7 回廊
どのくらい、そうしていたのだろう。私は泣き疲れて眠ってしまったのかもしれない。
長い長い喪失感の中から、突然見えた希望を、私は今こうして暖かい腕の中で享受している。
「ありがとう、アスくん……」
私はようやく振り絞った声とともに、アスクレーの顔を見上げた。
「落ち着いたかい? とても悲しい顔をしていたから」
アスクレーは私から腕を離し、そっと顔に手を当ててくる。
「うん、平気……聞いてくれてありがとう」
私はどうにか心を強く持とうと思い、涙を拭う。
こんな自分勝手な異星人の、取るに足らない話など、アスクレーにとってはほんの些細な、瑣末なことだろう。
私は少し自己嫌悪に陥りつつも、どうにか笑顔を作ってみせた。
「未来、そんなに強がらなくていい。君はもう、なにも考えなくていいんだ。今は、楽にして」
アスクレーはあくまで私を甘やかそうとするけれど、そのすべてを受け入れていいものか、私は迷ってしまう。
私はまたグラスの炭酸水を一口飲み、アスクレーと向き合った。
「ごめんね、もう大丈夫だよ」
そう言うと、アスクレーは軽く微笑むように目を細めた。
「よかった。じゃあ今度は、ボクが未来にお話をするね」
そう言ってアスクレーはまた足を組み、今度は両手を組んでテーブルに肘をついた。
私に顔を向けながら上げたその表情は、少し影を落とした真剣なものだった。
私は背筋を伸ばし、アスクレーに真面目に向き合った。
「まず、この世界について話をしよう。この世界には、未来のようないわゆる『生命体』は存在しない。
ボクも、あくまで未来に合わせて作られた存在なんだよ。ここまでは、なんとなくわかるよね?」
アスクレーは一旦、私に確認をとる。私は「もう驚かないよ」という仕草をするように、OKのサインを出して頷いた。
「うん。次に――この惑星には、生命体や物質は存在しないんだけど、あらゆる事象や物事の“概念”、
そして未来のような“生命の奥底にあるもの”が、ここには存在している。それを今は『ルール』と呼ぼうか」
きっと、地球でいうところの「ルール」とは違う意味なのだろう。
私はこの先にアスクレーが語ろうとすることから、それを読み取ろうと決めた。今はまず、全部を聞く。
「そしてその『ルール』があることによって、この惑星はすべてが成り立っている。
未来は、たまたまその姿かたちでここまでたどり着いたんだろうけど……でも、深く考えなくていい」
だんだん、話の内容が分からなくなってくる。
でもアスクレーは、何かを誤魔化そうとして話を曖昧にしているような素振りはなかった。
「ボクは未来の世界――地球でいうところの『審判』だと思ってくれていい。
学者であり、科学者でもあるけど、ボクのやるべきことは常に決まっている。それを『零』と呼ぼう」
アスクレーの言うことは、すべて抽象的だった。
でも今の私にとって、むしろ現実的で具体的なことや、この異星における専門的な説明をされても、きっと理解はできない。
「今はこれでいい」と、自分に言い聞かせる。
「未来は今まさに、その『零』に従ってここに来たんだ。
そして、今ボクに言えることはここまでかな。未来が理解できる範囲……と言ってもいい」
なんとなく、わかったふりをしてみた。
アスクレーは、私のそんな気持ちを知ってか知らずか、にこりと微笑んだ。
これ以上説明されても、ますます混乱するだけなのだろう。それもそうだ。今聞いた範囲ですら、ほとんど理解できていないのだから。
ただ、私は頭の中で仮説を立てようとしていた。
「まって、未来」
ふと、思考を止められた。――あれ?
いま、私は何を考えようとしていたんだろう。
アスクレーの説明から導き出そうとした“ある仮説”だけが、ぽっかりと抜き取られたような感覚だった。
「まだ、確認することがあるんだ。一旦落ち着いて聞いてくれるかい?」
我に返った私は、アスクレーの言われるままに姿勢を正し、その瞳を見つめる。
「君にこれから、あるものを見せよう。
それを見て、何を感じたか、何を思ったか――あとで聞かせてくれる?」
アスクレーが何を見せようとしているのか、正直に言って怖かった。
少しだけ、そんな予感にも似た不安と戦慄を覚えながら、私はアスクレーの差し出す手を取り、立ち上がった。
一瞬にして、場所――というか、目の前の光景が移り変わる。
そこは長い長い回廊のような場所で、横幅は広いが天井はそれほど高くなく、円を地で切り取ったような簡素なドーム状の構造だった。
アスクレーは私の手を握ったまま、少しずつ歩き出す。
私は、さっきのような舞い上がる感情はなく、どちらかと言えば、これから何が起こるのかという落ち着かない気持ちでいっぱいだった。
「未来、いいかい?」
アスクレーが言う。私は相変わらず不安を抱いていた。
「いいかい」と言われても、なにをどうすればいいのか分からない。そう思った、その瞬間。
「……え?」
ドーム状の長い回廊に、さまざまな映像が映し出された。
そこには、私が地球にいた頃に見た古い資料の映像や、小説・文献などで読んだことのある――中世から近代にかけての映像が並んでいた。
「これは……」
私は言葉を失っていた。
まず最初の印象として、これは“誰かの視点”であるということ。
私が日々を過ごしていた時代の服や髪型、ビルの構造や歴史的施設ではなく、明らかに古い時代。
言ってみれば1600年から1800年代ほどだろうか。
そこから時代背景は分析できた。
けれど、ではこれは誰の見たものなのか?
映画のような俯瞰視点ではなく、明確に“主観的な視点”であることが、私にはわかった。
私はアスクレーに手を引かれたまま、歩みを止めることなく進んでいく。
映像はどんどん時代を進めていった。私はその変化に違和感を覚えながらも、先ほどまでのような不安は消え、むしろどこか楽しんでいる自分に気づいた。
音声はなかった。
けれど、不思議と声やノイズが、脳内で自然に再生された。
それは勝手に作られたものではない――“感じる”ことができたのだ。
私たちはさらに回廊を進んでいく。
映像の時代もどんどん近代に近づいていく。
私はもはや、歴史的資料あるいはシネマを見ているような感覚で、楽しみはじめていた。
きっと今の私の表情は笑顔で、ふわふわとした気持ちで、それらを見つめている。
アスクレーは、そんな私の顔を時折覗き込み、優しく微笑んでくれていた。
――しかし。
そんな浮ついた時間にも、終わりが来た。
凄惨な戦争の映像が流れ始めた。これは1900年代の、いわゆる“近代戦争”の始まりだろう。
映像には、軍事に関する開発の現場や研究の様子が映し出される。
私は、久しぶりに“研究者”としての心に火が灯るのを感じた。
ますます私の目は輝きを帯びていたことだろう。
あんなにも忌み嫌っていた軍事研究を見て、これほど胸が高鳴るものなのかと思った。
まさに、欣喜雀躍。
でも、違った。
こんなことってあるのか。あまりにも非道じゃないか。
無慈悲で、残酷じゃないか――
私は、次に流れてきた映像に、思わず目を伏せた。