2 果てしない旅
今日この日、この時間、地球人としての私は死ぬ。
西暦22XX年、七月某日。私だけでなく、父にとっても、人類にとっても初の試みである『人体冷凍保存星間飛行』の実証実験が行われる。
自宅にはさまざまな研究施設と機材が備わっていたが、今はこの宇宙科学研究所へと私たちは移されていた。
横たわる私のそばには、『7光速星間飛行宇宙船』がある。
コールドスリープ装置に私の肉体は収められ、最後の対話を父と母と交わす。
「未来ちゃん、元気でいてね……」
母は嗚咽まじりに私へそう言った。
元気とは、なんだろう。私は生まれてから運動らしい運動をしたことがなかった。
「……」
私はごくわずかな表情だけで、母に答えた。
もうすでに、私は笑うことすら許されない身体だった。
そんな私を見て、何を思ったのか――母はふっと、穏やかに笑顔を滲ませた。
「未来、これで最後になるが、わたくしからいくつか言っておくことと、ひとつだけ訊いておくことがある。いいかい?」
父が問いかけてくる。
父は相変わらず研究者としての表情を保っていたが、今日この日は、いつもよりいくぶん冷淡さが和らいでいた。
私は、脳波で父に直接了解の意を伝えた。
「まず、コールドスリープが起動したら、君は即座に心停止する。すなわち、未来の息は絶える」
心停止――それは血液の循環が止まり、脳への供給も途絶えるということ。つまり、すべての細胞が止まり、私の肉体は事実上“死ぬ”。
「そこで、わたくしは未来の『意識レベル』を0.1%だけ持ち堪えられるように、この『7光速星間飛行宇宙船』の「深層意識大脳電極装置」に、君の大脳を接続しておくことにした」
……なんだ、それは。
私の意識に“連続性”を持たせてくれるというのか?
「ははは、そんなことはできないけどね。ただ、ほんのわずかだけ『自分』というものを保つことはできるかもしれないよ。少なくとも未来は、『未来』であるということを認識できるくらいには」
なるほど。昔読んだことのある『コミック』に、そんな描写があった。
それは遥か昔の日本の週刊誌に掲載されていた、歴史的にも科学的にも非常に有用で、学術的価値すらある『漫画』だった。
主人公の男の子が、石化した何千年もの間、脳内でずっと秒を数え続けていたという、印象的なシーン――私はそれを思い出し、心の中でふっと笑ってしまった。
カウントはできないかもしれない。
けれど、自分がどこに向かっているのか、どれほどの年月が過ぎたのか、何を考えたいのか――そういったさまざまなことが、『宇宙船』の中に刻まれるかもしれない。
「未来は、それでもいいかい?」
父は、何を危惧し、何を心配してそう言っているのだろうか。
もし意識が完全に途絶えるのなら、それは死と同義であり、そのまま宇宙の藻屑となるのとなんら変わりはない。
けれど、わずかでも意識を保てるのなら。
わずかでも何かを感じられるのなら。
それは、私の夢だった『宇宙旅行』の気分を味わえるのではないだろうか。
「……」
私は脳波で、父と研究員たちに『OK』の返事を送った。
そのとき、父とその他の面々に、わずかだが笑顔が浮かんでいた。
――あのときの私は、未熟だった。
* * *
いよいよ、飛び立つ瞬間を迎える。
この模様は、全世界へ向けて同時生配信されている。
なお、2000年初頭に発見され、2100年代には生物が確認できなかった、地球からもっとも近い惑星は、今回の対象からは外されていた。
カプセルのハッチが閉じられ、各種物理ロックがかけられる。
そしてコールドスリープ装置が起動する。
このカプセルはそのまま『7光速星間飛行宇宙船』に収められ、最後の扉が閉じられた。
その閉じる直前、私は母の表情を見た。
それは――とても、悲しい顔だった。
そして、私は人間としての意識を手放した。
* * *
あれから、どれくらいの時が経ったのだろう。
何百年、何千年、何万年、何億年――わからない。
いつか思い出していた『漫画』のように、私はカウントなどできなかった。
それどころか父の想定外だったのか、あるいは想定内だったのか――
私は、父と研究員たちの技術力の高さに、ただただ感心するばかりだった。
なぜなら、私は意外にも、意識をしっかりと保てていたからだ。
あの時の父たちの笑顔はこれだったのか。
だとしたら、かなり意地悪ではないか。
卑怯ではないか。
この今、私が感じている感覚を、彼らは予測していたのだろうか。
もしそうなら――かなり人が悪い。
今すぐにでも、恨み節のひとつもぶつけてやりたい気分だった。
私はこの“孤独”とずっと戦い続けていた。
寒いとか怖いとか、そんなごくわずかに感じられる“普通の感情”ではなかった。
ずっと、ずっと――
このまま何年も、何億年も、何兆年も、
ずっとずっと、『独り』という孤独と闘い続け、果てしない銀河を超え、
いくつもの宇宙の果てを旅し、どこにたどり着くかもわからないこの“孤独の旅”を、私はいつまでこのまま続けなければならないのか――
私は、ときおり地球での記憶を思い出していた。
この宇宙に比べれば、この旅の年月に比べれば、本当にごくごくわずかだった、十六年間という短い人生。
その中で経験したさまざまな出来事や、考えていたことを、何度も何度も思い返していた。
今の私は、きっと目を閉じ、身体は丸まり、息をすることもなく、汗をかくこともなく、
カプセルに収められたままの存在。
もはや“人間”などという生命体とは呼べない。
ただの――肉の塊だろう。
意識は脳の電気信号だけを、特殊な方法で維持しているだけだった。
ある時から、ずっと思っていた。
母に会いたい、と。
お母さんの優しい手で、
いつもマッサージし続けてくれた、あの慈しみに満ちた素肌で、
もう一度――母に、触れたい。
こんなことなら、意識レベルなんて切ってもらった方が、よほどマシだった。
自分で切れるわけもなく、
この思い続けてしまう脳の働きを止めることもできず、
さりとて、この果てしなく彷徨う美しい宇宙を眺めることもできず――
私はただただ、孤独の旅を続けるしかなかった。
こんなことなら……
こんなことなら……
何度も何度も、そう思い続けた。
私には――選択肢など、もう、残されていなかった。