第2話 ここは異世界じゃないのだから
13830回
それが五織が異世界で"5回の試行"を使った回数である。
この力は女神によって転生させられた五織だけの特異の能力であり、一見便利な能力であるが制限が多く、頭の良い五織でも最後の最後までこの能力に翻弄されていた。
第一に、誰にもそのことを話せないという縛りがある。話そうとしても、文字で伝えようとしてもそれを連想させるような言葉は誰にも届かない。故に知っているのは転生させた女神と五織自身だけである。
第二に、五織の死をきっかけに、そこからキッチリ5時間巻き戻る能力であるが、5時間巻き戻った先でもう一度死ねばさらに5時間巻き戻れるわけではない。一度この"5回の試行"を使用すると、その巻き戻った5時間前がセーブ地点となり、その間に五織が死んでもまたセーブ地点からの再開になるのだ。
第三に、これが"5回の試行"と呼ばれる所以にもなるが、巻き戻った5時間の間に起こった五織の死以外の出来事が6回観測されてしまった場合、その事象が確定し、五織がいくら戻っても覆せなくなる。
例えば、男が食事をしていたとしよう。その彼が「テーブルからスープを盛大にひっくり返してしまった。」=「スープが床に落ちる」という事象が起こったとする。
一回目のループでは食べていた本人の不注意で肘が皿にぶつかって落ちた。(ループ前と合わせて五織が観測するのは2回目)
二回目のループでは本人に誰かが話しかけた際に、食事を運んでいたスタッフがこけてテーブルごとひっくり返った。(観測は3回目)
過程は違くとも結果的に「スープが床に落ちる」ということに変わりはない。これを6回観測をした時点で事象が確定し、それ以降のループでは何をどうやっても「スープは床に落ちる」ことになる。故に5回までの試行が可能ということだ。
5時間の中でいくらセーブポイントを変えようが事象が6回目を迎えた時点で事象は確定する。因みに、観測者は五織であるのに違いはないが、五織がその場にいなくても、見る前に死んだとしても"あった未来"として観測され、1回としてカウントされる。
この"試行できる回数が5回まで"というのも"あった未来"というのもどちらも"世界線"に起因する。
人が産まれた時点でその人が歩む未来はほとんど確定しており、それを一本の線で表したものを"世界線"という。
五織が事象を改変し、その改変したそれを観測するまで、世界線は変化しない。つまりは五織が改変途中で死にゆくことがあった場合、本来の道を辿ることは決定しており、ループしたという五織の記憶がある時点でそれが観測されたことになる。
五織が世界の改変を行うには不確定要素に介入し、本来ある道筋を少しずらしてあげることが必要だ。この改変は本来通るはずの線を弾くようなイメージであるが、弾き続けることでより強固になり、世界線の改変に及ばなくなっていく。その回数が5回。故に"5回の試行"なのだ。
▶︎▷▶︎
「五織くーん? 次移動教室だからそろそろ行かないと遅れるよ?」
朧げな視界が徐々に鮮明になり、五織の目の前には手のひらが振られていた。
「あ……」
五織はハッとして急に立ち上がると黒板の上にかけられた時計を見る。
(11時55分。戻ったのか)
五織が死ぬ前にまた時計は53分だったが、ぐずぐずしているうちにそれだけ経過してしまっていたらしい。だが、少なくとも"5回の施行"は成功し、5時間前へと戻ってきた。
「五織くん?」
手のひらを振っていた女子生徒(三宮寺澪さんだっけ?)が五織の顔を見て首を傾げると、気づいた五織は慌てて机の横にかけてあるバッグを漁りだす。
「あ、ああ。ごめん。移動教室だよな。なんか疲れてるみたいで呆けちゃったわ。すぐ準備してく」
「うん。音楽室の場所わかる? よかったら皆んなで一緒に行こうよ」
澪が指差した教室の扉には3人の男女(男2女1)がこちらを見て待っているようだった。その中にはループ前に話しかけてきた遥の姿もあり、五織が遥と目が合うとニコッと五織に笑いかけてきた。
――4限の音楽の授業は初回だったために、音楽の先生の自己紹介と2年次からは音楽は美術と書道からの選択科目になることの説明がメインで、のらりくらりと脱線しながら先生の話が続いていく。
(どうするか)
「最近の若者が聴くアーティスト」の話で盛り上がり始めた教室で五織はじっとピアノの上にあるメトロノームを眺めながら、七瀬菜月の死への脱却方法を考えていた。
(1番簡単なのは時間をずらすこと。まずはそこからか)
この"5回の試行"で起こる出来事は大体プラマイ30分ほどずれる。つまりは菜月が亡くなった時間から30分以上経過すれば未来の改変ができたことになり、逆に前後30分間は障害を取り除いても警戒しておかなければならない時間ということになる。
そして、この未来の改変で最も簡単にかつ成功率も高いのは時間をずらすこと。つまりは菜月が電車に乗る時間をずらしてあげるだけで未来が変わる可能性が高いということだ。
実際、菜月が電車に巻き込まれたのは駅のホームで走り回っていた小学生が原因だ。この小学生がいない時間帯に菜月がホームにいれば少なくとも電車に轢かれて死ぬことはないと言えるだろう。
(そうと決まれば……)
「繰生くん? 聞いていますか?」
あまりにぼうっとし過ぎたのだろう。いつの間にか教室はシンと静まり返り、生徒達の目線は五織に集まっていた。
「えっとー。来週から校歌の練習でしたっけ?」
咄嗟にループ前の授業の最後の方に言われたことを口にし、「あ、しまった」と五織は口を両手で覆った。すると、音楽の先生は目を丸くして、
「確かにそうですが、今はおすすめの失恋ソングに関して皆さんに聞いていたんです」
そう言うと、ビブラートの効いた高い笑い声を上げた。
(まだその段階だったか)
確かに次回の授業の話をする前にそんな話をしていた。音楽の先生が最近彼氏と別れたとかなんとか言い出し始めたのを皮切りに、質問攻めが始まったかと思えば、「そういうときはやっぱカラオケで失恋ソング歌うんですか?」と聞いた女子生徒の言葉から、おすすめの失恋ソングの話でやたら盛り上がっていた。結果、やっぱり東野カヤが一番良いという話に落ち着いていたが、五織が話をずらしてしまったために、話題は次回の授業についての話に切り替わり、おすすめの失恋ソングの話は中途半端に終わった。
「五織くん、未来予知じゃん。」とかなんとか言われてしまったが、これに関しては未来にさほど影響はないとして、五織はてきとうに話を流して4限の授業は終わった。
▶︎▷▶︎
「五織くん、よかったらこれから皆んなで――」
授業終了のチャイムが鳴り、ぞろぞろと皆が席を立つ中、澪は振り返って後ろ側に座っていたはずの五織へと声をかけようとするが、もうそこには五織の姿はなかった。
「なんか、チャイム鳴ると同時に凄い速さで出て行ったよ」
きょろときょろと辺りを見回す澪に遥がそう伝えてあげると、澪は「えー」と口をとんがらせたが、「そっかぁ」とすぐに諦めて、
「なんか用事でもあったのかな」
そうポツリと呟いた。
▶︎▷▶︎
(急げ。)
"菜月が電車に乗る時間をずらす"ことにした五織は放課後に菜月が自分を待つことがないように昼休みに接触することにした。
そのため、授業が終わるのと同時に教室から出た五織は早歩きで廊下を駆けて、階段をひょいひょいと飛ばすと目的のD組の教室へと辿り着いた。
五織のクラスであるA組は一号館と呼ばれるこのL字の形になっている四階建の校舎の1番先にあり、D組はL字を曲がる前、その前はE組、特別教室(2年以降の数学のクラス分けなどで使われる教室)がある。L字の両先にそれぞれ階段があり、A組側の方が食堂に近く、E組側の方には音楽室や美術室がある二号館があり、五織はその最短ルートを通ってきた。その過程で菜月とはすれ違っていないため、教室にいるはずだと思ったが――
「あの、七瀬さんってどこいる?」
五織は教室の扉のすぐ近くの席に座っていた男子生徒に話しかけると、男子生徒はお弁当を開こうとしていた手を止めてこちらを向いた。
「ん? 七瀬さんなら、窓際の1番前の席だと思うけどー」
そう言いながら男子生徒は立ち上がって、教室の真反対側の方を見るが、あれっと首を傾げた。
「もういないみたい。食堂かな?」
「まじか。もういないのかよ。ありがとう!」
そう言って五織はお礼をすると、角を曲がって自分の教室であるA組のロッカーに音楽の教科書をしまうと、すぐに食堂の方へと向かった。
食堂に行くには一度、教室のある三階から一降りた二階の渡り廊下を通るか、一階まで降りて向かうことになる。五織は二階の廊下を通り食堂に入ると、キョロキョロと辺りを見回す。
食堂は一階と二階で分かれており、一階は基本的にうどんやラーメンなどの麺類とパン屋があり、二階は定食や丼物といった感じだ。比較的二階は食べ盛りな運動部の部活の奴らで溢れ、一階は文化部や二階の混んでる列に並ぶのが嫌な生徒がこっちを選ぶ。
(貧乏性な七瀬は弁当派だと思ったけど、入学して3日目だし、お母さんの元同僚の方ともまだ距離があるとしたら台所を図々しく使うとか無理だろうしな)
と勝手に解釈をして、五織は二階を一周すると、一階へと降りた。
だが、肝心の菜月の姿はどこにもなく、五織は頭をかいてハァとため息を吐く。
(もしかしたら、トイレだったか?)
L字型になっている校舎の真ん中。つまりは廊下の突き当たりはトイレになっている。
五織は授業が終わってすぐにDクラスに辿り着いたし、菜月が授業が終わってすぐにトイレに行った可能性はかなり高い。
五織はすぐに体を翻して、また来た道を折り返す。そして、またDクラスに辿り着くが、やはり菜月の姿はそこにはなかった。
(…屋上とかか?)
この緑英高校は昨今ではめずらしく屋上の出入りが可能だ。この一号館の校舎も屋上の出入りができ、晴れの日の昼休みはたくさんの生徒で溢れると聞いた。今日は少し雲が見えるが、概ね快晴で気温も過ごしやすいほどだから、きっと多くの生徒が屋上で昼食をとっているだろう。
五織が屋上に着くと予想通りたくさんの生徒で溢れており、4、5人くらいの塊が点々としていた。そのグループの一つが五織に気づいて手を振ってきた。
「五織くーん! ご飯食べに来たのー?」
「三宮寺さん」
ループ前にはそんな関わらなかったはずだが、やけにこのループではよく会う。
澪は音楽室に行くときに話した同じメンツの中におり、遥は相変わらずニコニコして「どうしたの?」と問いかけてきた。
「あ、人を探してて。七瀬菜月ってやつなんだけど」
「あー! あの首席の子! 始業式のとき挨拶してたよねー」
遥が反応する前に澪が大きな声を出してそう言うと、「見た?」と他の3人に問いかけるが、全員顔を横に振った。
「ごめんね五織くん。誰も見てないみたい」
「いや、いいよ。こちらこそありがとう」
そう言って五織が体を翻して屋上を出ようとすると、「あっ」と声がかかる。
「五織くん。今日は忙しいみたいだけど、明日から一緒にご飯どう?」
「あ、ああ。もちろん」
突然の提案に戸惑ったが、特に断る理由はない。それに彼ら彼女らは良い人たちであることはこのループの中でよくわかった。
「それじゃ。また教室で」
そう言って五織は屋上を後にした。
――菜月捜索は困難を極め、五織は途方に暮れそうになる。
(D組に何度か戻ったけど、それでもいないし、マジでどこ行きやがった)
徐々に昼食を食べ終わった者達が、教室に戻って談笑してたり、外に出てサッカーをし始めたりしていた。
(まぁ最悪、5限の休み時間でもいいか)
そう思って諦めようとしたそのとき、ふと通りがかった空き教室に人影が映った。
「いたぁあ!!」
「わぁ!」
五織は勢いよく教室のドアを開けると、そこで1人で座って食事をしていた菜月が驚きの声を上げ、その拍子に口に運ぼうとしていた鮭が床に落ちた。
「あ。」
「……私の鮭」
菜月はスカートのポケットから取り出したティッシュで鮭を拾うと、悲しそうな顔を浮かべてそう呟いた。
「だぁー!」
五織が急に大きな声を出して、扉のところからいなくなると、またすぐに戻ってきた。
その手には先程までなかった包み物があり、教室にずんずんと入っていくと菜月の前に差し出した。
「俺のおかずやるから許してくれ!」
「え……」
「このアスパラベーコンと紅生姜入りの玉子焼きがおすすめだ。あーでも、ごぼうとひじきのマヨ和えも中々に美味しく作れたからどうだ」
そう言って自分のお弁当からひょいひょいと菜月のお弁当へと移していくのを、菜月はポカーンとしながら見ていた。
「くっ」
「え?」
「もう。これじゃあ、食べきれないよ」
菜月は遂に吹き出して笑うと、自分のお弁当からいくつか五織のお弁当へと移した。
「はい、交換」
「あ、ああ」
五織もまた移される料理をじっと見つめ、いつの間にか手に持った手作りのお弁当は、作ってきたものとはだいぶ別物になっていた。
そのお弁当を机に置くと、五織は菜月の隣の席に座った。
「わるい、取り乱した」
「ホント。繰生くんって突然だよね。毎回びっくりするからやめて欲しいんだけど」
そう言った菜月はまたいつもの無表情に戻っていて、普通に怒られてる感じがしたが、心なしか声は弾んでいるように聞こえた。
「そんなこと前にもあったっけ?」
「中学のとき、廊下で」
「あーあれな。九六七の乱……」
「何その胡乱な呼び名」
「知らねーよ。つけたの俺じゃないからな?!」
そんなこんなで話をしているうちにお弁当は食べ終わり、5限の予鈴が鳴ると、菜月はお弁当を持って立ち上がった。
「あっ!」
そこで五織はハッとして自分の目的を思い出して、教室を出ようとする菜月を引き止める。
「七瀬。担任の先生から聞いたんだけど、俺の特待生ピン預かってるだろ?」
もちろん、担任の先生から聞いたというのは嘘であるが、そうでないと五織がそれを知っている理由がないため咄嗟に理由をでっち上げた。
「あー。放課後でいい? 今持ってないし、教室に戻ってからじゃ間に合わないから」
「んー。できれば5限と6限の間の休み時間がいいんだけど」
放課後になると、また菜月の帰宅の時間が遅くなってしまう。そうなったらこの昼休みに校内を駆け巡った意味がなくなる。
そんな五織の苦労などもちろん知らない菜月は首を傾げて不思議そうにする。
「そんな急ぎで欲しいの? でもごめんね。6限は体育だから間の時間で渡すのは難しいと思う」
(まじか)
そういえばそうだった気がする。6限の時間やけに校庭が騒がしいなと外を見たら一年生のジャージを着た生徒がトラックを走っていた。体育の授業は何クラスかが合同でするが、DクラスはEクラスとの合同で、五織のAクラスとは別だ。
五織は一瞬考えたようにして、「それじゃあ」と前おく。
「明日でいいや」
「え? 早く欲しいわけじゃないの?」
「明日でいい! わざわざ待ってもらうほどじゃないんだ!」
「そう?」
「ほら、早く教室戻んねーと、遅れるぞ」
「う、うん」
菜月は少し腑に落ちない表情を浮かべるが、授業ももう始まってしまうため、それ以上は追及せずに教室へと急いだ。
▶︎▷▶︎
5限、6限と授業が終わり、ホームルームとなった。ループ前と同じく、最後の連絡事項の後に「ああ、それと」と担任は付け加えた。
「繰生は残ってくれ。休んでたときに配ったプリントや健康診断の説明をしたい」
「先生。ごめんなさい。今日は俺、事故のことで早めに帰らないといけなくて。明日じゃダメですか?」
まさか断られると思わなかったのだろう。先生は少し目を丸くして驚いたが、「それじゃ、明日でいいぞ」と了承してくれた。
「五織くん」
ホームルームが終わり、バッグに教科書やらを整理していた五織に声をかけたのは遥だった。
(残るの関係なく、話しかけてくるんだな)
「どうしたの? 遥くん?」
「あはは、普通に呼び捨てでいいよ」
「そしたら、俺も呼び捨てで」
互いに呼び方を確認し合うと、「それで何の用?」と五織が遥に問う。
「一緒に帰らない?」
「え?」
菜月のことを聞かれると思っていて時間がないから断わる準備をしていたが、帰りを誘われるとは思っていなかった。どうせ菜月が事故に遭わないか確かめるために後ろからついて行くつもりだったから逆にちょうどいいと思い、了承した。
菜月を何人かの生徒を挟んで視界に入れた位置でホームに並ぶと、五織は横目で菜月の方を見る。
ループ前よりも30分早くホームに着いたが、変わらずホームは小学生や中学生、そして緑英の生徒で溢れていた。
そして遥はと言うと、相変わらずニコニコして五織に話しかけ、五織はそれを横耳で聞き、簡単なリアクションだけとっていた。
普通の人だったら嫌な感じの印象を受けそうな五織の対応だが、遥は全く気にしていないようで今は「バスケ部かバレー部に入るか悩んでる。」という話になっていた。「気軽に入るならバレー部じゃない?」と五織が返すと「いやでもやるからには全国目指したいからね」と遥は言った。
緑英と言えばバスケ部と言われるほど、バスケの強豪校として全国で有名だ。学校もそれを売り出しており、バスケ部は他の部活に比べてかなり厳しいとも聞く。
「でも部活って青春! って感じがするよね」
「確かになー」
中学は一瞬だけサッカー部に入ったが、先輩と折り合いが合わなくてすぐ辞め、その後は特に部活に入ろうとも思わなかった。
高校からは何かやってみるのもいいなと思ってはいるものの、特に目ぼしいものはなかった。(七瀬と一緒の部活とかはありかもしれない。)
だが、そんな青春を送るためにも――
「必ず変えないと」
電車の来るアナウンスが流れ、五織の緊張感が増す。もし、前回のように菜月が押されるようなことがあれば瞬時に守ることくらいは可能な距離のはずだ。異世界での力を使うことにはなるが、この距離なら異常な速さが注目されることもないだろう。
だが、五織の心配とは裏腹に電車は何事もなくホームへと到着し、電車に次々と乗っていく学生達と一緒に五織も電車に乗り込んだ。
(よかった。とりあえず未来は変わったみたいだ)
3つ先の駅。そこで遥とは別れ、五織は発車ギリギリに電車を降りる。
隣駅がショッピングモールがあるのもあって、この駅もかなり栄えており、降りる客が多くて菜月を一瞬見失いそうになりながらもなんとか一定の距離を保って追いかける。
駅の改札を抜け、大きな横断歩道を渡ると、すぐに商店街が現れる。商店街もまた学生や買い物客で溢れ、まっすぐ歩くのも難しいくらいの賑わいであった。
商店街の途中、少し大きめのスーパーの前で菜月は足を止めると、そのスーパーの中へと入っていった。
(夕飯の買い出しか?)
スーパーに入ると菜月に気づかれてしまいそうなため、五織は少し離れたゲームセンターの入口で菜月が出てくるのを待った。
10分もすると買い物袋を持った菜月がスーパーから出てきて、すぐにその後をつけようとしたときだった。
やけに商店街が騒々しく感じ、五織が後ろを振り向くと、突如、人が突っ込んできて五織はその場に手をついて倒れた。
「っ…なんだ」
五織を突き飛ばした人影はそのまま凄い勢いで商店街を駆けていく。すると、背後から声が上がる。
「ひったくり!! 待てぇ!」
(ひったくり?!)
こんな夕方の混み合う時間によくやるもんだと思わされるが、そのひったくり犯は前を歩く菜月に近づいていた。
「あっ」
五織の脳裏には良くない想像が駆け巡り、五織はすかさず立ち上がる。
「七――!!」
声を上げようとした瞬間、ひったくり犯は菜月によって放り投げられ、地面に伏せられていた。
「…せ?」
そういえば、菜月は運動神経やその他もろもろが異次元だった。一体どこで習ったのか知らないが、あまりに見事な背負い投げを決めて、ひったくり犯をあっという間に捕らえて、異世界人の異名は相変わらずなのを思い知らされた。
「チートやろうめ」
――だが、ここは五織のいた異世界ではない。
異世界人なんて異名を付けられても、七瀬菜月は普通の人で、女の子なのだ。
「きゃあああ!」
最初に異変に気づいた女性の悲鳴が、ひったくり犯を捕らえ、安心しきっていた商店街にいた人々を凍らせた。
「――」
それは五織も同じく――その視界の中にいた菜月が地面に倒れるまで思考が凍りついていた。
ひったくり犯は菜月の拘束から逃れ、蹌踉けながら商店街を駆けていく。
「七瀬!!」
五織は商店街で立ちすくむ人々をかき分け、倒れた菜月に駆け寄る。
――血だ。
ひったくり犯はどこかに隠していた包丁で菜月の腹部を刺したのだ。流れる血はどんどんと地面に染み込み、菜月の体を抱え上げようとした五織の手は一瞬で真っ赤に染まった。
「救急車!!」
そう誰かが叫んですぐに別の誰かが電話をする声が聞こえた。
「っ……。嘘だろ」
五織は溢れて止まらない血をなんとか止めようと、必死に手で押さえつける。だが、無情にも血はどんどんと流れ、五織の膝下は赤くなっていく。
「あ……」
「七瀬!」
菜月が微かに目を開け、小さく声を吐くのに気づき、五織は菜月に呼びかける。
「七瀬! 大丈夫。すぐに救急車が来るから、だから」
「なんで……繰生くんがここに……?」
菜月はゆっくりと右手を挙げ、その手のひらを五織の頬に添わせると、少しだけ口角を上げた。
「お昼……の。玉子焼き……紅生姜入りの。美味しかったよ。……私も今度、真似して……みようかな」
微かな声でゆっくりと発せられた声に五織はうんうんと強く頷いた。
「ああ。どっちが美味いか勝負しよう。だから……」
喉の奥がツンとして声が出ない。もう自分がどんな顔でいるのかもわからない。泣いているんだか、笑っているんだか、それすらわからないほど感情がこんがらがって、きっと人には見せられない顔になってしまっているだろう。
頬に置かれた小さな手を握って、グッと力を込めると、菜月はまたニコっと笑い――
「大丈夫」
そう言うと彼女の瞳から光が消えて、握った小さな手はもう動くことはなかった。