼする目を擦り、大きく欠伸を一つ。そのまま伸びをして、ベッドから出て、机の上のパソコン、その横にある目覚まし時計を止めた。

「ふあぁ」

 ――ベッドから手が届かない範囲に目覚ましを置くと言うのは良いけど、やっぱり目覚めはあまり良くないものだなぁ。

 一人ごちて、シングルベッドを見苦しくない程度に整える。そのまま寝たい気持ちはあるけれど、一度起きれば基本的にすぐに動けるタイプだ。1Kの部屋を横切り、洗面所で顔を洗い、洗濯機の前に立った。昨日すすぎまで回してあるから、後は脱水だけすればいい。ピ、とボタンを押すとしばらくして重たい音と共に洗濯機は回転し始めた。それを見届け、今度は冷蔵庫を開ける。

「卵、と、……アスパラもそろそろかぁ」

 危なそうな食材をチェック、それらを抱えて扉を閉める。冷凍しておいたご飯は二合分チンして、まずはオムレツの準備。昨日残ったミートソースを混ぜて焼くだけ。後はベーコンのアスパラ巻き、プチトマトと定番かつ簡単なお弁当メニューが完成。それらを二段弁当の上に適当に詰めて、下にはしそご飯。余ったご飯を手早くお握りにする。具は大好きなねぎ味噌と梅おかか、焼きたらこのお握りは野沢菜を海苔代わりに。それらをラップでくるみ、お弁当と一緒に保冷バッグへ入れる。飲み物は水出し玄米茶。我が家では暑くなってくると、いつもこれを飲んでいた。

 一通り食事の準備を終え、すすぎが終わった洗濯物を取り出す。一人暮らしだし最近は帰ってTシャツ一枚で寝ちゃうこともざらなので、大して量はない。ベランダに持って行き、パパッと片付けた。

「さーて」

 これにて、朝の仕事は全て終了。幸いにも、昨日はちゃんとお風呂にゆっくり浸かれたので疲れはあまり残っていない。着ていたパジャマを脱ぎ捨てて、下着を身につけ、クローゼットの中から白いシャツとベージュのクロップドパンツを選んだ。鏡を見ながら肩下の長さの髪を櫛で梳かし、上半分は黒いシンプルなバレッタで留めてハーフアップ。後はいつも通り、社会人として問題ない程度にメイクをするだけ。アイシャドウを青系でまとめて、今日はラメ系のグロスをする。鏡を覗き込んで、問題ないことを確認。ケータイや充電した音楽プレイヤーをバッグに押し込んで、保冷バッグを持って、玄関を出た。

「いってきまーす」

 ――いつも通り、家を出たのは午前五時二十分。


* * *


 わたし、神代朝希(かみしろあさき)の特徴は第一に言って『田舎者』である。今でこそ東京の都心にあるオフィスでOLなぞやっているけれど、大学までは電車が一時間に一本来るか来ないか、という片田舎で育った。しかし、卒業間近になっても就職がゼミでただ一人決まらなかったわたしに、先生が勧めてくれたのが東京のそこそこ大きな会社。絶対に落ちる!と確信していたのに、何故か受かってしまい、ただ今社会人二年目だ。

 でも、そんなわたしには悩みがあった。東京は、どうにも肌に合わなかったのだ。人がごみごみしている感じが嫌で、会社に近いけれど未だに渋谷などには行けない。家は郊外の落ち着いたところに一人暮らしをしているが、出勤に一時間掛かる。――そう。わたしの一番の悩みは、これだ。電車自体は嫌いじゃない。問題は、俗に『通勤ラッシュ』と呼ばれる朝のあのぎゅうぎゅうの空間。入社したばかりの頃、始業三十分前に到着する計算で電車に乗ったら本気で死ぬかと思った。そこでわたしは、始発ごろの電車に乗ることを決めた。寝不足だとしても、電車でゆっくり座って寝ればいい。朝食は、早めに行って職場で食べればいい。そう考え、実際に一年以上それを続けてきた。同じような考えの人は少なくないのか、わたしが乗る電車はいつも席は三分の二は埋まっている。でも、早朝の電車は静かなもの。みんな大体寝ている。それに誘われるように、わたしも静かに目を閉じた。


* * *


 駅に着いたのは六時過ぎ。夜には人ごみでごった返す街も、今は賑やかになったばかり。駅に向かう人々を尻目に、オフィス街へと歩を進め、会社に到着した。いつも通り守衛さんに挨拶をして、人気のない廊下を進んでいく。六階建てのビル、その四階がわたしの職場。チン、と言う軽いエレベーターの音と共に扉が開く。部署の扉を開くと、まだ誰も来ていない部屋はブラインドが下りたまま、薄暗かった。

「んー」

 バッグと羽織ってきたカーディガンを机の上に置き、ブラインドを開ける。少し埃っぽいから、窓も開けておいた。ひんやりした朝の空気に目を細めつつ、みんなの机を軽く布巾で拭いておく。大きな本棚の上をはたきでさっと掃除して、観葉植物として置いてあるサボテンに水をあげる。シュレッダー箱に入っていた不要書類をシュレッダーに掛けて、コピー用紙の入れ替え。去年まではお茶の用意もしていたけど、後輩が入ってからは逆に申し訳なさそうにされるため、何もしない。

「冷蔵庫はー……昨日掃除したからいいや」

 定期的にやっている冷蔵庫掃除。名前が書いていなかったり、危ない色の飲み物を捨てている。でも、それも昨日済ませてある。DBで皆さんの今日の予定を見て、予定表のホワイトボードの日付を書き換え、書きもらしを記入すれば、全部終わり。時計を見ると、もうすぐ七時。席に戻って、お握りを取りだした。若干潰れているけれど、味には変わりはないだろう。

「いっただっきまーす」

 手を合わせて、小さく呟く。朝から働いたので、お腹は良い感じに空いている。ラップの包みをさぁ剥がそう!!とした時。

 ―ガチャ

「神代」

 ドアの開く音と共に、呼ばれた自分の名前。きょとんとして振りかえれば。

「――八阪係長。おはようございます」


 黒のスーツに白いシャツ、藍色のネクタイ。社会人としては至ってシンプルな格好だけど、それが彼の体格の良さを存分に示している。百八十を軽々と越えているらしく、それに見合って長い足はすらりとしている。広い肩幅、しっかりとついた筋肉、厚い胸板。世間で言う『細マッチョ』よりは筋肉がついているけれど、ときめく女性は多いはず。短い黒髪は前髪だけワックスで後ろに撫でつけられている。顔に関しては、涼しげな一重の瞳に薄い唇、高い鼻。バランスは良いけれど、芸能人レベルで格好いい訳ではない。でも、その体格や身長と持っている雰囲気、そしてその地位は十分彼を女性社員に騒がれるレベルにしていた。

 若干二十八歳にして我が経理部の係長である、八阪秀臣(やさかひでおみ)さん。わたしの直属の上司である。


「おはよう。早いな」

「いつも通りですよ。係長は、どうされたんですか?」

 ひとまず立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。すると腰に来る低い声。男性の声にうるさいわたしでも、この声には満点をあげたい。低いのに聞き取りやすく、どこか甘い響きもある。係長の真髄は、体格や顔でなく、声であると思う。(と言ったら同僚に非難の嵐を浴びた)

 わたしと話しながらきびきび動き、自分の机にバッグを置く。隙のなく静かな動きは、学生時代剣道をやっていたからだそうだ。今でも時々、暇なら道場へ行くらしい。

「朝一で会議があってな。その資料を昨晩メールで送ってもらったから、確認しに来たんだ」

「そうなんですか。コーヒーでも淹れましょうか?」

「いや、大丈夫だ。俺のことは気にしなくていい、ゆっくりしていろ」

 この間、係長はずっと無表情。だけど言葉は優しいし、彼は基本的に穏やかな人だ。仕事に関しては厳しいものの、それも部下を想ってがためだし、飲み会などでは部下が多少羽目を外しても許すという心の広さもある。上司としてはまさに理想的な人だ。

 係長の言葉にぺこりとまた頭を下げ、椅子に座る。先程中断したラップを剥がす手を、今度は止めなかった。

 基本的に、経理部で一番早いのはわたしだ。その次が、七時半過ぎ頃に部長付きの先輩。わたしが朝ご飯を食べ終わった頃に来て、一緒に部長の机や部屋を片付けた後、まったり二人でお茶をする。八時を過ぎた頃からちらほら人が増えてきて、九時始業。

 係長はいつも、八時二十分ごろに来ている。時折車で通勤していて、ここからそう遠くないらしい。課長や部長が始業十分前くらいに到着するのに比べて、格段に早い。何とも真面目な人だなぁ、とその横顔をちらりと見つめて、お握りにかぶりついた。梅おかかだ。美味しい。はむはむと夢中になって食べ、そのままもう一つ。水筒から玄米茶を注ぎ、一服。はぁ、と大きく息を吐いてまったりしていると。

「――美味そうだな」

「へ」

 頭上から、声が降ってきた。仰ぎ見れば、いつの間にこんなに接近していたのか、係長がわたしの手元を見ていた。同時に、背後から聞こえるのはきゅう、という可愛らしいお腹の音。

「……係長、朝ご飯は?」

「まだだ。とりあえず仕事を済ませてからコンビニでも行けばいいか、と思ってな」

 ああ、そうか。係長、結婚していなかったんだっけ。頷いて、隣の同僚の席を勧める。首を傾げながらも素直に座ってくれた係長の前に、残ったお握りを置いてみた。係長はお握りと私を順番に見る。

「よろしければ、どうぞ。中身はねぎ味噌なんですが、お嫌いでなければ」

「嫌いではない。しかし、これは神代のものだろう」

「食べたかったんじゃないんですか?」

 にやりと笑って係長を見ると、沈黙された。わざわざ近付いてきてお腹の音を聞かせるなんて、狙っているとしか思えない。残業も多い係長は自炊している暇もないだろうし、たまには人の作ったものも食べたくなるだろう。黙ったままの係長の前に、お弁当も差しだした。さすがにこれには係長も慌てたらしい、首を大きく振られた。

「悪かった、そういうつもりじゃなかったんだ。この弁当は昼の分だろう?俺は部下の飯を横取りする上司にはなりたくない」

「わたしも、お腹を空かせた上司を放っておきたくありません。お口に合わないかもしれませんが、良かったらどうぞ」

「しかし」

 本当に済まなそうに顔を顰める係長だけど、そのお腹は食べたい!と主張するようにきゅううと鳴っている。思わず噴き出してしまった。

「でしたら、いつでもいいので今日のわたしの二食分、奢ってくださいませんか」

「……」

「たまには外食をしたいのですが、お金がないので行けなくて。だからこれは、賄賂としてお納めください」

 いつもお世話になっている上司だ、このくらいならお安い御用だ。だけどこのままでは食べてくれなさそうなので、あえて甘えてみることにした。難しい顔をしている係長にほら、と手で促すと、しばらく黙った係長は小さく「感謝する」と呟いてお握りを食べ始めた。わたしは給湯室から茶碗を持ってきて、玄米茶を注ぎ、割り箸と一緒に係長の前に差し出す。一気に煽ると、今度はおかずに手を伸ばした。男の人らしい食べっぷりに感嘆しつつ、もう一度お茶を注いで無言で見つめる。あっという間に係長は米粒一つ残さず完食し、手を合わせた。

「ごちそうさま。美味かった」

「良かったです」

「ねぎ味噌のお握りだったか、初めて食べたが美味いな。おかずもたくさんあったし、神代は料理が上手いんだな」

「人並みですよ。今日のお弁当は手抜きですし」

 係長が食べ終わって空になったお弁当箱を閉めてくれた。洗ってこようか、という言葉に首を振る。明日もお弁当だし、別にこれくらい構わない。もう一度礼を言った係長は、お茶を飲んだ。

 上司と部下としては今まで付き合ってきたけれど、こうして見ていると係長は随分面白い人に見える。落ち着いた大人の男性だと思っていたけれど、お腹を鳴らしたり生真面目だったり、意外な一面もあるものだ。にやけるわたしに、係長は頭を下げてきた。驚いて、目を丸くする。

「係長?」

「後日、必ず礼はする。本当にありがとう」

「大したことではありません。頭を上げてください」

 それでも顔を上げようとしない係長の肩をとん、と叩く。すると彼は顔を上げた。真っ直ぐな瞳が、子犬みたいに見えて。不意に可愛く思える。五つも年上の男の人なのにな。

 係長はしばらくの間腕組みして黙り込み、困ったような顔をしていた。仕事中に悩んでいるのと同じ顔。もしかして、今仕事モードに入ったんだろうか。邪魔も出来ず、じっと眺めるわたし。数分くらい経っただろうか、彼は躊躇いながら口を開いて。

「……もし、迷惑でなければ」

「はい?」

「金は払うから、また、食べさせてくれないか。神代の飯を」

 思いもしなかった台詞に、目を見開いた。驚いたわたしを、居心地悪そうに眺める係長。だけどゆっくりと話し始める。

「十年程一人暮らしをしているんだが、料理の腕が上がらないんだ。たまには、手作りの飯を食べたい」

 成程。家庭の味に飢える気持ちは、分からないでもない。昔同僚のつわものが、係長に恋人の有無を聞いたら「ここ二・三年は仕事が忙しくていない」と答えたそうな。それで女性社員が盛り上がっていたけれど、とりあえずご飯を作ってくれる人がいない訳だ。ふ、と首を傾げてみた。

「わたし、別段料理が上手い訳ではありません。そんなに手の込んだものも出来ませんよ?」

「そんなことはない、十分美味かった。もちろん、神代も一人暮らしで大変だろうし迷惑なら断ってくれて構わない」

 係長は律儀で優しい人だ。さっきから、何度美味しいと言ってくれただろう。昔から料理は好きだったからやっていたけれど、わたしの料理は何と言うか、主婦の料理。出来るだけ手を抜いて早く美味しいものを作りたいので、凝ったものは作れない。昔恋人に料理を振る舞ったら「おばさんくさい」と笑われたものだ。だから正直、こんなもので美味しいと言ってくれた係長の気持ちが嬉しかった。お弁当づくりは、別に一人分も二人分も変わらない。唯一のネックはお金だけど、払ってくれると言う。

 顎に指を当てて考え込むわたしの瞳を、係長はそっと窺う。無表情ながら、どこか気まずそうなその顔が、何だか笑えてしまった。

「――いいですよ、別に」

「本当か?」

 わたしの言葉を聞いて、無表情、だけど嬉しそうに輝くその瞳。知らなかった。こんなに表情豊かな人だったんだ。まるで弟を見るような気持で、頷いた。

「そんな頻繁には無理かもしれませんが、週に二・三回なら」

「ああ、別に無理はしなくていい。二週間に一回食えれば十分だ」

「それでは、週に一回で手を打ちましょう。材料費は後払いで構わないので」

 わたしの言葉に、こくこくと首を上下に振る。無邪気なその姿は、やっぱり可愛らしくて。緩む頬を隠さずにそのままでいると、恥ずかしそうに目を逸らす。それに今度は声を上げて笑い、立ち上がった。

「さて、それでは熱いお茶でも淹れますね。係長、どうしますか?」

「……頼む」

 いつもは少し面倒臭いとも思うお茶淹れ。だけどどうしてか、今は妙に足取りが軽い。鼻歌でも歌いたいくらいの上機嫌で、わたしは給湯室に向かった。

調子に乗ってのんびり短編。基本的に短編の主人公はこういうキャラが多い気がする……。(マイペース、感情の起伏があまり激しくない)


ちなみに作者は社会経験がありません。会社の描写に関して、おかしい部分はスルーしてくださいorz

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