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追放者アテルイ 異国に刻まれし英雄譚  作者: Toriatama


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3/21

蜘蛛女と少女

 森の奥は、なおも湿り気を帯びていた。

 老木を両断した剣を背に収め、アテルイは苔むした道を踏みしめる。胸の奥にはまだ焼けるような痛みが残り、歩を進めるたびに古傷のように疼いた。


 そのときだった。


 かすかな泣き声が、風に溶けて耳を打つ。

 アテルイは立ち止まり、剣に手をかけた。


「――誰だ」


 木立の陰から、ひとりの少女が飛び出してきた。

 年の頃は十にも満たぬほど。乱れた髪、裂けた衣、泥に汚れた裸足。瞳は涙で濡れ、必死にアテルイの衣を掴む。


「……助けて! 蜘蛛の化け物に食べられるところだったの!」


 その声は震えていた。


「蜘蛛の化け物、だと?」


 アテルイは眉をひそめる。

 この深い森に、どうして子供がひとりで迷い込むのか。胸の奥にわだかまる疑念を抱えつつも、少女の袖を振りほどかずに歩を進めた。


「こっちよ! こっちにいるの!」


 少女はそう叫び、先に立って走り出す。

 アテルイは無言で頷き、その背を追った。


 森は次第に光を失い、枝葉は垂れ下がって道を覆い隠す。足元はぬかるみ、踏みしめるたびに湿った音が響いた。冷たい空気が肌にまとわりつき、森の奥へ進むごとに重く粘ついていく。


 やがて、木々の狭間に黒い裂け目のような洞窟が現れた。

 岩肌を伝う水滴はまるで涙のように滴り、口からはひやりとした風が吹き出している。鼻を刺す鉄錆の匂いが漂い、奥には人ならぬ気配が潜んでいるのが分かった。


 少女は足を止め、指さすように囁く。

「……ここに、化け物がいるの」


 その声音は震えていたが、どこか濁った影を含んでいた。

 アテルイは胸の奥に巣を張った違和感を拭えぬまま、剣を握り直して一歩を踏み入れる。


 洞窟の中は意外にも整っていた。

 岩肌には人の手で削られた痕があり、壁際には火を灯した跡の残る石台。さらには銀糸を巻き取る織機が据えられていた。冷たい月光を閉じ込めたような糸束は、怪物の巣というより“暮らし”の気配を漂わせていた。


 しかし同時に、場違いなものも目に入る。

 岩に打ち込まれた鉄の枷。鎖はまだ新しく、ここが牢であったことを告げていた。


 アテルイの疑念はますます濃くなる。


 そして奥へ進んだ彼の視線に映ったのは――。


 上半身は人の女、腰から下は八本の脚がのたうつ異形。

 アラクネ族の女が、鎖に繋がれたまま震えていた。


「早く! あれを殺して!」

 少女が背を押すように叫ぶ。


 アテルイは目を細める。

 蜘蛛の化け物の足首には赤黒い痕が刻まれていた。長く鎖に縛られていた証。

 そして――少女の纏う衣は、蜘蛛の糸で織られたものであった。


 胸の中の疑念が、確信に変わる。


「……おかしいな」

 アテルイの声が洞窟に低く響く。

「なぜおまえは、この地で俺の言葉を理解できる? その衣はなぜ蜘蛛の糸で織られている? 本当に囚われているのは、どちらだ」


 少女の顔がこわばった。

 だがすぐに涙を装い、か細い声を作る。

「わ、わたしは……ただ助けてほしいだけ……」


 アテルイは一歩踏み込み、切っ先を地に向けたまま視線を鋭く突きつけた。


「偽りをやめろ。おまえは何者だ」


 少女の瞳に、冷たい炎が灯る。

「……黙って人の言葉を信じればいいものを」


 その声は幼子のものではなかった。

 洞窟に響く怨嗟の吐息は、老木の嘲笑に似て濁っていた。

 次の瞬間、少女の姿は影に溶けるように掻き消える。


 残されたのは、鎖に繋がれた蜘蛛の化け物だけだった。


 アテルイは深く息を吐き、剣を振り下ろす。

 硬い音とともに鉄鎖が砕け、火花が散った。


 女は崩れ落ち、かすれ声で呟く。

「……あなたは……敵では……ないのですね」


 アテルイは剣を収め、低く答える。

「真実を聞かせてくれ。ここで何があったのか――そして、あの“少女”は何者なのか」


 洞窟の奥で蜘蛛の糸が風に揺れ、かすかな囁きが木霊する。

 それは、森のさらに深い闇を告げる予兆のようであった。

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