その復讐
これを書く私の机の隣には彼の死体が転がっている。見るに堪えない酷い有様の死体である。彼は私を長年苦しめた、少し違うかもしれないが、仇である。その少しの違いのせいかわからない、私は晴れ晴れしさとはほど遠く暗鬱を抱えていた。長年のものが彼の頭皮に固まった黒い血のように、私の心を塞ぎ込んだのだ。
彼は簡単に言えばいじめの首謀者だった。私が中学生の頃、彼らはことあるごとに一人ぼっちだった私を教室の壇上に立たせてはあることないことで騒いだ。少しでも私が嫌がればトイレまで引き摺って、腹や足を蹴ったりした。私が絶望して泣きそうになると、それを嘲笑いながら私のその惨めな面を便器に押し込んだ。彼らが私をそうしたのは、ある意味他のクラスメイトへの見せしめでもあっただろうか。私を貶めるとともに、クラスメイトを脅していた。
私はその残酷な毎日を続けた。反抗してもさらに殴られるだけだっただろうし、私はその生まれゆえに手を出せなかった。だから教師にも、もちろんクラスメイトにも助けを乞わなかった。どうせ無駄だろうという予感よりも、親に知られるのを恐れたのだ。
私は父が議員の長男に生まれた。地域のあらゆるところに影響力を持つ、偉大な人物だった。父はよくその功績を家族に自慢して、特に私にそんな風な大人になれとよく言っていた。そういって私を育てていた。私はそんな父に憧れを抱くとともに、恐れた。もしも私が何かいけないことをすれば、父の名誉に傷がつく。同時に私を憐れむ気がした。父だけでなく母も弟も。私は父の長男でなくなることを恐れたのです。だから私はいじめのことを告白しなかった。幸い、父のその勇敢な面の裏には一点の陰りもなく、私の秘密にも全く気付いていなかった。
こう思い返せば私は強い人間だったかもしれない。実際にそうだった。私は生まれながらに賢かった。目の前のどうしようもない苦難よりも未来を常に見て、身体のあらゆるところにできた痣を無視して勉学に励んだ。そこにはもちろん彼らへの復讐心もあった。でもそれはあくまで父の築いた家系を崩壊させてはならない杞憂を後押しするだけのものだった。私は痣の痛みが気にならないくらいに机に向かって、気になればわからないことで頭を一杯にして隠した。どうせそこに浮かんでくるものは穢い便所だったから。
私の勉学は成就した。東京の大学に行って今までの陰鬱が嘘のように晴れ晴れとした学生生活を送りました。そこで初めて友人ができて、その後に彼らと一緒に仕事をするようになったのですが、気持ちよく社会に貢献できたのは彼らのおかげでした。それとここで今の奥さんと出会いました。ほんとうに人生の春を謳歌できました。
大学を卒業して私は友人と企業して、うまく事業を拡大させました。かなりの大金持ちになったので、色んなところで名が通るようになって、ここまでくると過去の暗い青春がまるで無かったかのようでした。もちろん私のこの名誉は故郷にも轟いており、私の無残な姿を見て見ぬふりしていた輩がここぞとばかりに友人がってメールをしてきました。もちろん読まずに捨てましたが。
私の人生はかつてないほどに順風満帆でした。それを父に自慢すればどうだろう。私は家族の英雄みたいに扱われるに違いない。私はある夏に友人からちょうど休暇を貰ったから、その企みを実践してみることにしました。しかしこれが私の人生をこの歪な部屋に連れ込むきっかけになるとはこの時の私は全くわかりませんでした。
晴れ渡った空と照りつく太陽、蒸し暑いコンクリートの熱。駅から出た私を迎えたのは懐かしき故郷の夏だった。久々に掻いたジメジメした汗もその時、ここに来ると愛らしい。私はもう少しだけ故郷の景色に汗を掻きたくなったから、タクシーを呼ばずに歩くことにした。
足がなかなかにバテ始めた頃だろうか。坂の上から何人か、知ったような知らないような顔が通り過ぎた。あの人たちは私のことをよく知っていた友人であったはずなのに、こう目の当たりにすれば、知らぬふりで坂を下っていった。あれらの信念の無さが、転がり落ちる彼らに見えた。
そうして私が違った色の汗を流していたら、悍ましい声が山のほうから響いてきた。そう、彼だった。ペンキだか泥だかに汚れた作業着を行儀よく着ていた彼が元気よく私に手を振っていたのだ。私は悚然とした。まるで旧来の友人のごとく、馴れ馴れしく私のところに寄ってきて、砂の付いた手で簡単に肩を叩いてきたのだ。私の顔からは栄光が剥がれ落ちていただろう。見たことのある顔を私が曝け出してしまうと、彼はにこやかに笑った。「そんな顔すんなよ」と。
私はなんとか喉から出せるだけの言葉を出して、さっさと彼と別れた。願う事ならもう二度と彼と出会わないように、愉快そうに坂を転がる彼を私はまじまじと見ていた。彼の手にぶら下げていたペンキのバケツの中に私の今までの血と涙が混じっている気さえした。
ほどなくして私は依然と変わらず顔を作って、家族に会って色々と話をした。彼との遭遇のせいで、期待していた気持ちは全く訪れず、私はただ機械のように音を出した。
そのとき、私は数週間だけ実家でくつろいだらすぐに帰った。とくにすることもなかったけれど、彼の影がどうしてもここの空気を吸うと過って止まなかった。私は最後は逃げるように去った。そのときはタクシーを使って。
しかし運命は断ち切れなかった。それから数年して、父が逝去した。突然のことだから戸惑ったが、そのせいで私が故郷で暮らさなければならなくなったこと、父のしていた事業を継がなくてはならなくなったさらに戸惑った。こればかりは私以外にさせてはならない遺産だったから、私は友人にあとは任せて故郷に戻った。
仕事のほうは順調に進んでいた。色々してきた私にとっては退屈が一番の困難とさえ言えるくらいに、簡単なものだった。だから実家で適当に過ごすことも多かったのですが、ある日の真夜中、母が寝ていた私を起こして「友人が来ているよ」と迷惑そうな顔をした。私も同じくそうした顔をして、玄関まで階段を下りた。そこに居たのは、数年前とは比べ物にならないほどに痩せこけた彼だった。しばらく誰ともわからないほどに、彼の姿は貧相になっていた。私が戸惑う間もなく、彼はその姿に似合ったセリフを、「しばらく食べてないんです。お願いです」と懇願した。私は害虫を見るような嫌な顔をする母を後ろに、少し考えたが、人間としての情か自分の持て余した身分に威張ったのか、私は了承した。すると母は嫌ながらも彼が風呂に入っている間に、色々と料理を作って食わせた。私がやろうとしたのだが、母にもプライドがあったみたいで、頑なに断られた。そうされて私は少し後悔した。
私はどうでもいいながらさっさとご飯を食べ終え、去ろうとする彼に、境遇を訊いた。彼は云いたく無さげだったものの、それがお礼になるとならといわんばかりに消えかかるような声で話し始めた。私は彼の家庭がそこそこ裕福なことを知っていた。彼の家系にも立派な財産があることも。それが彼の父が亡くなって、継いだ彼が悪い輩に騙されて取られてしまったらしい。彼は今、借金まみれで仕事も無い。彼のその小さい態度は、かつての自分の横暴の愚かさを後悔しているからだろう、ペンキ屋も彼の父の財産だったらしいが、それも同じくしてなくなったと彼は呟いた。
私はそこにいる男の変わりように同情してしまった。こんな男、死んでしまえばいいと憎める様ななりではなかったのだ。私のかけがえない時間を穢した男とはどうしても映らないほどに、彼はあらゆる不幸を背負った身なりに見えてきたのだ。そうであっても私の心情は複雑だった。憎めみたくとも、私の純情はそうさせず、もどかしい。私はその困り果てた浮浪者に財布に入っていた札を全部渡して「今日はどこかに泊れ」とだけ気遣って帰した。彼は俯き、弱弱しく涙を零しながら私を拝むようにして手を合わせると、去っていった。
このときだけで因縁が終わればよかったものの、このときから彼はことあるごとに私の家に来て困ったような風をし始めた。彼は自分からは助けてほしいとは言わないものの、私の情けを煽ってそうさせようとしてきたのだ。その企みはわかりきっていたのだが、それも浮浪者ゆえだろうと、私はしばらく彼に優しくした。もちろん情けもたび重なれば疎ましくなる。
私はついにうんざりして彼の借金を肩代わりして彼を追い出した。彼はわざとらしく感謝だけはするが、どこか信用ならない。簡単に土下座してきたからだろうか。その鬱憤もこの金で無くなるのならマシだろうと私は思い込んだ。現にこれから厄介ごとは無くなった。彼が私の前に姿を現すことは無くなったし、もはや彼の噂すら聞かなくなった。
そうして今日に辿り着いた。彼をちょうど忘れた頃になった、豪雨吹き荒れる夜中。私は最近患った胃痛のせいで、よく眠れずにいた。それが幸いしてか、雨とは異なる特徴的な音が枕元から響いてきた。玄関からである。気のせいかとも思った。ただ父が亡くなってより、隣の部屋で眠る母を憐れんで久しい。私は自分の安全よりも母の安全を案じて、下の様子を見に行った。もしものためにちょうど父の処分に困っていたゴルフクラブを握りしめ、音を立てないように階段を下りた。
そのもしもが的中したらしい。明らかに不審な音がリビングから鳴り響いてきた。近づくほどに確かにそこにあったのだ。私は階段を上り返し、母に知らせ、隠れ、警察に連絡しようとした。そうしてつま先の向きを変えようとした瞬間だった。その男がちょうどリビングから出てきて、私と目が合った。
暗いからよく見えない。それもそれ以上に寒慄に耐えられない。私は考える間もなく、自分の命の為にゴルフクラブを男へ振り下ろした。男のほうはその迫力に腰が抜けたらしい。男は持っていたらしいナイフを落して、ゴルフクラブは空を切った。そして私は転びかけた。このときに私は暗闇のうちに寒慄の正体を見つけてしまった。
彼は私より先に錯乱した。落としたナイフを拾って私を殺そうとしてきた。私はまた自己防衛のために、整理の付かないままに、ゴルフクラブで殴った。今度はあたった。それも彼が倒れ込むほどに。私は彼を知っていた。彼は怯えてまた懇願した。ただ私はこの混沌の中に身を埋めたくなった。いいや、ずっと前からこの禁則地に居たのかもしれない、彼とともに。私の内心には今までの恩を仇で返してきようとした恨みはもちろん、それが過去のあらゆる復讐心を滾らせて止まない。私はこの誰も見ていない暗闇の内に、さらにたしかに訪れた正義の揺りかごを離すまいとぶら下がって、彼の醜悪な頭を潰した。一度で雷よりも悲鳴が勝ったのなら、私は恐れたと昂って、もう一度。それでも声が掠めるのなら、もう一度。叩くたびにこの昂りは薪にくべた炎のように発して、私はついに母親が階段の照明を付けるまでその頭を叩きのめした。
私はそのとき、胸に今まで埋めていた全てが解放された気分でいた。母が私を呼んだ。私はその顔を見せた。母は化け物を見るかのような面を私に突きつけた。そのとき、私の復讐心はそよ風に消える業火のごとく失せてしまった。同時に灯りが露わにした、私の醜態に私自身で戦慄した。だんだんと気持ちよかった汗が、冷たい泥になって身体をなぞっていった。私はもはや取り返しのつかないことをした気でいた。正当防衛とはいっても、私は自分の心のうちに大きくなっていた、罪悪感を隠せない。私の心から出ていったあらゆるものの代わりに、彼の惨い有様が、固まりになって入ってくる、そんな罪悪感だった。すでにそこに正義がないのは、私だけが知っている不義に違いない。
私はその本心を隠した。嘘をついた。自らを母を守った英雄のように偽って、その後の処理をした。
私の隣には彼の死体が転がっている。私はあれからずっとそんな気に苛まれている。この気持ちへの返報は私以外に知らない。