第9話 七瀬菜月
父と母が亡くなってからの私は空っぽだった。あまり元気ないおばあちゃんとの毎日。別にそれが辛かったわけではない。だって、私がダメになったらおばあちゃんは1人になっちゃうから。
「次のテスト! 絶対に勝ってやるからな!」
小学生のある日、突然男の子がそう宣言してきた。別に受験でもなんでもなく、テストの点数で争っているわけではないのだから何故突っかかってくるのかよくわからなかった。
そんな頃だったと思う。
その日はおばあちゃんの具合が良くなくて、病院へと連れて行った後、何となく家に帰るのが嫌で近所の公園の遊具の中で座っていた。ドーム状のその遊具は真ん中に座っていれば外から見えず、そもそもこの時間に子どもは来ないので菜月はジッと体育座りをしてそこにいた。
もう既に夕日も落ち込み、辺りの人通りも少なくなってくると、肌寒さが体を襲って、小さくくしゃみをした。
(何やってるんだっけ)
少しだけ体を動かして穴から外を見ると、もう月が高く登っていて、時計を持っていないから今が何時かはわからないが、もうそこそこに遅い時間なのだと察する。
「帰ろう」
こんなことしていては、明日おばあちゃんが帰ってきたとき困ってしまう。それにもう体が冷たくて、早く暖をとらないと風邪をひいてしまうかもしれない。
もう外は真っ暗で、菜月が1人でいたら、警察に声をかけられてしまうかもしれないと足早に住宅街を歩いていた。
そんな時、住宅街にこもった口論の声が聞こえて、菜月は路地の隅から顔を出した。
そこには男の子とその腕を掴んだ大人の男がいた。明らかなその異常事態に菜月は手元の防犯ブザーに手をかけた。常日頃から持ち歩いておきなさいと言われて、トートバッグについていたそれだ。
菜月は防犯ブザーを投げ込んで、男から少年の腕を引き剥がし、駆け出した。
(あれ、見たことある顔)
男の子の腕を取ったとき、その横顔に見覚えがあった。確か、同じクラスの繰生くんだ。そんなことを思いながら、住宅街を駆け巡り、追っ払ったと思ってから家に着いた。
(まずは警察に連絡かな)
もう扉を閉めたから大丈夫だろうと、彼の手を離して、居間の電話を手に取った。
(確か、アレもあるか)
菜月はゴソゴソとランドセルからクリアファイルを取り出すと、そこに入っていたプリントを手に取って繰生の名前を探してはその横に書いてある電話番号を見て次の電話をかける。
『もしもし?』
「夜分遅くに失礼します。私、繰生五織くんと同じクラスの七瀬菜月と申します。五織くんのお母様ですか?」
やり取りをして、電話を切る。そして、玄関にいるであろう彼を居間へと上げてあげると、キョロキョロと辺りを見回していた。
「とりあえず、座ったら?」
そう促してやっと彼は落ち着いたようだった。まぁ無理もないだろう。今しがた知らない男に連れ去られそうになり、わけもわからないまま同級生の家に連れてこられたのだから。
そうして、15分後くらいには家のインターホンが鳴って彼の親が迎えに来た。その表情は本当に心配そうな顔をしていて、何度も「ありがとうございました」と頭を下げていた。
うちの事情は知っているのだろう。親のことは尋ねず、警察とやりとりしてからまた事情を聞くかもしれないとそう言ってから、またお礼を言って出ていった。
(なにに落ち込んでいたんだっけ?)
そんな事件のせいで、あの日自分が何に悩んで外にいたのか、よくわからなくなってしまった。
▶︎▷▶︎
おばあちゃんが亡くなった。
残暑もなくなって、ようやく過ごしやすくなったかと思える静かな秋の日だった。
いつも通り、おばあちゃんの朝ごはんを持っていくと、部屋があまりにも閑散としていた。寝息すら聞こえないその様子に、菜月は眠るおばあちゃんの腕を握ったが、硬く、冷たいその肌に菜月は全てを悟った。
元々、小学生の頃から長くはないと言われていたから、これでも長く生きた方だとそう思った。最近は寝たきりだったし、一言も会話をしない日なんて少なくなかったから、来るべき日が来たとそう思うだけなのだ。だけなのに。
「…おばあちゃん」
菜月はベッドで横になったまま動かない祖母の手元を握る。
たった1人の肉親が亡くなり、菜月は独りになった。その事がぽっかり空いてしまったはずの心にズシンと響く。
「うっ……」
涙が溢れて止まらない。拭っても拭っても、それはどうしようもなく溢れてきて、喉の奥がツンとして、泣き声すらもしっかりと出せなくて。
「菜月ちゃん」
ふと肩に優しく手が置かれた。その人は母の友人で、母が亡くなってからも、何度か顔を出しては困り事はないかと気にかけてくれていた人だ。
いつになく冷静に判断できなかった菜月はまず彼女に連絡したのだ。そして、急いで駆けつけてくれたのだろう少し息切れをしているようだった。
「琴音……さん」
菜月が声を捻り出して名前を呼ぶと、琴音は優しく菜月を抱き寄せた。
「大丈夫」
優しいその温かさに菜月は堪えていたものが一気に溢れ出て、時を忘れるほど彼女の胸の中で泣き続けた。
▶︎▷▶︎
「これでバッチリ! 綺麗だよ。菜月ちゃん」
「あ、ありがとうございます」
おばあちゃんが亡くなった後日、諸々の手続きが済むと菜月は琴音に一緒に住まないかと提案された。元々、菜月の母と父が亡くなったとき琴音としてはそうしようと思っていたらしい。だが、海外赴任が続いてしまっていてどうにもならず、たまたまこのタイミングで日本に帰ってくることになったため、改めて提案されたのだ。
最初は断ろうと思っていた菜月だったが、大学には行きたいと考えていた。学費に関しては勉強を頑張れば問題ないと思っていたが、それ以前に保証人がいない場合、大学にも通えず、奨学金だって受けることができないことを知ってどうしようかと思っていたのだ。このまま見知った人が後見人となってくれるなら菜月にとってもありがたい話だった。何より琴音自身の押しが強く、それに負けてしまったのが大きいが。
今日は緑英高校の入学式。緑英の制服に袖を通した菜月はパシャパシャと写真を撮る琴音にタジタジになっていた。
「試着の時にも撮ったじゃないですか……。それに今日じゃなくてもこれからずっと着るんですよ?」
「えー! でも門出の日に撮らないと! しかもウチの子はなんたって首席でしょ〜! 見には行けないのが残念だけど、今だけは撮らせてお願い!」
「は、はぁ」
中学卒業とほぼ同時に琴音と一緒に住むことになった菜月はまだ不慣れなところもあり、未だ琴音に対しては敬語だ。
『いつか敬語がなくなるくらいの場所になったらいいな。』
それは菜月が琴音の家に越して来た日に言われた言葉だったが、菜月にはそれが何を指しているのかわからなかった。
▶︎▷▶︎
電車を降りて、改札を出た菜月はグッと伸びをした。
「……微妙な天気」
どんよりした曇り空。天気予報で雨は降らないとは言っていたが、新たな門出としてはあまりに微妙な天気に菜月は小言を漏らした。
菜月はかなり早く家を出たため、辺りにはまだ緑英の生徒がいる様子はなく、閑散としたその通学路を菜月はゆっくりと歩いていた。
そして、菜月はとある空き地の前にピタッと足を止める。そこは菜月が住んでいた家があった場所だ。まだ1ヶ月くらいしか経っていないというのにあっという間に何もなくなってしまって、菜月は少し寂しさを感じながらも小さくお辞儀をした。
「いってきます」
それは菜月の門出の挨拶だった。家を早く出たのは新入生挨拶のためでもあるが、どちらかと言えば、これをやるためだったのだ。
▶︎▷▶︎
「七瀬」
入学式も終わり、諸々の説明が終わるとすぐに放課となった。席を立って、早々に帰宅しようとしていた菜月を呼び止めたのは担任の先生だった。
「なんでしょう?」
「すまないが、これをAクラスの繰生五織に渡して欲しいんだ」
そう言って先生が差し出したのは特待生のピンだった。さっき自分が貰ったものと一緒だが、なぜ自分が渡さなきゃいけないのかと菜月は首を傾げた。
「いや、なんだ。繰生五織は今日休みらしくてな。七瀬は繰生と同じ中学出身だろう? 顔馴染みのある人から貰った方がいいと思ってな」
「はぁ。構いませんが」
「それじゃあよろしく」
受け取ったはいいものの、よくわからない理由で任されてしまった。確かに同じ中学出身ではあるが、菜月としては五織とは顔見知りぐらいの認識だし、実際あの廊下での呼びかけがなかったら彼を忘れていたくらいだった。
それに入学式初日から休みとは何とも騒々しい彼らしいというか、きっと風邪でも拗らせたのだろうと菜月は結論づけると、まだ空っぽなロッカーにピンだけを入れて下校した。
入学から3日目。今日から授業も始まり、お昼ご飯も必要だ。
菜月は朝早くに目を覚ますと、お弁当を作っていた。琴音もお昼ご飯がいるというので2人分だ。昨日スーパーで買った鮭がいい感じに焼けると、お弁当箱にそっと添えて、少し冷めるまで机に置いておく。身支度を整えて、お弁当に蓋をして鞄に入れると、琴音を起こしに部屋に入る。
「琴音さん。もう行きますからね。お昼のお弁当、机に置いといたので持っていってくださいね」
「うぅん? うん。ありがとうぉ。いってらっしゃい」
そう言って琴音はまた寝てしまった。ちゃんと聞いてくれたか不安だが、昨日も夜遅くまで仕事をしていたようで今日は昼前に出勤らしいから無理やり起こすのは可哀想だろうと菜月は捲れた布団をかけなおす。
「いってきます」
起こさないように小さな声でそう言うと、菜月は家を出た。
(なんか……変な感じ)
起きた時からそうだったが、今日はなんだか調子が良くない。身体がだるいとか、熱があるとか、まだ眠たいとか、そういうのではなく、言葉にできない違和感が確かにあった。
(まぁいいか)
もしかしたら、知らず知らずのうちにストレスや疲れが溜まっていたのかもしれない。それもそのはずおばあちゃんが亡くなってから今日まで、手続きや受験や引越しやらで目まぐるしい日々だったのだ。そろそろ身体が悲鳴をあげてもおかしくはないだろう。
そう結論づけて、菜月はその違和感を無視して学校へと向かった。
違和感を忘れ、特に何もなく授業も終わると、菜月は復習をするためにロッカーからいくつか教科書を出すと鞄へと入れた。
「あっ」
そのとき、教科書と教科書の隙間からチラッと光りが見えた。それは五織へと渡し忘れていた特待生のピンだった。ついうっかりしていたと、菜月はそれを取り出し、制服のポッケに入れた。
「あの、Aクラスってどこですか?」
横で同じくロッカーを漁っていた同級生に声をかけると、ビクッと驚いた表情をしていた。
「あ、ああ。トイレのとこの角曲がって1番先だよ。てか、七瀬さんって喋るんだ?」
「? ……自己紹介のとき喋ったと思うけど」
「いや、なんか皆んな一歩引いた感じで七瀬さんとは喋れないみたいな?感じだったから」
「……そうなんだ?」
この男子生徒が言うには昨日クラスの懇親会的なものをやったらしく(知らなかった)その時音頭を取っていた生徒が「七瀬さんにも声をかけたんだけど無視された」と言っており、それ以外にも菜月に声をかけた人が次々に無視されて、きっと友達とか作らないタイプという烙印を押されたらしい。(そういえば声をかけられたこともあった気がするが、まさか自分に声をかけているとは思わなかった)
「教えてくれてありがとう」
そうペコリとお辞儀をして、菜月はAクラスへと向かった。
(友達。できないかも)
幼、小、中とずっと友達と呼べる人はいなかった。それでもずっと問題なかったが、それは忙しいからと自分に言い訳をしていただけなのかもしれない。
おばあちゃんが亡くなって、琴音さんに救われて、人の温かみに触れてしまったからなのだろうか。
キュッと苦しくなった心を無理やり落ち着かせてAクラスに辿り着くと、まだ席に座っていた五織に声をかけようとする。
「五織くんって首席の七瀬さんと同じ中学だったんでしょ? 七瀬さんってどんな人なの?」
「ん? そうだけど。七瀬の事聞きたがるなんて珍しい」
すると、五織は背の高い男の子に声をかけられて、菜月は咄嗟に教室の外で身を隠した。
(私の話?)
「アイツ昔からずっと1人でさ、人が寄ってきても、ああ、とか、うん、とか簡単な相槌しか打たねーし、何よりあの無表情。そりゃそのうち誰も寄ってこなくなるよな。それが少しだけでも変われば友人だってすぐできると思うんだけどよ」
(そうなのかな?)
「中学時代なんてついたあだ名が"異世界人"だぜ?どんな超人だよ。でも、1人で本当になんでもこなしちゃうんだよな。勉強だけならまだしも運動も音楽も絵も全部人並み以上で。だけど元々の才能ってわけでもなくてちゃんと努力してて」
(なんで繰生くんがそんなこと知っているんだろう?)
「アイツ、小学生の頃に両親亡くしててさ、お婆ちゃんの面倒見ながら、家事とかしっかりやってて。絶対に辛い時だってあったはずなのに弱味の一つも見せちゃくれない」
(見せるわけない。だって繰生くんはただの同級生なんだから)
「だから俺はいつか絶対アイツに勝って認めさせてやるんだ。きっとアイツは自分より下のやつに弱味なんて絶対見せないだろうから。俺がアイツの――」
そこで言葉は切られ、少しだけ時間が静止すると、「とにかく!」と大きな声が聞こえた。
「俺はアイツに絶対に勝つんだ。それまで他の誰かに負けるなんて許さねえ」
何が彼をそう思わせたのだろうか。だって、彼はただの顔見知り程度で、たまたま家が近所で幼稚園から一緒というだけなのに。
交わした会話だって片手で数え切れるくらいのものだ。また知らないところで彼を無視して怒らせたのかもしれない。
自分に負けないと勝手に張り合って、傍迷惑な話だ。
だが、菜月は自分の口角が少し上がっているのに気づく。いつの間にかキュッと苦しかった胸の痛みも和らいでいた。
(そういえば、彼に言われたから私は緑英にいるんだった)
「繰生くん。ちょっといい?」
「俺?!」
驚きに声を上げた彼の表情は滑稽で、何をそんなに驚いているんだと菜月は笑いそうになった。
(友達。大丈夫みたい)
だが、彼女の想いは誰にも伝わることのないまま運命に阻まれ、彼女の記憶からも消えてなくなるのだった。
お読みいただきありがとうございます!
これにて第1章 帰還編 完となります。導入部分になるので話数としては結構短めになっちゃいました。リセットされてしまった恋から五織はどう巻き返すのか。そして、また死ぬのか。まだまだ始まったばかりですので今後も応援いただけると嬉しいです。
読者の皆さまの応援が励みになりますので、ブックマークと下の☆☆☆☆☆から評価頂けると幸いです
不定期更新になりますが、ぜひ今後ともよろしくお願いします