第8話 三宮寺澪
幼い頃の初恋というのはいつ形作られたかさえも曖昧で、なんとなく一緒にいて、なんとなくいいなと思って、いつのまにか"好き"になっている。それはまだ人格が形成されていく過程で、好きという気持ちさえもわからないままであったからなのだろう。だから私が彼に恋した決定的な理由はわからない。
加えて、女の子はその時の想い人が言ったことに影響を受けがちで、人生を決めるような大きな出来事でも案外簡単に決断してしまう。もちろん、女の子全員がそうではないけれど、少なくとも私はそうだった。恋は盲目とはよく言うけれど、そういった経験が人格を形成していって、今の私ができたとしたなら、私は盲目で良かったとさえ思う。
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私の初恋は隣の家に住む3つ年の離れた男の子だった――
年の離れていて大人っぽいからとか何でもできてかっこいいとかではなくて、寧ろ不器用で何にもできない人だったけれど、いつも笑って楽しそうで周りを巻き込んでいくようなそんな人だった。
「雨ちゃん、また怪我して」
「大丈夫だって、こんなん」
「だーめ。消毒するよ!」
彼の名前は一ノ瀬雨寧。年上の彼を呼び捨てで呼ぶのはなんか違くて、でもあめちゃんだと食べ物の飴ちゃんと被ってしまって私は雨ちゃんと呼んでいた。
小学生の頃の彼はサッカーだったり、野球だったり、ときにはスケートボードだったりと、とにかく周りで流行っているものに飛び込んでっては膝や肘に傷を作っていた。そんな彼の怪我に絆創膏を貼るのが日常的になっていて、彼のお母さんからは「いつもごめんね。まるで澪ちゃんがお姉さんね」とよく言われていた。悪い気はしなかったし、寧ろ、これが彼と2人でいることのできる時間だったから私は喜んで引き受けていた。
「いやー、今日は白熱したな!」
夕日で空が紅くなり始めた帰り道、澪と雨寧は2人並んで歩いていた。雨寧の左腕の脇にはサッカーボールが抱えられていて、もう片方の手は澪と手を繋いでいた。
「そうだね! まぁ雨ちゃんが盛大に転けなければもっと遊べたんだけど。早く帰って消毒しないと!」
「うへー、さっき水でゴシゴシしたじゃんか」
「それだけじゃ、ちゃんと消毒できてないし、いいの? 足動かなくなったりしたら大変だよ?」
「っう。我慢するよ」
苦渋の表情を浮かべる雨寧に澪は悪戯に笑った。
「あっ」
ふと澪の視界に入ったのは白い制服に身を包んだ女子中学生達だった。
並んで歩く2人をその中学生たちが通り過ぎるまで澪の視線はそちらをずっと向いていた。
「星女。行きたいのか?」
星女とは星蘭女子学園という中学から大学までの一貫校でここら辺で最も有名な、いわゆるお嬢様学校だ。
何となく彼女たちの雰囲気と綺麗な白い制服に憧れがあった。どうせ、このまま公立の中学に行っても3個年が上の雨寧とは一緒には行けないからそういう選択もアリかと思っていたが、お嬢様学校というところに自分が馴染めるか不安があった。
「でも――」
「確かに澪にあの制服は似合いそうだな! 見てみたいよ。俺は」
「え」
ニッと屈託なく笑った雨寧に、澪の不安は簡単に弾け飛んだ。今思えば、なかなか踏み出せないでいる澪を後押ししてくれただけなのかもしれない。だが、もう澪は星女行くことを決めていた。
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時が経ち、澪は星蘭女子学園の制服に袖を通していた。馴染めることに不安があった澪だったが、通ってみれば気の合う子たちばかりで、そんな不安はすぐに解消された。
だが、ひとつ気がかりなのは中学に入ってからというもの、雨寧に会うことがグッと減ったことだ。雨寧は高校に入ってから部活ばかりのようで平日も夜遅くまで、休日も部活か、部活の仲間と遊んでいるようで、結局、彼に見せるためのこの制服も一度も見せたことがない。
「澪〜。ちょっと一ノ瀬さん家にこれ渡して来て欲しいんだけど」
「ええ。重い」
帰ってきたばかりの澪はまだ制服のまま、母から渡された袋を手に持つ。渡された袋にはたくさんの桃が入っており、ちょっとというか普通に重かった。といっても隣の家に届けるだけだからさほど辛くはないが、なんだかこの日は嫌気がさして小言を漏らす。
「いいじゃない、私もうシャワー浴びちゃったの。でも今日渡すって言っちゃってたのよ」
母の言い分は納得のいくものではなかったが、澪は渋々その重たい袋を持って家を出た。
(なんか久しぶりだな)
澪は雨寧の家の門の前に立つとインターホンを鳴らした。
「はーい」
想像よりもずっと低い声が返事して、あれ?お父さんが返事したのかなと澪は思った。
家の門のオートロックが開く音がすると澪は門を開けて玄関の前でドアが開くのを待った。
(重いから早くしておじさーん)
澪の手はプルプルと震え始めて、このままドアの前に置いてしまおうかとそう思ったとき、ガチャっと扉が開いた。
「澪! 久々だな!」
「う、雨ちゃん!?」
「おっと、あぶね」
不意すぎる想い人との再会に澪は持っていた袋を落としそうになって、雨寧がその袋を支えた。
会わないうちに雨寧はかなり背が高くなっていて、袋を支えた手も澪の知っている手とは随分と違っていて今手を握ったら包み込まれてしまいそうだと思った。
「雨ちゃん、部活で忙しいって」
「ああ、毎日部活だよ。でも今週は試験前だからな。勉強してたんだ。てか、これ随分と重いな。桃じゃん!」
首元まで伸びていた髪は今はさっぱりと短くなっており、半袖から見えるその腕もたくましいものになっていた。だが、袋に顔を覗かせた雨寧はあの頃となんら変わらない表情を浮かべて、澪はホッと胸を撫で下ろした。
「澪? どうした?」
「あ、ううん。その、制服――」
「そうだ。よかったら上がっていけよ。外は暑いからさ」
澪はハッとして、そして彼に制服を見せようとするが声を遮れてしまった。
だが、家に上がればいくらでも見せられると、澪は言われるがまま玄関に上がった。
(なんか緊張しちゃうな)
靴を脱ごうと下を向くと、自分の靴よりも少し大きいローファーが置かれていた。見るからに女の子のモノで澪の思考は凍りついた。
「あれ、もしかして」
廊下の奥から声がして、そっちを向くと、ショートカットの女の子がひょこっと部屋から顔を出していた。
「ああ、そう。幼馴染の澪だよ」
「わ、噂に聞いてた星女の子! 凄い美人さんじゃん」
お嬢様学校に通っているからというわけではなく、澪は元々お淑やかというのが似合う子だった。雨寧が外に引っ張り出さなければ、家で本や音楽を嗜んでいたかもしれない。
だが、親しそうに雨寧の肩に手を置き、ニコニコと笑う彼女は、雨寧と同じくくらい日焼けをしていて活発な姿が伺える。
もう言われなくてもわかっていた。だが、どうしても言葉が出てこなくて、そこからも動けなくて。澪はただ待つことしかできなかった。
そして、雨寧はちょっとだけ顔を赤らめて言うのだ。
「……俺の彼女」
――なにかが、壊れた音がした。
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もう澪に星蘭女子に行く理由はなくなっていた。別に同級生とは仲が良かったし、良い学校ではあったが、そこにいることが何故か彼の言葉に囚われたような気がして、高校は別のところに進学を決めた。
元々、勉強はそこそこできる方だったから県でも有名な私立へと進学を決めた。
入学式初日。快晴というわけではなく、なんならどんよりと曇り空だったが、雨は降らないようで門出としては及第点と言ったところだ。
入学式はパパッと事が進み、澪の頭の中には新入生代表の子が綺麗だったことしか残っていなかった。
式が終わって、それぞれのクラス表が渡されると、担任の先生に引き連れられ、澪は教室の席に着いた。そして、担任から淡々と授業のカリキュラムや明日の健康診断についての説明がされ、クラスメンバーの自己紹介が始まった。
こういうときは名前順になりがちだが、前からだと今後の授業でも毎回最初になってしまうだろうという配慮で後ろからのスタートになった。
「三宮寺澪です。中学は星蘭女子学園にいました。中学は吹奏楽部でしたが、高校からは何か運動部に入ろうと思ってます。よろしくお願いします」
そうテンプレ通りの自己紹介を済ませて、席に着く。すると隣の席の女の子が澪に話しかけてきた。さっき橘二麻と名乗っていた子だ。入学初日だと言うのに、もうスカートを折り曲げて短くし、ピンク色のシュシュを手首にして、ギャルっぽい子だなーというのが澪の印象だ。
「三宮寺さん、星女だったんだ? 姉が星女でさ」
「え、ああうん。よろしく。橘さん」
あまり大きい声で話すと自己紹介している人の邪魔をしてしまうからコソコソと小さな声で応答すると、それに気づいたのか二麻は「また後で話そ」と言って自己紹介を聞き始めた。
(見た目は派手かもだけど、気を遣える人だなぁ)
そんなことを思いつつ、自己紹介を聞いていると、途中で担任が口を挟んだ。
「ああ、休みのやつがいるな。ったく、入学式初日なのに連絡無しとは。飛ばしていいぞー」
そう言ってまた自己紹介が始まる。
(入学式初日に休みかー。風邪か何かかな?もしかしたら寝不足とか?)
そんなことを思いつつ、澪もまた寝不足な目を擦ってはあくびを我慢して涙だけを拭き取る。楽しみだったり、逆に嫌な予定があってもいつもスッと寝付けるはずなのに昨日は何だか色々ドキドキとしてしまってなかなか寝付けなかった。
そして、1番最後の人が自己紹介を始める。スッと立ち上がった男の子は結構背が高くて、なんとなく彼を思い出すような後ろ姿をしていた。
「一ノ瀬遥です。中学は軽音部でしたが、高校からはバスケかバレーをやるかで迷ってます。もし、バスケかバレーか仮入部行く人いたら誘って欲しいです。よろしくお願いします」
「遥?」
彼の面影があるはずだ。だってその男の子は彼の弟で、澪の同い年の幼馴染だったのだから。
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「びっくりしたー! まさか遥がいるなんて。しかも雨ちゃんより大きくなったんじゃない?」
澪は背伸びして遥の頭辺りに手を掲げると、遥はいやいやと首を振った。
「雨にぃもバスケやってるからまた背が伸びてるからね。僕より全然大きいよ」
「あ、そうなんだ。それにしても久しぶり〜」
弟の遥は雨寧と違って引っ込み思案なところがあり、澪が雨寧たち上級生と遊ぶ中、家で本を読んでお留守番しているような子だった。
だから同い年とはいえ澪の中では遥は弟のような存在で、家族ぐるみでの集まり以外ではあまり関わりはなかったため、実に3年ぶりの再会だ。
「久しぶり。それでだけど、」
久々の再会に現を抜かしていた澪だったが、遥がその横に目線を落とした。
「ずっと澪の横でジッと見てる人がいるけど」
澪がそっちを向くと、じーっと黙ったままこちらを見ている二麻の姿があった。
「わ、ごめん、橘さん」
「後で話そって言ったのにさ!」
「ごめんなさい」
澪がペコペコと頭を下げると、二麻は腕を組んでふぅとため息をついた。
「まぁいいけど、そっちの遥くんとは知り合い?」
「あ、そうそう。家が隣でさ」
「幼馴染ってやつだ!」
「まぁ会うのは3年以上ぶりだけどね」
「ああ、そっか。星女って言ってたもんね」
突然、知らない子の声が聞こえて澪と二麻はそっちを向くと、遥の後ろからひょこっと顔が出る。
「急に話しかけるからびっくりしてるじゃないか。四暮」
「俺も混ぜてくれ!」
そう言って、にっしっしと笑った男の子はどうやら遥と知り合いらしく、澪の前に出るとその手を差し出した。
「俺は東城四暮。遥とは同じ中学だったんだ。よろしく!」
「ああ、うん。よろしく。三宮寺澪です」
呆気に取られたまま、差し出された手を握る。目の前の男の子は160にギリ届かない澪より少し低いくらいの背丈で身長の高い遥を横にするとかなり小さく見えた。だが、握った手は意外とゴツゴツとしていて、手だけはかなり大きい。
「あ、今小さいって思ったろ!」
「え、いや」
「いいんだよ。俺はこれから伸びるから!絶対遥を抜かすから!」
確かに成長期はまだこれからだし、小さいとも思ったが、それよりもその大きい手に気を取られたことを口に出そうとした。だが澪より先に二麻が反応した。
「アンタ、どっかで見たことあるって思ったけど、ハンドの人じゃない?」
「お! 知ってるのか!」
「ハンド?」
心当たりのない言葉に澪が首を傾げると、四暮はふんっと胸を張った。
「ハンドボールだよ。俺はU15JOCの優勝チームのエースなんだ!」
また知らないアルファベットが出てきたが、とりあえず彼がハンドボールの凄い選手だということは澪も理解した。そして、彼の手が体格に見合わずゴツゴツとして大きいのもハンドボールが理由なのだとわかった。
「ええ。凄い!」
「ふふん。もっと褒めたまえ」
「でもなんで緑英に? 特にハンドボール強くなかったろ?」
二麻がそう問うと、四暮はまたふふんと得意げに胸を張った。
「部活じゃなくてチームに所属してるからな。別に学校はどこでも良かったんだけど、どうせなら頭の良いところって思ってよ!」
「確かにアンタ馬鹿っぽいのによく受かったね」
「馬鹿っぽいってなんだ! お前もギャルのくせになんでこんなところいるんだよ!」
「ギャルだっていいだろ別に。ビ◯ギャルみたいなのもいるんだからさ!」
「「まぁまぁ」」
澪と遥は2人の間に割って入ると、2人を宥めて何とかその場は落ち着いた。
▶︎▷▶︎
2日目は健康診断のあと、教科書の配布が行われて、すぐ放課となった。明日からはもう通常通り授業をやるらしく、急に6時間授業なんて無理だよーと四暮は嘆いていた。
「それより休んでた人。事故にあっていたなんてびっくりしたね」
二麻が唐突にそう切り出すと、澪はうんうんと頷いた。
「トラックに突っ込まれて軽い脳震盪で済んだなんて不幸中の幸いだよね」
「なんか、首席の人と同じ学校らしいぜ? イケメンってのも聞いた」
「しかも次席だってさ。顔も良くて頭も良いのに、なんつーかついてない奴っぽいな」
「でも、明日から来るんでしょ? どんな人か楽しみだね」
澪も遥の言った通り、どんな人かすごい気になっていた。別段理由があったわけではないけど、なんとなく他人事ではないような気がしてならなかった。
▶︎▷▶︎0
「えー、突然の交通事故で2日遅れての入学になりました。繰生五織です。名字も名前もひっくり返しても使えそうだなーとか言われますが、是非、名前の五織って呼んでもらえると嬉しいでーす。よろしくお願いしまーす!」
気になった彼は予想よりもだいぶ接しやすそうな感じの人で、澪はなんとかして話しかけようと思ったが、授業の休憩中はいろんな人に囲まれていて、結局、放課になっても声をかけることすらできなかった。
授業が始まった今日は仮入部が始まる日でもあった。何か運動はしてみたいと思ってはいたものの特に決めてはいなかったが、どうやら緑英のバスケ部は男女ともに有名らしく、せっかくなら全国を目指す厳しい部活へと思い、澪はバスケ部へと足を運んだ。
仮入部。とは言ったものの、流石は全国常連校というべきか、もうほとんどの人はバスケ部に入ることを前提としていて、練習メニューも先輩たちとなんら変わらないものだった。
「……キツい」
中学は文化部とはいえ、吹奏楽部だったから体力にはそこそこ自信があったが、流石に小言を漏らすくらいにはキツさを覚えた。
全力ダッシュと軽いダッシュを繰り返すアップが終わると、少しだけ休憩があり、澪は水筒の水をぐいっと飲み込んだ。
(やっぱキツいけど、流石は全国出場校)
「集合!」
先輩の掛け声が響いて、澪は「はい!」と大きな声を出して駆け出し――
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(あれ?)
突然視界が切り替わり、澪は動揺する。今の今まで部活に励んでいたはずなのに、手には音楽の教科書があって今まさに教室から出ようとしているところだった。
(夢でもみたのかな?)
それにしてはあまりにも鮮明すぎる気がしたが、ふと視界に入った彼に目がいって、澪は五織の顔を覗き込んだ。
「五織くーん? 次移動教室だからそろそろ行かないと遅れるよ?」
そういえばこのとき、五織に声をかけようか迷って結局声をかけれなかった気がする。そんな夢を見たんだからここで声をかけないわけにはいかなかった。
五織はどこか呆けた表情をして、突然「あっ」とこちらに気づくと、バタバタとバッグを漁り始めた。
「あ、ああ。ごめん。移動教室だよな。なんか疲れてるみたいで呆けちゃったわ。すぐ準備してく」
「うん。音楽室の場所わかる?よかったら皆んなで一緒に行こうよ」
澪は教室の外で待ってる遥、二麻、四暮を指さすと、五織もそちらを見て音楽の教科書を持つと席を立ち上がった。
3人と合流すると、早速とばかりに四暮は目を輝かせた。
「おお! 君が五織くんか!」
「いや、自己紹介してたろ」
「そういうことじゃねぇって。対面では初めましてってことだろ。察しがわりぃな」
「んだとコラァ」
「やんのか!」
どうやら二麻と四暮はあまり気が合わないらしく、昨日からもうずっとこんな感じだ。と言っても怪我させるとか、相手を傷つけるようなことをしているわけではなく、どちらかと言えば戯れあってるような感じなので、もう澪も遥も止めない。
「いいの? アレ」
五織がそう聞いても、澪も遥も苦笑いして「まぁ大丈夫」とそう言った。
「トラックに突っ込まれたって聞いたけど、よく脳震盪だけで済んだね」
「あ、うん。不幸中の幸いってやつだね。現場見た警察とかは驚いてたよ」
「なんか他人事みたいな言い方だね」
「あー、でも実際そんなもんだよ。事故の時の記憶はないし、気づいたら病院で警察や医者から聞いたことでしかないからさ」
「……確かに。そういうものかぁ」
事故の時の記憶があると、それがフラッシュバックしたりして感覚や感情が麻痺したりするということもあるらしいから、五織のように他人事にしている方がよっぽど良い状態だろう。
「でも、後天的に障害が出たりすることもあるらしいから気をつけてね」
「まぁもはや、防ぎようがないんだけどな」
「そういうことじゃなくて、気を張っとくってこと。少しの頭痛とかでも病院とか行かなきゃダメだからね!」
「あ、ああ。ごめん。ありがとう」
そんなやり取りを見て、遥はクスッと笑う。
「澪は相変わらず、皆んなのお姉さんだね」
「皆んなのお姉さんじゃありません」
「あれ2人ってもしかして前からの知り合い?」
2人のやりとりに五織が疑問を浮かべてそういうと、澪は顔を縦に振った。
「そう! 幼馴染なの」
「そうなんだ。実は俺も――」
「はい、もうチャイムなりますよー。席着いて〜」
話しているうちに音楽室についたが、後ろから入ってきた先生に五織の話は中断させられて、「また後で」とそれぞれ席についた。
(――やっぱり、聞いたことある授業)
澪は授業を聞いていて違和感を覚えた。というより、あまりにも覚えのある内容に違和感を感じない方がおかしかった。
自己紹介と選択授業になる話が終わると、若者の流行りの曲からおすすめの失恋ソングの話。どれもこれも知っている。だが――
「えっとー。来週から校歌の練習でしたっけ?」
「確かにそうですが、今はおすすめの失恋ソングに関して皆さんに聞いていたんです」
先生はそう言うと、ビブラートの効いた高い笑い声が上がった。
それは澪の知らないやり取りで、澪は首を傾げた。
(どういうこと?)
どうやら全部が全部同じというわけではないようだ。でもよく考えてみれば、澪の知ってる記憶ではこの日は五織に話しかけることもなかったんだから既に全部が一緒というわけではない。そういうことがあってもおかしくはないだろう。
「五織くん、よかったらこれから皆んなで――」
授業終了のチャイムが鳴り、ぞろぞろと皆が席を立つ中、澪は振り返って後ろ側に座っていたはずの五織へと声をかけようとするが、もうそこには五織の姿はなかった。
「なんか、チャイム鳴ると同時に凄い速さで出て行ったよ」
きょろときょろと辺りを見回す澪に遥がそう伝えてあげると、澪は「えー」と口をとんがらせた。
(正夢みたいなこの状況のこと聞きたかったのに)
「なんか用事でもあったのかな」
そうポツリと呟いて、「まぁ仕方ないか」とグッと背伸びした。
「ご飯食べいこー! 今日は屋上に行ってみようよ!」
教室に戻り、遥、二麻、四暮に声をかけると、4人は屋上へと向かう。
「今日は天気が良くてよかった!」
「そうだな。つーか、いきなり6限まであるってきちぃな」
そう言って二麻はグッと背伸びして大きな欠伸をした。
「へっ、情けないな。こんなん屁でもないぜ」
「アンタ昨日は情けなく文句言ってたじゃん」
「なんだとぉ!」
「やるかこらぁ」
また始まったとばかりに澪はため息をつくと、ふと横に黒い髪が靡いた。
一瞬、そっちに気が引っ張られたが、目の前で繰り広げられていた戯れ合いがヒートアップしてきたため、澪は慌てて2人の間に入った。
▶︎▷▶︎2
(まただ)
また部活をやっている間に突然場面が切り替わった。今回は音楽の授業が始まっているところで前回よりもちょっとだけ進んでいる。
「繰生くん。何か言いましたか?」
「あ、いえ。なんでもないです。すみません」
「妄想や寝ぼけはほどほどに」
(知らないやり取り)
皆んながそのやり取りに笑う中、澪はその違和感にただ眉を顰めていた。
授業を終えて、教室に戻る。今回は五織に声をかけることはできたが、先約があるようで断られてしまった。
「まぁ次回の確約はできたからいいっか! ご飯いこー!」
前と同じく皆んなを引き連れて屋上へと向かう。そうすると、知ってるやり取りが繰り広げ始めた。
「いきなり6限まであるってきちぃな」
「へっ、情け――」
「そうだねー。私も流石に疲れちゃったぁ」
(またお弁当がひっくり返るのは勘弁だからね)
前回はヒートアップの末に四暮のお弁当が廊下にぶちまけられてしまったので、今回は早々に止めに入った。おかげでてんやわんやすることなく、ご飯にありつけそうだと澪はホッと息を吐いた。
そのとき、澪の横を黒髪が靡いた。ふと、何を思ったか澪は通り行くその人影の手首を掴んだ。
「あっ」
「え?」
互いに何事かとしばらく静寂が包み込み、自分の意図しない行動に焦った澪は手を離す。
「ごめんなさい。綺麗な人だなと思ってつい、掴んじゃった」
「いえ。大丈夫ですけど」
焦って弁明する澪にそう淡々と応えて黒髪の彼女はくるりと背を向けた。
「あの」
「はい?」
澪がその後ろ姿に声をかけると彼女はピタッと止まってまた振り向いた。長い黒髪が外から入ってきた風に靡いて、そして、凛としたその佇まいに女の子である澪も惚れ惚れしそうになる。
「よかったら、一緒にお昼どうですか?」
突然の誘いに黒髪の彼女は目を丸くして、そしてそれを見ていた二麻も四暮も驚いた表情を浮かべた。
「お、おい。澪。急にどうした?」
「新手のナンパか?」
「ナンパじゃ……ナンパかも?」
四暮の言葉を否定しようとするが、澪は首を傾げてそれを認めた。
「ふふ」
それを聞いて遥は小さく笑うと黒髪の彼女の前に出て、
「そういうわけで、僕の幼馴染があなたにご執心みたいだから、せっかくだからどうですか? 七瀬菜月さん」
そう言って菜月の前に手を差し出した。
「改めて、三宮寺澪です! ごめんね急に引き止めちゃって」
5人は屋上で円を囲ってお昼ご飯を食べていた。
もぐもぐと食べ始めている菜月に澪は両の手を合わせて謝罪する。
菜月は口の中のものを呑み込むと、ううんと首を横に振った。
「びっくりしたけど、誘っていただいて嬉しかったです」
そう言って菜月は少しだけ口角を上げた。
「しっかりとした自己紹介がまだでしたね。七瀬菜月です。よろしくお願いします」
(綺麗なお辞儀だなぁ)
澪がその所作に見惚れていると、二麻も四暮も同じようでじっとその所作を見てしまっていた。
「僕は一ノ瀬遥。よろしくね。七瀬さん」
遥が自己紹介すると、その膠着も解けて二麻も四暮もハッとして、同じく自己紹介を始める。
そんなやりとりをして、菜月が五織と同じ中学だったことや、渡さなきゃいけないものがあるから五織に会わなきゃいけないことを知った。
(そういえば、五織くんも菜月ちゃんを捜してたと思うけど……)
澪はふとそんな記憶が過って、屋上のドアの方を見る。この時間には彼が屋上に一度顔を出す頃だったと思うが、その様子は一向になかった。
授業が終わり、放課になると澪は仮入部のために体育館へと向かう。そこで体育館シューズを忘れたことに気づいて慌てて教室へと戻った。
「あ」
教室に戻ると五織の姿があり、彼は身支度を整えて今まさに帰ろうとしているところだった。
「あれ、五織くん。まだいたんだー!」
澪が声をかけると、五織はビクッと驚いた表情をした。
「三宮寺さん。どうしたの?」
教室の外を気にしているようだったため、澪は一度扉の方を見るが、そこには誰もいなかった。
「これから部活に出るんだけど、教室に体育館シューズ忘れちゃって」
「へぇ、何部に入るの?」
「バスケ部! 背を伸ばしたいからね!」
別にこれといった理由はなかったため、咄嗟にそうでっち上げた。これも別に嘘ではない。もう少しで160に届きそうだから、成長期のうちにもう少しだけ伸ばしておきたいのだ。
そう言ってぴょんぴょんとしてると、五織はじっと固まったまま動かなくて、澪は首を傾げた。
「五織くん?」
「あーごめん。それじゃ、部活頑張って」
応答したかと思えば、突然話題が切られてしまった。何か用事があるのだろう。澪は教室にかけてある体育館シューズを手に取ると教室を出た。
(聞きそびれちゃった)
何度か繰り返しているこの謎の現象。その答えを彼は知っている気がした。ほとんどの出来事は同じように起こるのに、彼の周りで起こることだけは少しだけ違っている。だからそのことを聞きたかったのだが。
「そもそもなんていうべきなんだろう」
なんか繰り返している気がしない?とか言っても頭のおかしい人としか思われないだろう。澪は「うーん」と考えた。
「まぁまた次の機会があったら」
そうしてまた彼女の1日は繰り返される。