神の住処
潮風が森を抜け、ひんやりとした空気が三人の頬を撫でた。
村長との約束を果たすため、アテルイはカノンと、怯える少女を連れて海辺の村から一路険しい山道を進んでいた。
木々のざわめきは次第に静まり、遠くからまた波の音が聞こえる。岩場に砕ける潮の轟きは、まだ見ぬ神の社へ近づいていることを告げていた。
アテルイは無言のまま歩を進める。黒髪が風に揺れ、剣の柄にかかる手はいつでも抜刀できるよう僅かに力んでいた。
背後を歩くカノンは、白銀の髪を風に任せながらも、鋭い眼差しで周囲を見張っている。
そのさらに後ろ――少女はうつむき、震える肩を小刻みに揺らしながら二人の後をついてきていた。
その名もまだ知らぬ娘。
村人たちに「生贄」として押し込められた、小さな命。
アテルイはときおり後ろを振り返る。そのたびに少女は視線を避け、怯えたように顔を伏せるだけだった。
進むにつれ木立は次第に疎らになり、苔むした岩が姿を現す。小鳥の囀りも消え、風の音だけが耳を打つ。
空気は澄み切っているのに、不思議と肌の奥が粟立つ。まるで、見えざる何かに見られているようだった。
やがて道の先に、奇岩が林立する一帯が広がった。
白緑の岩肌を持つ巨石が荒波に削られ、そそり立つさまは、まるで神々の影がそのまま大地に刻まれたかのようであった。
大小の岩々は整然と並び、海に向かって伸びるその姿は、誰かが意図して築いた社殿の柱にも似ている。
潮風が岩の隙間を吹き抜けるたび、低いうなりが響き、言葉なき祈りの声のように耳を打った。
朝の光を浴びて輝くその光景は、荘厳でありながらも荒々しく、そしてどこか懐かしい気配を孕んでいた。
――その時。
少女が小さくよろめき、石に足を取られてがけ下に落ちるところであった。
「……!」
アテルイは即座に腕をつかみ、引き上げた。
少女の顔は青ざめ、彼女は力なく地面にへたり込んだ。
「疲れたか?少し休もう」
低く問うと、少女は小さく首を横に振ろうとしたが、すぐに力尽きて項垂れた。
カノンが一歩近づき、冷静に告げる。
「……飢えています。見ていられません」
アテルイは短く息を吐き、腰の袋から干し肉を取り出した。固く乾いた肉を小さく割り、焚火を起こすための枯れ枝を集める。
火打石の音が乾いた空気を裂き、やがて小さな焔が灯る。
その火に干し肉をかざし、脂がじゅうと音を立てたとき――少女の瞳が思わず火に吸い寄せられた。
アテルイは串に刺した肉を差し出した。
「食え」
少女はためらい、何度も視線を揺らす。
恐怖、遠慮、そして飢え。相反する感情が小さな身体を縛りつけていた。
カノンがそっと背を押した。
「大丈夫。これは……あなたのために用意された糧です」
やっとの思いで肉を受け取った少女は、唇にそっと当てる。
次の瞬間、抑えていた渇きが堰を切ったようにあふれ、必死に食べ始めた。
火に照らされた横顔は、まだ幼さを残し、痩せこけた頬は痛々しい。
アテルイは黙ってその姿を見つめ、心の奥にわずかな痛みを覚えた。
少女がひとしきり食べ終えると、口元をアテルイがぬぐってあげて名前を聞くことにした。
「いつまでも村の娘というのも変だ名前は何というのだ?」
少女は恐る恐る口を開いた
「カヤ といいます......」
火の粉がぱちりと弾けた。
その声はあまりに小さく、風に消えてしまいそうだった。
「カヤ、か」
アテルイは低く反芻した。その名を確かめるように。
しかし、少女の瞳はなお怯えに濡れていた。
唇が震え、次の言葉を告げる。
「……やっぱり、わたし……生贄にされるのですか?その食べられたりとか」
その瞬間、アテルイの眉がひそめられた。
鋭い眼光が炎に照らされ、怒気がにじむ。
「神が人を喰らうか。……ばかばかしい」
低く吐き捨てるような声に、カヤはびくりと肩を震わせた。
カノンが慌てて間に入り、穏やかな声で補足する。
「……違います、カヤ。
神人は不死に近い存在。数百年を生き、食を楽しむことはあっても、飢えて死ぬことはないのです 村ではそのようなことは教えないのですか?」
カヤはそれを聞くと少し驚いたまだ彼女には怖さが残っていたがカノンの目を見てしっかりと受け答えした
「いっいえ そのようなことは村の巫女様からは神には定期的な供物が必要でそれをおこたれば今のような災いが起こると説明されました。」
カノンとアテルイはそれを聞き少しいぶかしがるがまずはカヤと少し話を続けて心を解くことにした。やがてカヤの緊張がほぐれたときに三人はまた歩き出すととした。
やがて道の先に、先ほど遠目から見た巨石が林立する一帯が広がった。
大小の岩が整然と並び、まるで誰かが意図して築いた神殿の柱のようだ。
朝の光を受けて白く輝き、長い影を落とすさまは、荘厳でありながらもどこか懐かしさを感じた。
アテルイは立ち止まり、吐息を洩らす。
「……これが、“社”か」
カノンが八本の脚をたたみ、岩々をじっと見上げた。
「澄んだ神気が満ちています。……ですが」
「ですが?」とアテルイが促す。
「どこか、荒れているのです。本来なら清らかで静謐である場所は人間たちは敬い手入れをするのですが」
アテルイは黙考し、目を細めた。
確かに、感じ取れる神気は清浄だ。だが同時に、どこかさびれている。
それはこの地を守護する力であるというのに
カヤは二人の後ろで震えながら囁いた。
「私にとっては……とても、怖い場所です……でも、不思議に……綺麗」
その幼い声が、岩に反響して消える。
アテルイは彼女を庇うように立ち位置を変え、剣の柄に手をかけながら歩を進めた。
やがて、岩々の中央にひときわ大きな台座が現れた。
他の石よりも高く、平らに削られたかのようなその場所は、まるで王の座のように異彩を放っている。
その上に――人影があった。
長い髪を肩に垂らし、胡坐をかいて座る存在。
傍らには一本の槍。
岩に凭れながらも、その身体からは眩い神気が立ちのぼり、周囲の空気を支配していた。
白磁のごとき肌に、長く流れる黒髪は月影をまとい、瞳は深い湖の底を思わせる澄んだ光を湛えていた。
だが、その美貌の下に秘められた肉体は決して華奢ではない。肩から腕にかけて浮かぶ筋は彫像のようにしなやかに張りつめ、胸板には密やかに鍛え上げられた力が宿っていた。
美と剛が矛盾なく同居するその姿は、男とも女とも断じがたく、ただ神秘の存在感を放っていた。しかもその清冽な気配は、見る者を惹きつけながらも同時に近寄りがたい威圧を纏っていた。
アテルイは無意識に拳を握りしめた。
背中に冷たい汗が流れる。胸の鼓動は早まり、全身が硬直していく。
アテルイが小さく息を呑む。
「俺とは……まるで格が違う」
カヤは恐怖のあまり、アテルイの衣の端を握りしめた。小さな手が震え、冷たく湿っている。
アテルイは彼女を振り返り、低く言った。
「離れるな」
そして再び前を向き、その存在を見据える。
岩の上の神人は、ふいに目を開いた。
淡い光を湛えた双眸が、真っ直ぐにアテルイを射抜いた。
次の瞬間、その口元がゆるりと笑みを刻んだ。
岩座に胡坐をかいていた神人は、ゆるやかに口を開いた。
「おお……。しばらく人の姿を見ぬと思ったら、まさか同じ神人と会うとはのう」
その声は思いがけず朗らかで、響きは岩壁に反射して柔らかく広がった。
アテルイは驚きながらも、一歩進み出る。
「……この地にきて初めての神人がそなたのような気さくなものでよかった」
「ふふ、そうか。最近は化け物ばかりが寄ってきて、人はめったに来ぬ。退屈でのう。ようやく話し相手が現れたわ」
神人は気さくに笑い、槍の柄を軽く叩いた。
アテルイはわずかに警戒を解き、肩の力を抜いた。
カノンはそれでも警戒を解かず、白銀の瞳を細めて様子を窺っている。
カヤは怯えながらも、その柔らかい声にわずかに安堵の色を見せていた。
アテルイは口を開いた。
「俺はアテルイ。……人間の村の者から、この地に巣食う化け物を退けてほしいと頼まれた」
その瞬間。
胡坐の神人の笑みが、ぴたりと止まった。
空気が変わる。
澄み切っていたはずの社が、突如として荒れ狂う風に包まれた。
岩が軋み、砂が舞い、鳥の影すら逃げ去っていく。
「……村の者から、だと?
……ふん。
わが社の近くで、奇怪なものどもを呼び出していたのは――
あやつらではないか」
神人の双眸に、言葉なき怒気が静かに燃え広がった。
その神気は、アテルイのものをはるかに凌駕し、圧倒的な威圧となって三人を押し潰した。
カヤは悲鳴を上げ、膝を折ってアテルイの背にしがみつく。
カノンもまた、八本の脚を広げてカヤを庇うように立った。
「それと……約束が少し違うではないか何百年もたてば忘れてしまうのは分かるがな」
神人――アラハバキは低く唸るように言った。
「我はこの地を守り続けてきた。何百年も、村を、土地を。
それなのに……別の神を差し向けるとは。愚弄するにも程がある」
言葉の鋭さに、アテルイの眉がひそめられる。
「待て。俺はただ、村人の依頼を――」
「その後ろにいる巫女の服を着た女が偽らざる証拠だ何の力もないものをよこしおって忘れたのか? まぁおぬしの横にいる女でもよいのだがな」
その侮蔑の言葉に、アテルイの眉間が鋭く寄った。
剣の柄を握る指に力がこもり、革がきしむ音が小さく響く。
黒い双眸に宿る苛立ちは、明らかに神人の言葉を拒絶していた
アラハバキが槍を握りしめた途端、澄んでいた空気が急にざわめき、場を包む気配がぴりぴりと逆立った。
そのとき――背後からかすかな囁きが響いた。
――村の老婆の巫女の声だ。
「……アラハバキ様。
幾百年ものあいだ、この地をお護りくださったこと、我ら決して忘れませぬ。
荒ぶる嵐を鎮め、豊穣をもたらし、我らの命を繋いでくださった――その御恩、心より感謝申し上げます。
されど……ゆえにこそ、なお願わずにはおれぬのです。
どうか、その御力を、我ら人のものにも……。
御身の血を、御骨を、ひとかけらでも。
御恩を我らの身に刻み込みましょう――永久に。
どうか……どうか、アラハバキ様……」
アテルイは振り返った。しかし、そこに人影はない。
幻聴か、それとも巫女の術か。
だがアラハバキの眼差しは、さらに憤怒を宿した。
「……やはりな。貴様ら、我を侮るか」
次の瞬間、槍の穂先が稲妻のように閃き、アテルイの目前に迫った。
彼は咄嗟に剣を抜き放ち、軌道をいなす。刃と刃が噛み合い、白い火花が弾け散った。
背後でカノンが素早く銀糸を放つ。しかし神気の奔流に触れた瞬間、糸は弾け飛び、白い火花のように消え去った。
「……くっ」カノンは小さく呻きながらも、再び八本の脚を広げてカヤを庇う。
剣を握り直す手が震え、革の柄がきしむ。
堪え切れぬ苛立ちが胸を突き破り、声はほとんど咆哮に近かった。
「またしても……言葉が届かぬのか!」
雷鳴のような衝撃が再び響き渡った。
だが、一度目とは違う。アテルイは額に汗を浮かべながらも、今度はうまく力をいなし、衝撃を外へと流す。
その余波が大地を揺さぶり、周囲の岩々が一斉に砕け散った。飛び散る破片が雨のように降りかかる。
カノンは瞬時に銀糸を張り巡らせ、カヤを庇った。
全身を焦がすほどの威圧を前にしても、アテルイは退かぬ。
こうして――彼とアラハバキとの死闘が、ついに始まった。




