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第1話 異世界救ったんだから恋愛に現を抜かしてもいいだろ

「……大丈夫」


 ――手に握る包丁

 使い慣れてきたはずの料理包丁だが、今は狙いが定まらない。

 1Kの8畳部屋には換気をしてなかったからか、未だ3日前に作ったカレーの匂いが漂っていて、それがやけに気になってしまう。

 胸を打つ鼓動が耳の内側から打ち付け、静かな部屋の中でカチカチと鳴る秒針よりも早くなる。


「……大丈夫」


 何度も自分に言い聞かせる。だが、脳はそれを拒否して、焦りと不安でおかしくなりそうになる。

 自分で向けた包丁の先が喉元に軽く触れると、更に鼓動が早くなって、握る手には汗が滲み出る。


「早くやらないと、俺にしかできないんだ」


 そう口にしても、どうしても体は残り寸前のところで動いてくれない。

 何度も何度も何度も。やってきたことのはずなのに。


 右手に握った包丁が汗と震えで徐々に手元から外れそうになるのを、添えた左手で強く握りしめて何とか耐えると、今一度大きく息を吸って、自分へと刃先を向かわせる。


「ぁぁぁぁぁぁあ!!」


 声にならない絶叫と共に青年の命はそこで終わった。



 ▶︎▷▶︎



 "異世界転生"


 彼、繰生(くりゅう)五織(いおり)はそれを経験し、その世界で勇者となり世界を救った。

 その後、転生させた女神に頼み、現世へと帰してもらった。

 暴走車に轢かれてぐちゃぐちゃになったはずの五織の身体は女神によってなかったこととなり、軽い脳震盪だけで済んだことになっていた。そのため、転生して過ごした約2年間の旅はたった2日の眠りで覚めることになる。


 もちろん、転生した世界に名残惜しさはあったが、どうしても五織には現世でやり残したことがあったのだ。


 それが、因縁の相手への復讐だ。


 五織は生前(今も生きてるが)、なんでもできる人間だった。勉強することはそれほど苦ではなく、運動も大抵のことは人よりできた。容姿も、自身の評価ではまぁ悪くはないというところ。それに高校になってから一人暮らしさせてもらえるくらいには家も裕福であり、何不自由ない人生――のはずだった。


 そう、幼馴染の七瀬(ななせ)菜月(はづき)さえいなければ。


 七瀬菜月は近所に住む女の子で、幼稚園、小学校、中学校とずっと同じところに通っていた。そもそも同じ学区である時点で私立にいこうとしなければそんなものだから、菜月以外にもずっと一緒だった奴も数人いたし、特に親同士が親しいわけでもなかったため、学校で会う奴くらいの関係だったが、五織にとっては因縁の相手以外何者でもなかった。


 と言うのもこの七瀬菜月は頭脳明晰、芸事や美術、音楽の才もありながら、オリンピック選手すら唸るほどの運動神経を幼少時から見せ、まさに天才というべき女の子であった。


 そんな子がずっと近くにいたことで五織の自尊心は傷つけられ、一度も1番という冠を収めることができなかった。

 両親は2番でも十分凄いと褒めてくれていたが、負けず嫌いな五織は彼女に勝つことに拘った。


 事が起こったのは小学4年生の頃。ある日、ホームルームが終わって放課になると、帰ろうとする七瀬に五織は宣戦布告をした。


「次のテスト! 絶対に勝ってやるからな!」


 だが、当の本人は不思議そうな表情を浮かべて、首を傾げると、


「そう? 頑張って?」


 それだけ言って五織の前から立ち去った。

 まるで眼中にないと、そう言われたような気がして、絶対に勝ってやると意気込んで五織は親に言って塾の数を増やしてもらった。



 ▶︎▷▶︎



 夜10時過ぎ――


 塾が終わった五織はフラフラになりながらも帰路についていた。連日の習い事に身体が限界を迎え始め、キビキビと歩くのは難しかった。

 五織の住んでる家は今歩いているこの閑静な住宅街を少し越えた先にあり、ここら辺に住んでいる人はもう家にいるのか、まだ仕事をしているのかわからないが、とにかくこの時間は人通りが少なかった。

 親には少し遠回りをしてもいいから、車通りのある表通りから帰りなさいと言われていたが、早く帰りたくて言いつけを破ってこの日はここを通っていた。


「ねぇ、君大丈夫?」


 そんな夜道を歩いていると、ふと背後から声をかけられた。

 振り返ると、そこには黒い服を着込んだ中年の男が見下ろしており、深く被った帽子とマスクの間から細い目がこちらを覗いていた。


「こんな夜に危ないよ? おじさんが家まで送ってあげようか?」


 中年の男は十字路に止まっている車を指差し、そう五織に言った。

 車に乗せていってくれるってことなのだろう。確かにもうフラフラの自分にとってありがたい申し出だったが、流石に"知らない人についていってはいけない"というのは心得ていた。


「大丈夫です」


 それだけ言ってぺこりとお辞儀すると、振り返ってまた歩き出した。

 だが、男は今度は五織の肩をガシッと捕まえると、片手でマスクをずらしてニコリと嗤った。


「そんなこと言わずにさ、大丈夫だよ。おじさんは優しいし。ほら君、北小の生徒だろう?北川校長先生とは古い友人でね」


「校長先生の友達ですか?」


「そうそう! だから怪しい人じゃないよ」


 今思えば、校長先生の名前なんてネットで調べればすぐに出てくる。だが、疲労感でいっぱいだった小学生の五織はそこで警戒を少し緩めた。


「でも」


 でも、やっぱり怪しいとそこで付いていかなかったのは偉かった。

 五織は掴まれていた肩をずらすと、背を翻して走り去ろうとした。だが、男の手は強引に五織の左の手首を掴んで引っ張り始めた。


 やばい。とそう思った時、咄嗟に右手がリュックの肩紐にぶら下がっている防犯ブザーに触れた。


 ここで鳴らせば、閑静な住宅街に高い音が鳴り響く。そうすれば流石のコイツも諦めるはずだ。


(だけど、引いたら?)


 親に言いつけを破ったことがバレる。警察や色んな人に知られて、学校でも塾でも噂話されるかもしれない。そんな不安が一気に(よぎ)って、動けなくなると五織の体は男に捕まって――


 ピリリリリリリリリリリリリリリ!!!


 突如、防犯ブザーの高音が閑静な住宅街に響き渡った。咄嗟に自分で引いたのかと思ったが、自分の防犯ブザーは肩紐から外れてはなかった。


「チッ! なんだくそ!」


 男が音に気を取られ振り向いたその一瞬、拘束が緩むとまた別の手が五織の手首を掴んで男から奪い去った。


「あっ。この!」


 呆気に取られた男の声が後ろから聞こえた。が、呆気に取られたのは五織も同じだった。


「こっち」


 柔らかく落ち着いた声で五織を引っ張りながらどんどんと突き進んでいく。見れば、自分を引っ張っているのは自分と背丈が変わらない女の子だ。住宅地に規則正しく設置された街灯に照らされる度に二つに結ばれた黒髪が揺れる。

 それに見惚れてるうちに、一つの家の中まで入ると、女の子はピシャッと引戸を閉めてすぐに鍵を掛ける。そこで初めて面と面が合った。


「七瀬……」


 呆気に取られたままでいる五織を菜月は何も言わずに通り過ぎると、中へと入っていく。

 五織は玄関に取り残されたまま、ぼーっと突っ立っていると、奥から声が聞こえてきた。


「はい。○×町一丁目13の――」


 どうやら、菜月は警察に電話をしているようで、小学生とは思えないハッキリとした受け答えで応じ、そのうち、少し時間が空くとまた別の電話に出ているようだった。

 その一部始終が終わってようやく、部屋から菜月が顔を出すと、中へ入るよう促された。


「七瀬……俺」


「大丈夫。連絡帳見て繰生くんの家にも電話したから。そのうち、迎えに来ると思う」


 4年生になってすぐだったか、"高学年にもなって自分の家がちゃんと言えないと緊急時に困るので"という建前で住所と電話番号などを記載するアンケートを書かされ、その後クラス全員分のアンケートが印刷された冊子が配られた。

 こんなプライバシー保護云々言われる時代によくやったものだと思ったが、本当に緊急時に必要になるんだと理解した。


「えっと……」


 部屋の中に入ったはいいものの、どう振る舞っておけばいいのかわからない五織は部屋の真ん中で佇んでいた。


「とりあえず、座ったら?」


 そう言われて、敷物を渡されると五織は言われるがままに敷物を床に置いて、そこに座り込んだ。


 木造の二階建ての家。引戸であったり、玄関にはスロープや手すり、できるだけ段差をなくすためか敷物が敷いてあったり、そして線香の香りが居間に充満しており、祖父母の家。って感じの印象を受けた。


 五織が座った居間にはローテーブルだけが置いてあって、後はいくつかの棚とその上に飾ってある写真と一眼のカメラだけといった簡素なレイアウトだ。

 キョロキョロと辺りを見回したあと、ローテーブルの向かいに座った菜月を見て、バツの悪そうに五織は口を開いた。


「えっと、親は?」


 辺りはシンと静まり返っていて、菜月の他には誰もいないような感じだった。

 五織の問いに菜月は首を横に振る。


「いない。両親は去年交通事故で亡くなって今はお婆ちゃんと2人。でもお婆ちゃんは今日は検査の日で帰ってこないから」


「えっ……」


 五織は言葉を詰まらせた。親がいない。しかも去年に亡くしたばかり(そういえば、去年の今頃1週間くらい休んでいる日があった)で、頼りのお婆ちゃんも一日いなくなるような検査をしてる。それほど元気というわけではないのだろう。


 五織は益々バツが悪くなり、ローテーブルの上にあったノートを見つける。そこには今日学校でやっていた算数の折れ線グラフの問題と解答が書かれていた。


「お前って、塾とか習い事してねーの?」


「してないよ。そんなお金ない」


 五織はまたもショックを受けた。自分は両親に頼んで習い事をして、色んな経験や勉強もわかりやすく教えてもらっている。もちろん、そこに手を抜いたこともない。が、目の前にいる彼女はそんなことをしないで、独力だけで頑張ってきていたのだ。


「なんでそんな勉強すんだよ。勉強が好きとか?」


 五織が勉強するのは他でもない菜月に勝つためだ。だが、そんな彼女は何を目的に、何を目標に勉強しているのか五織には謎だった。


「別に勉強は好きじゃないよ。しなくていいならしたくない」


「じゃあなん――」


「でも、勉強を頑張ったり、運動を頑張ったら、お父さんとお母さんは褒めてくれてた」


「っ……」


 菜月のその表情を五織は初めて見た。柔らかく笑ったその顔は嬉しそうに、だけど寂しげなそんな表情。

 自分だったら絶対に折れていたであろう状況でも強く生きようとしている彼女が眩しくて、そして、自分がどれだけ子どもであったのか、わからされた気がした。


 その後、父と母が迎えに来てくれて五織は無事に家へと帰った。

 翌日には警察や先生と父が応対し、後日、その不審者は無事捕まった。決定打となったのは菜月の証言で、あの一瞬のうちに車の車種やナンバーを覚えており、すぐに警察が足取りを追うことができた。

 被害者である五織のことは伏せられたが、その証言をした菜月には後日、警察から賞状を受け取っていた。


 そうして事件は幕を閉じた。


 そんな騒動があったから、五織が習い事をやめると言っても両親は疑問を浮かべることなく賛成した。だが、五織にとってはそこでは無かった。いざという時に動けないでいた自分への情けなさ、そして何より自分一人で頑張っている菜月に負けないために習い事をやめたのだ。


「自分だけで頑張ってやる」


 そう心に決意をして"打倒七瀬"と五織は意気込んだ。



 ▶︎▷▶︎



 気付けば時は過ぎ、中学三年生。


 公立の中学に進学したために、小学校から一緒のやつも多く、五織の立場はほとんど変わらずに周囲から羨まれる日々を送っていた。


 だが――


「勝てない!!」


 中学3年間、一度として七瀬菜月には勝つことができずにいた。今日もまた先々週に行われた期末テストの上位者20名の順位が張り出され、その張り紙の前で五織は頭を抱えた。


「あー、七瀬さんすげぇな。また一位か」


 五織の隣にいた男子生徒がそう言うと、五織はギロリと睨みつけた。


「んだよ。五織も()()二位ですげぇじゃんか」


「またって言うなぁあ!」


 そうして肩を落とした五織の背中を男子生徒はぽんっと優しく叩く。


「別に七瀬さんに勝てなくて良くね? あの人は異世界人だからさ」


 勉強だけでなく、運動やその他いわゆる技能教科と言われるものでもありえない才能を発揮する七瀬はいつからか"異世界から来たなろう系チート主人公"。つまりは異世界人と呼ばれるようになっていた。


「確かに、五織は教科って括りじゃあ七瀬さんに()()勝てないけどさー」


 一生という文字が五織の背中に思い切りのしかかり、心が折れかける。だが、そんなことなど気にも留めず、男子生徒はそのまま続ける。


「でも、七瀬さんは友達いねーし、皆んなが羨ましがるのは絶対に五織の方だろ」


 そう、菜月には友達と言える人がいないようだった。というのも、あまりにも人離れした能力に同級生達は畏怖が先行し、加えて本人の無愛想とも言える無表情と無感情な雰囲気に近づく者などほとんどいなかった。


「……そうかな?」


「そうだろ?」


「だよなー!」


 わかりやすく五織は明るい表情を見せると、その男子生徒と肩を組んで教室へ戻ろうとする。すると、前から今しがた話していた因縁の相手が歩いてきた。

 五織と菜月は中学3年間、一度もクラスが一緒にならなかったため、顔を合わせる機会もほぼなかった。そのため、実に3年ぶりとも思える再会に五織は目を丸くした。


(相変わらず、貧相というか質素っていうか)


 生徒会や吹奏楽部、その他厳しい規則のある部活に属していないほとんどの女子生徒はスカートを折ったり、自分なりに着崩して校則ギリギリのところでオシャレしているのだが、七瀬菜月は何にも属していないのに全くといって着崩さない。何ならそれらの厳しい規則のある者達よりもキッチリとした格好をしていた。

 そんな久々に見た彼女の姿を見て、五織はヨッと手を挙げる。


「よう、七瀬。久しぶりだな」


 だが、声をかけられた菜月は一度、その無表情な顔の眉を少しだけ顰めると、


「…繰生くんか。久しぶり」


 そう言ってすぐにスタスタと歩いていってしまう。


(アイツ、俺のこと忘れてやがった!!)


 五織はこれほどにない屈辱に襲われて、ガクンと肩を落とした。


「おい、重いって五織!」


 肩を組んでいた男子生徒が苦情をあげるが、五織の耳には全く届いていなかった。


「クソっ!」


 五織は振り返って、スタスタと歩いている菜月へと指差し、廊下の真ん中で声を上げた。


「七瀬! 待ちやがれ!」


 突然の大声に肩を上げて菜月は驚くと、面倒そうに振り返った。


「なに」


「お前、高校どこにいくつもりだ!」


「どこって。なんでそんなこと」


「いいから言え!」


「…緑英(りょくえい)だけど」


 緑英といえばここら辺で偏差値1番の高校だ。加えて特待生制度があり、学力が優秀な生徒は学費やその他費用が無償で支払われるといったところだ。

 五織もこれを聞いたとき、菜月がここにいくとほとんど確信はしていた。


「俺も緑英に行く! そんでお前に絶対に勝つ!」


 廊下の端と端で行われたこのやり取りはすぐさま全校生徒に知れ渡り、後に"九六七の乱"(繰→九。りゅうは中国語で六。それと七瀬の七でということらしい)と呼ばれるようになった。



 ▶︎▷▶︎



 乱を経て無事2人とも緑英高校へと入学することになる。

 当たり前のように首席は菜月が勝ち取り、五織は次席という順位であった。だが問題はない。同じ高校になったからには何度も彼女と競える場面がある。そこで彼女に勝てばいいのだ。


 そう意気込んでいた入学式の日。繰生五織は登校中に突如突っ込んできた大型トラックに轢かれ、その命を落とすことになった。



 ▶︎▷▶︎



「えー、突然の交通事故で2日遅れての入学になりました。繰生五織です。名字も名前もひっくり返しても使えそうだなーとか言われますが、是非、名前の五織って呼んでもらえると嬉しいでーす。よろしくお願いしまーす!」


 愛想よく、ニコニコと笑顔を振り撒いて、皆んなとは2日遅れての自己紹介をする。第一印象は大事だ。そこで注目を集めれば、友達も多くできるってものだ。だが、既に入学式から3日目。徐々にクラス内で関係ができてきたところだろう。そこでこけてしまえば最悪、輪に入れないなんてこともあるかもしれない。

 しかし、五織の心配とは裏腹に"交通事故で遅れた学年二位のイケメン"という何とも言い難い烙印が押され、休み時間には五織の周りには人が集まっていつの間にか話の輪の中心となっていた。


(まぁいいか)


 若干不名誉な称号を得てしまったが、そのうち皆んな忘れていくだろう。少なくとも第一の不安は解消された。後は――


(異世界からの力をどれだけ封じ込めるか……か)


 五織は異世界で三つの力を手に入れていた。何でもその力を引き継いだまま、現世に帰ってきたらしい。

 "世界を救った勇者の力が使える"となれば、正直この世界でやりたい放題と思えるだろう。だが、残念ながらそうはならない。

 何故なら、五織は異世界で全く魔法が使えなかったからだ。

 五織が転生した世界は魔法に溢れた世界であり、小さな子どもでも火を吹いたり、老人でも空を飛んだりしていたものだ。


 だが、五織はそれらの魔法を全く使えず、"運動能力の向上"という地味な能力が主力であった。

 と言っても異世界の人間の能力は現世の比ではなく、それらの者達にやっと追いつけるくらいのものでしかない。現世で言えばオリンピック選手くらいの能力を得た、くらいのもので人の域を出るものではない。もちろん、全ての競技においてそれほどの能力があれば十分過ぎるが、生憎、五織はこの力を使って目立とうとは思ってない。


 第二の能力"記憶の抹消"。これは正直、あまり使い所のない能力であり、とある理由で女神から押し付けられた力だ。しかも、抹消する記憶は五織に関することだけであり、異世界ではほとんど使うことがなかった。


 そして、三つ目は――


 まだ3日目(五織にとっては初日)だというのに早速6限までしっかりと授業があった。五織は初日と2日目を休んでしまっていたので担任に少し残るように言われ、配布プリントの説明や健康診断をどうするかなどの対応を受けているうちにまばらに残っていた生徒達もいなくなってしまった。


「ねぇ、五織くん」


 色々聞かれて、すっかり疲れてしまった体を伸ばしていると、背後から声をかけられた。


「なに?」と振り返るとそこには銀縁の眼鏡をかけた男子生徒がいた。


(一ノ瀬(いちのせ)(はるか)とか言ったっけ)


 まだ、クラス全員の顔と名前は一致していないが、なんとなく彼は印象に強く残ってた。シャープな顎のラインと、整った鼻立ち。目は少し細い気がするが、それが銀縁の眼鏡とよくあっていて、知的かつ好青年な印象を受ける。加えて、背は175ある五織よりも高くて180は超えているだろう。高校一年生にしてはかなり背が高い。見た目だけでも普通にモテるんだろうなと五織は思った。


「五織くんって首席の七瀬さんと同じ中学だったんでしょ? 七瀬さんってどんな人なの?」


「ん? そうだけど。七瀬の事聞きたがるなんて珍しい」


 本当にそうだ。七瀬はその超人的な能力から人から興味を持たれることがありそうだが、前述したようにそれ以上に彼女から放たれる隠気な雰囲気とそれを引き立たせる無表情が上回り、誰も近寄ってこない。だからこうして誰かに七瀬のことを聞かれるなんて初めてのことだった。


「そうかな? 凛としてて綺麗な人だと思ったけど」


 どうやら彼は女性への感性が少しズレているらしい。(まぁ確かに見てくれは意外と悪くないとは思うが)

 そのうち菜月の超人っぷりを見て、離れていくに違いないだろうが、今そんなこと言っても信じはしないだろうと、少しだけビビらすつもりで五織は口を開いた。


「アイツ昔からずっと1人でさ、人が寄ってきても、ああ、とか、うん、とか簡単な相槌しか打たねーし、何よりあの無表情。そりゃそのうち誰も寄ってこなくなるよな。それが少しだけでも変われば友人だってすぐできると思うんだけどよ」


「中学時代なんてついたあだ名が"異世界人"だぜ? どんな超人だよ。でも、1人で本当になんでもこなしちゃうんだよな。勉強だけならまだしも運動も音楽も絵も全部超越してて、だけど元々の才能ってわけでもなくてちゃんと努力してて」


(あれ?)


「アイツ、小学生の頃に両親亡くしててさ、お婆ちゃんの面倒見ながら、家事とかしっかりやってて。絶対に辛い時だってあったはずなのに弱味の一つも見せちゃくれない」


(なんかいつの間にか褒めちまってる)


「だから俺はいつか絶対アイツに勝って認めさせてやるんだ。きっとアイツは自分より下のやつに弱味なんて絶対見せないだろうから。俺がアイツの――」


(何口走ってんだ俺?!)


 ギリギリのところで我に帰り、五織はそこでぶんぶんと首を振ると、「とにかく!」と声を大にして、


「俺はアイツに絶対に勝つんだ。それまで他の誰かに負けるなんて許さねえ」


 そう五織が言い切ると遥はしばらく黙った後、「おお」とその細い目を輝かせた。


「なんか五織くんの絶対負けられない想いって感じが凄い伝わってきたよ」


「あ、ああ。ごめん。途中から俺の話みたいになってたわ」


 どうやら遥の感性がズレてるおかげで、五織が口走りそうになったことに気づいていないようだった。間一髪セーフだと五織は火照りそうになった頬に触れて落ち着かせていると、「あ、」と遥が教室の外を指差した。

 その遥が指差した方に顔を向けると、そこには今まさに話していた当人がそこにいた。


「繰生くん。ちょっといい?」


「俺?!」


 4歳からずっと知っている幼馴染。だが、一度も菜月の方から五織に話し掛けることなどなかった。だから五織は思わず驚きの声を上げてしまった。



 ▶︎▷▶︎



 五織は今しがた自分が自覚してしまいそうになった想いと、菜月に呼び出されるという珍しすぎる出来事の驚きにドギマギしてしまっていた。それを悟られないように平静を装って少しぶっきらぼうな口調で聞く。


「それで? 何の用だよ」


 ちなみに菜月が五織に用があることを伝えると、遥はニコニコしながら、「また明日ね」とすぐに帰っていった。


「いいの? 友達先帰っちゃったけど」


「ん? ああ。問題ないよ」


「そう。それじゃあこれ」


 手を出すように促されて、手を差し出すとぽんとそこに何かを渡された。


「ピン?」


 長方形のシルバーのピン。その長方形の真ん中には緑に彩られた斜めの線が入っており、少し特別感のあるようなピンだ。


「特待生の証。首席と次席は常に制服にこれを付けておくみたいだから無くさないように」


「へ、へぇ。こんなのあるんだ。知らなかったわ」


 急に呼び出されてドキドキしたこっちの気持ちを考えて欲しい。こんなのただの業務連絡だ。別に担任に渡せばいいものの、同じ中学出身で気の知れた者からっていう気遣いなのかもしれないが余計なお世話だ。舞い上がってしまった自分が恥ずかしくて五織は顔を手で覆う。


「それじゃ」


 そんな五織には目もくれず、菜月はそそくさと下校しようとする。


「ちょっ。せっかくだから一緒に帰ろうぜ」


「? ……良いけど早くして」


 そう了承を得ると、五織はすぐに机に掛けられたバッグを背負って教室から出てくる。


「行こっか」


 ――4歳から今まで、約12年の付き合いを経てやっと、初めて一緒に下校というものをしている。その事に喜びを感じてしまっていた。


(違う。そういうことじゃない)


 必死に気づかないフリをして、心の中の自分と葛藤する。


「繰生くんって変だよね」


「へ?」


 その言葉。そっくりそのままお返ししてやりたいのをギリギリで抑えて、そのまま喋る菜月の方を見る。


「入学式休むなんて。もしかして、まだ春休み気分でいたの?」


「は?」


「え?」


(コイツ、俺が事故ったことすら知らなかったらしい)


 休んでいた事情に関して説明すると、菜月はその無表情を少しだけ崩して驚いた表情を浮かべた。そして次には頭を下げてごめんと謝られた。


「い、いや。別に七瀬は知らなかったんだし、しょうがねぇよ」


「でも、失礼な事言っちゃったし」


「いいから、顔上げてくれって」


 そう何度か諭して、やっと菜月は顔を上げた。それに五織も小学生の時に菜月の両親の事故を知らなかったし、関わりが少なければそんなものだと五織は思った。


「でも、軽い脳震盪で済んで良かったね。不幸中の幸いだ」


 菜月はそう言って無表情のまま、グッと握った拳を胸あたりに挙げた。

 ガッツポーズかなんかのつもりだろうか。よくわからないが、無表情にそのポーズが不釣り合い過ぎて、五織は思わず吹き出してしまう。


「なに」


「なんでも」


 そんなやり取りを繰り返しているうちに駅の改札へと着き、菜月はICカードをタッチして中へと入っていった。


「え? どっかいくの?」


 緑英高校は五織の実家の街のすぐ隣の街にあり、徒歩圏内の距離だ。わざわざ電車を使うようなところではなく、それは同じ街に住んでいるはずの菜月も同じはずだが。


「え? 家に帰るだけだけど?」


「え?」


「え?」


 ――菜月の話では去年の秋頃、お婆ちゃんが亡くなったのを境にお母さんの元同僚のところへお世話になっているらしい。そのため、緑英高校の最寄駅から3つ先に行った駅が今の菜月が住んでいるところだ。


「なんで付いてきたの?」


 駅のホームで2人は並び合い、一緒に電車を待っていた。菜月の言ったように五織は電車に乗る必要がないため付いてくる意味がない。


「いや、少し寄りたいところがあってさ」


 菜月が降りる駅の一つ先の駅に大型ショッピングセンターがついた主要駅があるため、そこに行く用があると咄嗟に嘘をついた。

 本当はこの一つ先の駅が今一人暮らしをしている家の最寄だが、最寄駅からはかなり離れているため、歩いて帰ったほうが早い。

 それになんとなく、一人暮らしをしていることを菜月に知られたくなかった。


「電車、しばらくこねーな」


 駅の電光掲示板を見ると、五織達が乗りたい電車は後10分ほど来ない。この駅は各駅停車しか止まらないために、一度電車を逃すと次の電車は大体15分前後は来ない仕組みだ。


「本当は緑英じゃなくても良かったんだ」


 突然、菜月がポツリと呟いた。


「繰生くんが、廊下で私に聞いたでしょ? どこの高校行くんだ?って」


「うん」


 アレは今思い出しても恥ずかしい記憶の一つだ。突然、廊下で大声を出しての宣戦布告。しかも"九六七の乱"とか謎に少し捻った名前を付けられる始末で、気がどうかしてたとしか思えない。

 そんな珍事を突然引っ張り出してなんの話だろうかと五織は首を傾げた。


「あのとき、ちょうどお婆ちゃんが亡くなったばかりで、琴音さんの家に厄介になるのは決まってたんだけど、だったら緑英である必要もないかなって。悩んでたときだったの」


 "琴音さん"とはきっとお母さんの元同僚の方だろう。つまりは「お母さんの元同僚の方のところに住むことになるから、登校時間や電車賃がわざわざかかる緑英にする必要なかった」ということだろう。実際、三つ先の駅だったら緑英と同じく全額無償の特待生制度のある学校がある。偏差値の面で言えば緑英より少し下がるが、毎年難関大への進学者を多く出してる高校として有名だ。(緑英はあくまでも生徒の自主性を重んじた校風で進学実績はそこそこくらい)


「だけど、あんな皆んなの前で宣言したら取り下げるのもどうかなって思って」


「え」


 意外だと思った。菜月は誰に何を言われようとも、自身を貫き通すそういう子だと思っていたからだ。

 例え、全校生徒に知れ渡るようなことがあったとしても、合理的な考えを優先してあっさりと手放すものだと。


「繰生くんのせいだからね」


 そう言った菜月は無表情を少し崩して、小さく微笑んだ。


「あっ」


 胸の高鳴りが再発した。それも、もう抑えられない勢いで鼓動が早くなっていく。触らなくてもわかるくらい顔が赤くなっていっているのを感じて、思わず菜月から目線を外して俯いた。


(その笑顔はずるいって)


 初めて見る彼女の笑顔。それがギリギリで留めておいた想いの壁を思い切りぶち破り、ハッキリとわかってしまった。


(俺は七瀬のことが)


 勝ちたくて、勝ちたくて、しょうがない相手。最初は地味だと思っていた彼女はずっと強くて、大人な女の子だった。

 ひたすらに追いかけているうちにそれはいつしか憧れとなり、恋となった。

 今日、遥に菜月のことを聞かれた時、ヤキモキしてしょうがなかった。

 この子と付き合いたい。だって、彼女が自分を受け入れてくれるのだとしたら、それは間違いなく勝利であることに違いないんだから。


 遠くから電車が入ってくる。ホームは緑英の生徒だけでなく、私立に通う中学生や小学生で溢れていた。


「七――」


 五織が菜月へと声をかけようとした瞬間、急に飛び出してきた男の子が五織の前で蹌踉け、電車がホームへ入って来るのを見ていた菜月の背中を押した。


 菜月の体は、勢いよく入ってきた電車に衝突し、一瞬のうちにその姿が電車の陰へと呑み込まれた。


「きゃぁぁぁぁぁぁあああ!!」


 ホームには女子高校生の叫び声が響き渡ると、小学生達が泣き叫び、中学生は奇声を上げた。学生で溢れかえっていたホームは一瞬で大混乱状態へ陥った。



 ▶︎▷▶︎



「違う」


「こんなの違う」


 勢いよく玄関のドアを開け、すぐにキッチンの下に収納されている料理包丁を抜き取って、自分の喉元へと向けた。


 五織が異世界で手に入れた三つの力のうちの最後の一つ。"5回の試行(リファイブ)"は五織が死ぬことで発揮されるタイムリープ能力だ。但し、戻れる時間は5時間前であり、それ以上前には戻れない。それ以外にも色々と制限はあるが、異世界で五織が魔王を倒せたのはこの力があったことが1番大きい。


「今死ねば……」


 五織は壁掛け時計を見る。時計は16時53分。つまり今死ねば、11時53分に戻ることになり、起きる先は三限と四限の間の休み時間だろう。それだけあれば菜月を救うことはきっと可能だろう。だが――


(本当に能力を引き継いでいるのか……?)


 五織が異世界から帰ってきて、まだ1日。確かに"運動能力の向上"は引き継いでいる。と言ってもそれはあまり人智から外れたような能力ではないため、引き継いでいても実感は薄い。

 それに加えて明らかにこの"5回の試行(リファイブ)"だけは異質である。

 転生した異世界でもこのような能力を使える奴はいなかった。つまりは五織だけの特権のような力なのだ。

 それが現世に戻ってきても他の能力と同じように引き継がれているとはとても思えなかった。


「大丈夫」


「早くやらないと。俺にしかできないんだ」


 5時間以上前には戻れない。つまりは死ぬのが遅くなればなるほど取り返しがつかないことになってしまう。


「七瀬……」


 目の前で消えていった彼女の姿を思い出す。大きな衝撃音と、自分に飛んできた大量の血。その光景がフラッシュバックする。

 彼女がいない世界なんて、五織にはもう考えられなかった。


 深く息を吸って、両手で握った包丁をグッと離すと、勢いをつけて思い切り自分の喉元へと突き刺す。


「ぁぁぁぁぁぁあ!!」


 ――刺した痛みが脳を刺激する頃には五織の意識はもうここにはなかった。


『俺が必ずお前を取り戻す』

お読みいただきありがとうございます


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不定期更新になりますが、ぜひ今後ともよろしくお願いします

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めちゃくちゃ面白いし気づいたらページめくっていた! 異世界戻りの恋愛ものって新鮮すぎて好きすぎる。元々異世界ものと恋愛ものが好きなんですけど、欲張りコースじゃないですか。最高です。前居た異世界の設定も…
私尋常じゃないほどの感想下手なので、曖昧な事しか言えないのですが…「五回の試行」って面白い能力ですね。 これからどういう話になっていくのか楽しみです
あのですね、なんというか……とても好きです。 最初のシーンは初見だと何のことかわからなかったので、考えずに読んでいたんですが、小学生の頃の馴れ初め? だけであまりにもてぇてぇが詰まっていてニコニコでき…
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