第6話 もう君が苦しむ必要はないから
目を覚ました五織はまだぼーっと呆けていた。
戻る前の気持ちを置き去りにし、徐々に新たな自分の身体が構築され、後に感情が追いついてくる。
その時間はあまりに一瞬ではあるが、夢が覚めるのとは違い、記憶があまりにも鮮明なまま時間を引き戻されるため、その身体と気持ちとの乖離に酔ってしまう場合がある。異世界で何度も何度も体験したことだが、それでもいつまでも慣れることができなかった。
どんっ。と鈍い音が教室に響き、話していた音楽の先生も生徒達も一斉にその音の方に振り向いた。
机に頭を強打し、伏したまま五織が動かなくなっていた。
「五織くん?!」
教室が騒めいて、「救急車?!」「とにかく、保健室に」と、慌てた声が聞こえるが、五織の意識はそのまま遠のいて気を失った。
▶︎▷▶︎
「……おり」
『――レイ?』
ボヤける視界の中、異世界で出会った彼女の面影を感じ、五織は目を覚ました。
「五織くん?」
「……あ。三宮寺さん」
目を覚ました五織の顔を覗き込んでいたのは、三宮寺澪だった。朧げながらレイの名前を口に出してしまった気がするが、澪は特に気にしていないようで五織の顔を伺っていた。
「大丈夫? さっきまですごいうなされてたけど」
「あ。ああ。大丈夫。やっぱり事故の後だから悪夢とか見ちゃうんだよね」
自分が死んだ事故なんて、全く記憶にないが、半分あっているようなものだから咄嗟にそう出まかせを言った。
「そっかー。やっぱそうだよね。そしたら、5限も休む?」
「あ」
そう聞かれて、五織はようやく自分の身に何が起こったのかを思い出すと、壁にかけてある時計を見る。
(13時32分……。まだ昼休みか)
もしこれで放課後になってしまっていたらこのループは完全に無駄になるところだったと五織は安堵の息を吐いた。
「田中先生の授業なんだか退屈だから、すっぽかしちゃえば?」
「ひでぇ言いよう。だけどそうなんだよなぁ」
5限の授業は数学だ。担当の田中先生はなんというかとっつき難い感じの先生で、自己紹介を1分程度で済ますと、すぐに授業に入っていた。学費を払って通っているのだから、雑談を無くして授業に徹するのは先生としての行動としては正解だと思うが、正直、教科書の問題を淡々と黒板に書いていくだけなため、とても授業とは思えない。その代わり、黙っていれば注意もしない感じなので内職するにはもってこいの授業だという印象だ。
それにもう五織にとっては4度目の授業だ。このまま寝過ごしてしまいたいが、きっと菜月ならそんなこと関係なしに授業にはしっかり出るだろう。
五織はベッドから足を下ろし、誰かが脱がせてくれたであろうローファーを履いて立ち上がった。
「いや、やっぱ出るよ」
「そっか! じゃあ一緒に教室戻ろう」
保健室の先生に「もう大丈夫だから教室に戻ります」と伝えると、先生は少し心配そうな顔をしたが、了承を得て2人は保健室を出た。
「そういえば、誰が俺を運んでくれたの? 三宮寺さん……ではないよね」
「流石にねー。そんなに力ないよ。運んでくれたのは遥だから後でお礼言っときな」
「そうする。三宮寺さんもわざわざ様子見に来てくれてありがとう」
「ううん、全然。ていうか、五織くんの見舞いにかこつけて5限の授業すっぽかそうとしてたからね〜。実は昨日全然寝れなくて睡眠不足なんだ〜」
「じゃあ起きない方が良かったか。わるい」
「冗談だってば」
澪はそう悪戯に笑う。もう廊下には移動教室で別の教室に向かっている生徒しかおらず、そろそろ授業が始まる頃だが、澪も五織もそれほど急ごうとしていなかった。
階段の踊り場。あと数段の階段を登れば自分たちのクラスの階というところで五織は足を止めて、それに気づいた澪が踊り場まで降りてきた。
「どうしたの?」
そう澪が問うのとほぼ同時に授業開始の鐘がなった。
「あー。始まっちゃった。でもまぁ保健室行ってたって言えば問題ない――」
「ところで三宮寺さん」
澪の言葉を遮って五織が少しだけ澪と距離を詰める。
「……どうしたの?」
「どうして、次の数学の授業が退屈だって知ってるんだ?」
「……」
鐘が鳴り終わり「じゃあ授業を始めるぞー」と教師の声が聞こえると、机や椅子を引きずった音がピタッと止んで五織達のいた階段の踊り場には閑散とした空気が流れる。そして、チョークの音だけが聞こえるようになると、澪は大きく深呼吸をした。
「やっぱり授業サボろうか。屋上にでも行こう」
そうして2人は階段を上がり、屋上へと向かった。
屋上の少し重い扉を澪は勢いよく押すと、一気に春風が流れ込んで澪のポニーテールが揺れ、五織はその後ろ姿をじっと見ていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
校庭では他学年の生徒達がトラックを走ってウォーミングアップをしており、あまり見下ろしているとこちらに気づかれそうだと、五織と澪は屋上の真ん中の方で向かい立った。
「それで? 五織くんは私に何が聞きたいの?」
「単刀直入に聞く」
「うん」
「三宮寺さん。君はタイムリーパーか?」
五織の最初の予想では一ノ瀬遥がタイムリーパーだと思った。それは五織や菜月のことを知っていて、どのループでも行動が変わっていたからに他ならなかった。だが、違ったのだ。遥の周り、つまりは三宮寺澪の行動が変わったことで遥の行動が変わっていた。
三宮寺澪は話しかけられることはあれど、さほど五織に対しての行動が変わっていなかったために除外してしまっていたが、さっきの授業の話で違和感を感じ、そして今、こうして向かい合って確信となった。
問われた澪は少し驚いたように目を見開くと、「うーん」と考えるように顎に手を置いた。
「タイムリーパー……か。確かにそうなのかも」
「っ!」
澪の答えを聞いて咄嗟に五織は澪の腕を掴み上げた。
「なんで七瀬を狙う!」
「五織くん……痛いって!」
「答えてくれ! なんで七瀬を殺す!」
鬼気迫る勢いの五織の問いに、澪は首を横に振った。
「なんで、私が菜月ちゃんを殺さないといけないの?」
「え」
澪の答えに呆気に取られ、五織は手の力を弱めると、澪は腕を払って距離をとった。
「……五織くんが何を勘違いしているのか私にはわからないけど、私が菜月ちゃんを殺すわけない。そんな理由なんてない!」
キッと睨んだ澪の眼は涙で潤んでいて、それが嘘やでまかせでないことを物語っていた。
五織は覚束ない足元で後退すると、その場に尻もちをついて、顔を両手で覆った。
「……じゃあなんで」
敵がいるならばわかりやすかった。這うようにしたら見つけた一筋の糸だった。それを防げば全部上手くいくはずだった。だが、違ったのだ。
俯き、状況が飲み込めないといった状態の五織の肩に澪はその小さな手を置いた。
「何があったのか私に話して。私も話すから」
髪の隙間から覗き込んだ澪の顔に、彼女の面影を感じて五織はハッとした。
「……ごめん。取り乱した」
そう言って五織は立ち上がると、もう一度深々と頭を下げた。
「手荒なことをして、本当にごめん」
「いいよ。五織くんにも事情があったんだと思うし」
そう言って澪は五織の頭を上げさせた。
落ち着いた2人は屋上の端にあるベンチに腰掛けた。校庭とは真逆なので校庭の生徒に見られることはない。だが、校門の方、つまりは近隣住民に見られる可能性はあるが、そこは気にしないでおくことにした。
「……私はこうなる前の、ループする前の記憶がある。でもそれは私の意思とは関係なくて、いつも不意に戻される。だけどようやくわかった。五織くんが戻していたんだね」
そう言った澪に答えるように開いた口を五織は不意に凍らせた。
(話せるのか?)
"5回の試行"に関してのことは一切伝えることのできないという女神と交わした縛り。異世界ではいくら口を開いても相手に伝わらなくなり、紙に書こうとすれば紙が燃えたり、字そのものが消えたりと、絶対に他人に伝えることなどできなかった。
だがもう既に、タイムリープという言葉を使い、澪の問いはほぼ確認のようなものだ。ここで首を縦に振るだけで澪に伝えることができる。つまりは縛りは無くなったと、そう言っていい。いいはずだ。
澪は推し黙った五織を不思議そうな目で見るが、次に来る言葉をずっと待っているようだった。
「……っ」
急に重くなった舌に、ツンとする喉奥に言葉を詰まらせる。口にするのは簡単なはずなのに、いつの間にか随分と重たい言葉となっていた。
それが共有できれば、どれだけ楽だったか。五織は口を噛み締めて、今度こそ口に出した。
「……そうだ。俺がタイムリーパーだ」
今まで縛られていた呪縛から解き放たれ、五織は力強くそう言った。
初めて口にできた言葉。それが伝わっているか不安で五織はジッと澪を見る。
「そっか。やっぱり」
五織の葛藤などいざ知らず、あっけからんと、澪は頷いた。
なんとか紡いだ言葉は澪にとってはあくまで確認事項みたいなものであったが、五織はその状況を理解するまで数秒の時間を要した。
「……どうしたの?」
「いや。なんでもない」
そんな五織を変に思ったのか、澪は五織の表情を伺うが、五織は首を振って「それじゃあ」と言って澪から目線を逸らした。
「全部話すよ」
五織は澪に事情の全てを話した。
"5回の試行"について、菜月が死ぬこと。それを防ぐためにどう行動してきたのかを。
異世界の話は敢えて伏せておいた。ここで話してもノイズにしかならないとそう思ったからだ。
五織の話を聞き終えると、澪はしばらく俯いたままでいた。
ホイッスルの音が鳴り響いて、校庭では声援が聞こえ始める。6限のときDクラスは体力テストをしていたから、おそらく上級生も体力テストかなんかで50メートル走のタイムを測っているのだろう。そんなどうでもいいことになんとなく意識が向いてしまうほどしばらく沈黙が続く。
そして、長い沈黙の後、澪が大きく息を吐いたかと思えば、足を少し上げて立ち上がった。
「私も協力させて」
「いや、でも」
五織としてはこうして誰かに事を共有できるだけで十分であった。確かに協力してくれるのはありがたいが、それは同時に危険に巻き込むということになる。もうすっかり慣れてしまってはいるが、五織だって最初は死ぬことに抵抗があり、死ぬ直前の痛みや記憶が残ることは心の負担が大きかった。
もし、菜月を助けようと試行する中で澪が死にゆくことがあって彼女の心が折れてしまったら――
「私も菜月ちゃんを助けたい」
お人好しにもほどがあると五織はそう思った。
澪はまだ菜月と出会ったばかりで数回話した程度の関係だろう。それなのに危険を冒してまでそんな相手を助けたいと思うだろうか。
だが、澪の眼光は力強く、本当に助けたいと強く思っているのを感じて、五織は小さく頷いた。
「ありがとう」
「いや、こちらこそありがとう」
そうお互いにお礼を言い合うと、澪はまた五織の横に腰をかけた。
「菜月ちゃんが殺される理由……。それを掴まないとどうしようもないんだよね?」
「そうなる」
菜月を殺そうとするタイムリーパーがいないとなった以上、本当に五織には心当たりがない。もはや、菜月は世界に殺されているとそう思うのが妥当すら思うくらいに。
「……世界が菜月ちゃんを殺してる。か」
そう言って澪は腕を組んで考え込むと、またしばらく静寂が流れた。
「五織くんはさ、世界に感情があると思う?」
「いや、ないでしょ」
正直、世界に感情があって、気に食わない五織に対して意地悪していると言われた方が色々納得がいく気がするが、それは抑えて五織は否定する。
「だよね。私もそう思う。だから世界が菜月ちゃんを殺そうとするなら、必ず理由があると思うんだよ」
「理由?」
「そう。例えばだけど何か禁忌に触れたとか?普通に生きていたら起こり得ないようなそんな不条理な出来事があってそれを正そうとしてるみたいな?」
「それを言ったら、俺の"5回の試行"なんてよっぽど不条理なんだけどな」
「でもさ、五織くんが世界を変えようとするにはその事象の原因を変えないといけないんでしょ?それは結果に道理が通るように変えているからだと思うの」
「道理が通る……。確かにそうだね」
「だから、道理が通っていない改変がどこかで起こって、それを正そうとしているというか、補完しようとしているんじゃないかな?」
「道理が通っていない。改変――」
五織は澪の言ったことを復唱し、そしてある結論に辿り着くと、思考に眉を顰めていた表情をより一層深くした。
「あのくそ女神……」
「え?」
ボソッと呟いた五織に澪は聞き返すも、五織は言い直すことなく、スッとベンチを立ち上がった。
「七瀬の助ける方法を思いついた。三宮寺さんのおかげだ」
五織が手を差し出すと、澪は戸惑いながらもその手を握って握手を交わす。
「ただ、まだ一つだけ協力して欲しい」
「もちろん! 私も菜月ちゃんを助けるって言ったし、最後まで協力させて!」
握手をしたまま、澪はベンチを立ち上がると、もう片方の手を握ってガッツポーズをした。
「それで、私は何をすれば良いの?」
澪はどんとこいとばかりに心意気を見せつけると、五織の言葉を待った。
「――七瀬と俺と3人で下校してほしい」
▶︎▷▶︎
ホームルームが終わり放課になると、五織は担任から健康診断諸々の説明を受けてから、教室を出ようとバッグに教科書などを入れて席を立った。
「繰生くん」
「七瀬」
何度も向かい合った彼女、これで4回目の邂逅であるが、無事でいる彼女を見て五織は安堵する。
「どうした? 七瀬から呼び出すなんて珍しいじゃん」
しらばっくれたように五織はそう言うと、菜月の前に立った。
「これ」
「ん? ピン?」
「特待生の証。主席と次席は常に制服にこれを付けておくみたいだから無くさないように」
「へ、へぇ。こんなのあるんだ。知らなかったわ」
と、同じ通りの応答を繰り返す。後は、「それじゃ」と言って帰ろうとする菜月を引き止めればいい。だが、今回に限っては――
「あれ、五織くんと、トップの子じゃん」
菜月が帰ろうとしたとき、澪が声をかけた。もちろん、予定通りの行動だ。
お昼休み菜月を誘うことがなかった周回のため、澪と菜月はこれが初対面になる。
「なんの話してたの?」
「ああ、特待生のピンを七瀬が届けてくれたんだ」
「うわー、頭良い自慢か」
「自慢は別にしてないって」
別にここは台本なんてものはなかったが、あくまで自然に一緒に帰る流れに持っていくための会話だ。だが、無駄話が長いし、ちゃんと引き留めないと菜月は、
「あの、私帰っても?」
やっぱりとばかりに五織は澪にアイコンタクトで伝えるが、澪は特に気にしていないようで、五織の横を通り過ぎると菜月の手を握った。
「始業式で見た時、すごい綺麗な人だなーって思ったんだ。美人で勉強もできるなんて凄いね」
「ナンパか」とツッコミそうになるが、五織は何も言わずに様子を見ていた。
「あ、あの」
急に手を握られて近づいてこられたら誰だって戸惑うだろう。それに澪の気さくな笑顔を蔑ろにも出来ないから菜月も例外なく戸惑っている。
「あ、ごめんね急に。テンションあがっちゃって。私は三宮寺澪。五織くんと同じクラスなんだ」
「は、はぁ。七瀬菜月です」
「それじゃあ、菜月ちゃんって呼んでいい?私も澪でいいからさ」
「……澪さん」
「さん付けかー。まぁ今はそれでいっか!」
あっという間に距離を縮め、側にいた五織も何となく気圧されてしまった。というか、幼い頃からずっと一緒だというのに未だ苗字+くんで呼ばれている自分が情けなくなってきて五織は少し頭を抱えた。もちろん、男女での差はあるのだろうが、この調子じゃあ来月あたりには澪ちゃん呼びになっていそうだ。
「五織くん?」
「え」
「だから、聞いてなかったの? 3人で一緒に帰ろうって」
「あ、ああ。そうだな。そうしよう」
五織が呼び名に関してとかどうでもいいことに頭を悩ませているうちに、とっくに澪は一緒に帰る段取りを済ませていた。
▶︎▷▶︎
澪と菜月が横に並んで、五織はすぐその後を付けるようにして帰路に着く。基本的に澪がどんどんと喋るから会話には全く困らず、適当に相槌を打っているだけで何とかなった。菜月はというと、友達と喋ることに不慣れなせいか駅に着く頃には、心なしか疲弊しているようだった。
ホームに着いた3人は電車の到着を待った。ホームには小学生、中学生が溢れ、五織達と同じ緑英の生徒もおり、ほとんどが学生だけで埋め尽くされていた。
「なに?」
澪と話していた菜月だが、突然五織に頭を触れられ驚いたように振り返った。
「あ、いや、髪にゴミついてたからさ」
「ああ。そうなんだ。ありがとう」
菜月はそうお礼をすると、また振り返って澪との話を再開した。
(……良かったな)
彼女が友達と話しているところなんてほとんど見たことがなかった。クラスの端でずっと教科書やノートと睨めっこしているか、本を読んでいた姿しか見てこなかった。だから、彼女が友達と話すときはその無表情を少し柔らかくしているのなんて知らなかった。
「それで、私何も聞いてないんだけど、どうするの?」
菜月の後ろでしばらくじっと立っていた五織に澪はコソコソと話しかける。
「いや、このままでいいんだ。三宮寺さんはそのまま見ていてくれ」
「うん? わかった」
少し腑に落ちないようだが、澪はそう言うと菜月の横に戻って話し始めた。
よくそんなに話せることがあるもんだと、五織は後ろからそんな2人を眺めていた。
数分が経って、ホームにアナウンスが流れると遠くから電車が入ってくるのが見えた。
「それでさー」
特に気にすることなく話を続けていた澪だったが、突然飛び出してきた男の子が蹌踉け、菜月にぶつかると菜月はホームから飛び出した。
「はづ――」
手を伸ばし、菜月の腕を握って引きつけようとするも間に合わない。そのまま菜月の体は電車に轢かれ――
「大丈夫」
後ろにいたはずの五織はホームギリギリのところに姿を現すと飛び出した菜月を胸で受け止める。そして、両手で菜月の体を抱えて澪の方へ押し出した。
「――繰生くん?」
「ありがとう。七瀬」
反動でホームを飛び出た五織の姿は電車に呑まれ、すごい衝撃音がホームに鳴り響いた。
「五織く――」
そしてその瞬間、澪のいた世界は捻じ曲がり、突然電源を切られたテレビのようにブラックアウトした。