おきな様の口腔
大きな水門の鉄製の扉を彷彿とさせる、幅だけで10m位もある、上から物凄い勢いで迫ってくるおきな様の前歯を強引に交わした……と思ったのも束の間、前方のモニターに映し出されたおきな様の口内を目の当たりにした途端、船内はどす黒い不穏な気配で覆いつくされ、我々は絶望の淵へ叩き落とされた。
何故なら、おきな様の口腔には、上から下に前歯から喉の奥の方に至るまで、地獄にある剣の山の如く見るからに硬質で鋭く尖った歯が何千本も見渡す限り生えていたからである。
しかも便宜上口の中という表現を使わせて貰ったが、実際は何処迄が口で何処からが喉や食道に当たるのか一切計り知れない、最大直径100m程の大きくて太く、その上ウネウネと大きく波打つ肉の管である。その赤黒いトンネルの奥底に広がる深淵の暗闇が、まるで私達を絶望へと誘うかのようにポッカリと口を開けていた。
突然、肉の壁がピクリと痙攣するように振動し、次の瞬間トンネルがものすごいスピードで一気に収斂した。それと共に何千本もの石灰質の剣が筋肉の収縮と共にネオ・ノーチラス号に向かって襲い掛かって来た。
後ろのモニターへ振り返って確認しても、化物の口は固く閉ざされている。だからそちらの方へは逃げ場がない。そうかと言って、前へ逃げればますます脱出が出来る確率をどんどん減らし、生きて地上へ帰る事が絶望的になってしまう。船内は一瞬の内にパニックに陥った。
だが、そうこうしている内に鋭利な牙が目前に迫って来る。おきな様の力がどれ程あるか計り知れない以上、この船がそれに耐えうるのか判らない。もしも屈した時、その時に私達に待ち構えるのは、『死』の一文字のみである。
私は神に祈った。普段は無神論者でそうした非科学的な物は信じないようにしているにも関わらず、助けてくれ、と神へ祈祷したのだ。藁にも埃にも、掴める物なら何にでも頼りたかった。
他の二人、ジョナサンとポールもそうだったのだろう。わたし達は向かい合い、各々思い思いに手を組んで俯き、遺してきた家族や友人達の事を考えながら最期の瞬間を覚悟した。
だが、その中でまだ諦めていない男がここに居た。操縦桿を握る王林である。
彼は何を思ったのか、凄く真剣な表情で各モニターを見つめると、巨大な白牙が船体に突き刺さる刹那、物凄い勢いでネオ・ノーチラス号を急発進させた。そして本当に僅差で私達は白い剣の雨の魔の手から辛くも逃げ果せたのである。
恐らくヒトで云えば喉元に当たる所だろう。牙の山が途切れ、何も無い肉の襞の上に静かに王林はノーチラス号を停船させた。
恐らく、ここで脱出の機会を伺い、隙があれば怪物の口から外へと逃走する心算であるようだった。
私達は根気強くその時を待った。……と言えば聞こえは良いが、それ程経たぬ内にその時はやって来た。
またしても口内の筋肉が縮み、白い牙の塊が大きくうねったかと思うと、大量の海水が怪物の口内へ雪崩込んで来た。
王林はその場で船を180度転回し、全速前進で外へ向かって潜水艦を走らせた。が、流れ込む水の勢いが強過ぎて、ネオ・ノーチラス号は脱出するどころかその場で留まるのが精一杯な状況だった。
そんなこんなと言っている内に、今度は前方の方から何か巨大で黒い塊がおきな様の口腔へ滑り込み、それと同時にあれ程激しかった水流がピタリと止み、辺りは嘘のように静かになった。
よくよく目を凝らしてそれを見てみると、先程沢山見つけた大きな一つ目の鮫である。それが私達の目の前で牙に下腹を刺されて赤い血を滴らせつつぐったりと横たわり、生気の乏しい大きな瞳をネオ・ノーチラス号の方へ向けている。
唐突に地鳴りのような音が響いたと思った途端、またもやおきな様の口の筋肉が収斂し、鮫に向かって前後左右上下全ての方向から白く輝く刀剣のような鋭牙が襲来した。そして瞬く間に、まるでシュレッダーかミンチ製造機に掛けられたように、鮫の肉体はズタボロになり、細かく縮れた赤黒い肉塊へとその姿を変えていった。
その後、再び口の中の空間が広がった時、ネオ・ノーチラス号と鮫だった何かは、波打つ筋肉によって体内の奥深くへとかなり早い速度で運ばれて行った。
誰も、一言も口にしなかった。ただ静かで冷たい時だけが過ぎていき、暗翳だけがその場を支配していた。