4 遭遇
きっとそれは、私の作り出した『自己像幻視』のようなものなのかもしれない。ただの夢なのかもしれない。それらは常に『自分の都合の良い解釈』で生まれたものにすぎない。
しかし――私がいま目の前に見ているもの、感じているものは、夢でもなければ、なにかこう、ふわっとした概念的な何かでもない。
ほっぺたをつねって痛い、なんていうありきたりな現実回帰目覚まし法を私はとらない。その目の前にある「それ」と、私は確かに対峙している。
「…………」
私は立ち尽くす。待つ。その物質が、なにか反応を示すまで――私は、ただ待った。
『…………ホシノ…………ミキ…………』
ようやく、言葉のようなものが発せられた。まだ“声”ではない。当然だ。声を出す器官など、そこには存在しないのだから。
私は、こちらからアプローチを試みた。
「あなたは、さっき私に語りかけてくれた……ひと? ですか? 私が星野未来です。さっきも言いましたが、地球という惑星から来ました。私の身体を治してくれてありがとう。本当に感謝しています」
私は続けた。たくさんの言葉を投げかける。
「地球には重力というものがあって、いま私がこうしてふわふわと浮いている状態は、とても辛いです。そして、呼吸という生命維持に必要不可欠な大気も、この場所には存在しません。このままでは私は死んでしまうんです」
私は、地球に関する事柄を適当に説明していった。人間とは、環境耐性が極端に低く、ほんの少しの変化で命を落としてしまうほど脆い生き物なのだと。
すると、突然――私は強いGを感じた。とっさに全身の筋肉に力を込めるが、久しぶりの動作でうまく身体を制御できず、そのまま落下に身を任せる形となった。
だがその「なにものか」が、私を受け止めてくれた。
砂のような感触――いや、布団のような柔らかさとも違う。さらさらとした感覚で、私の身体に合わせて形を変えていく。そこは地面と呼ぶには曖昧すぎる場所だったが、私は着地することができた。
私は立ち上がった。何年ぶりだろう。足が痛い。ふくらはぎの筋肉がまったく発達していないのか、足の裏が信じられないくらい痛む。たまらず、私はへたり込んでしまった。
いつの間にか呼吸も安定していた。きっと、この空間に大気が生まれたのだ。自在に環境を操れる存在なのかもしれない。私は、そうした変化にまだ頭が追いついていなかった。
「ありがとう……でも、身体がキツいな……あはは」
私は思わず、少しだけ愚痴をこぼしてしまった。せっかく私に合わせてくれたのに……そう思い、少し反省する。
「ごめんなさい。実は私、数年間病気で、ほとんど身体を動かせなかったの。久しぶりすぎて、この重力についていけないの」
「…………カラダ」
反応があった。興味を持ってくれたらしい。
「私は、16歳の高校生です。……なんて言えばいいのかな。まずは“人間”の説明をしますね」
私は人体について説明しはじめた。組織、臓器、視覚や聴覚といった感覚、そして「自我」という“心”の存在について。
どれだけの時間を費やしただろう。私は自分の知識を手繰り寄せ、これまで言葉にしたこともないことを、自分の声で語った。話していくうちに、自然と自分自身の思考が整理されていき、自分という存在を改めて理解し、人間や科学についても学び直す必要があると感じた。
「…………ミキ……未来」
ハッとした。
今、明らかに「なにものか」の反応が変わった。きっと私の言葉や感情を学習しているのだろう。
少し疲れていた私の心に、再び火が灯った気がした。
「そう! 私は未来! 星野未来っていうの! あなたのお名前は? 姿はないの? お願い、いるなら……現れてほしいの!」
私はその一瞬を逃さないために、必死に言葉を紡いだ。気づけば、私は立ち上がって、拳を握っていた。
「未来……ワタシハ……アスクレー」
喋った。ようやく、会話が成立した。ちゃんと文法になり始めている。
「アスクレー? アスクレーさんっていうの? あなたはこの惑星の人なの?」
私は祈るような気持ちで問いかけた。お願い、もっと喋って。もっと知りたい。私はさらに質問を重ねた。
「ワタシナハ アスクレー コノワクセイノ カガクシャ 未来ト イッショ」
途切れ途切れだが、ちゃんと文になっている。それに「一緒」と言ってくれた。科学者なんだ――。なんだか、強い共鳴を感じた。
「アスクレーさん、私を治療してくれたのは……あなたなの?」
「未来 ワタシは 未来を チリョウした 未来は カタマッテイタ」
ちゃんと私の言葉を理解し、治療をしてくれたらしい。
私はまた、たくさんのことをアスクレーに話しかけ、言葉を覚えてもらっていった。
数時間前に感じていた疲れや気持ちの重さは、すっかり消えていた。
人間は、疲れる。空腹にもなる。人間ってとても非効率な生物だということも、アスクレーには伝わったかもしれない。
また、さらに数時間が過ぎたと思う。アスクレーとの会話はとても新鮮で、楽しかった。気持ちも、少しずつ通じ合ってきているように思えた。
私は、こんなふうに自分の口で言葉を交わせることができるようになった喜びに満ちていた。ときおり、自分が病気を抱えていたことすら忘れるほどに。
身体が自由に動く。自由に言葉を話すことができる。
そんな「人間として当たり前」の行為が、これほどまでに嬉しく、活力となり、心の奥から湧き上がるような思いになれるとは、かつての私は想像もできなかった。
『未来ちゃん 元気でいてね』
――母の最期の言葉を思い出す。
宇宙船の中で、何度も思い出し、繰り返してきた言葉だった。「元気」とは何かと、あの頃の私は思っていた。
けれど、いまの私は――元気だ。断然、元気だ。
そうして私は、いつの間にか、静かに眠りについていた。