蜘蛛女と少女
森の奥は、なおも湿り気を帯びていた。
老木を両断した剣を背に収め、アテルイは苔むした道を踏みしめる。胸の奥にはまだ焼けるような痛みが残り、歩を進めるたびに古傷のように疼いた。
そのときだった。
かすかな泣き声が、風に溶けて耳を打つ。
アテルイは立ち止まり、剣に手をかけた。
「――誰だ」
木立の陰から、ひとりの少女が飛び出してきた。
年の頃は十にも満たぬほど。乱れた髪、裂けた衣、泥に汚れた裸足。瞳は涙で濡れ、必死にアテルイの衣を掴む。
「……助けて! 蜘蛛の化け物に食べられるところだったの!」
その声は震えていた。
「蜘蛛の化け物、だと?」
アテルイは眉をひそめる。
この深い森に、どうして子供がひとりで迷い込むのか。胸の奥にわだかまる疑念を抱えつつも、少女の袖を振りほどかずに歩を進めた。
「こっちよ! こっちにいるの!」
少女はそう叫び、先に立って走り出す。
アテルイは無言で頷き、その背を追った。
森は次第に光を失い、枝葉は垂れ下がって道を覆い隠す。足元はぬかるみ、踏みしめるたびに湿った音が響いた。冷たい空気が肌にまとわりつき、森の奥へ進むごとに重く粘ついていく。
やがて、木々の狭間に黒い裂け目のような洞窟が現れた。
岩肌を伝う水滴はまるで涙のように滴り、口からはひやりとした風が吹き出している。鼻を刺す鉄錆の匂いが漂い、奥には人ならぬ気配が潜んでいるのが分かった。
少女は足を止め、指さすように囁く。
「……ここに、化け物がいるの」
その声音は震えていたが、どこか濁った影を含んでいた。
アテルイは胸の奥に巣を張った違和感を拭えぬまま、剣を握り直して一歩を踏み入れる。
洞窟の中は意外にも整っていた。
岩肌には人の手で削られた痕があり、壁際には火を灯した跡の残る石台。さらには銀糸を巻き取る織機が据えられていた。冷たい月光を閉じ込めたような糸束は、怪物の巣というより“暮らし”の気配を漂わせていた。
しかし同時に、場違いなものも目に入る。
岩に打ち込まれた鉄の枷。鎖はまだ新しく、ここが牢であったことを告げていた。
アテルイの疑念はますます濃くなる。
そして奥へ進んだ彼の視線に映ったのは――。
上半身は人の女、腰から下は八本の脚がのたうつ異形。
アラクネ族の女が、鎖に繋がれたまま震えていた。
「早く! あれを殺して!」
少女が背を押すように叫ぶ。
アテルイは目を細める。
蜘蛛の化け物の足首には赤黒い痕が刻まれていた。長く鎖に縛られていた証。
そして――少女の纏う衣は、蜘蛛の糸で織られたものであった。
胸の中の疑念が、確信に変わる。
「……おかしいな」
アテルイの声が洞窟に低く響く。
「なぜおまえは、この地で俺の言葉を理解できる? その衣はなぜ蜘蛛の糸で織られている? 本当に囚われているのは、どちらだ」
少女の顔がこわばった。
だがすぐに涙を装い、か細い声を作る。
「わ、わたしは……ただ助けてほしいだけ……」
アテルイは一歩踏み込み、切っ先を地に向けたまま視線を鋭く突きつけた。
「偽りをやめろ。おまえは何者だ」
少女の瞳に、冷たい炎が灯る。
「……黙って人の言葉を信じればいいものを」
その声は幼子のものではなかった。
洞窟に響く怨嗟の吐息は、老木の嘲笑に似て濁っていた。
次の瞬間、少女の姿は影に溶けるように掻き消える。
残されたのは、鎖に繋がれた蜘蛛の化け物だけだった。
アテルイは深く息を吐き、剣を振り下ろす。
硬い音とともに鉄鎖が砕け、火花が散った。
女は崩れ落ち、かすれ声で呟く。
「……あなたは……敵では……ないのですね」
アテルイは剣を収め、低く答える。
「真実を聞かせてくれ。ここで何があったのか――そして、あの“少女”は何者なのか」
洞窟の奥で蜘蛛の糸が風に揺れ、かすかな囁きが木霊する。
それは、森のさらに深い闇を告げる予兆のようであった。




