第三十一話
「悪霊化!?」
明日葉と出会ってからすぐの頃、悪霊に出くわしたことがある。
図書室に封印されていた悪霊だ。あの時の悪霊は全体が黒い靄のようなもので包まれていて、その全貌ははっきりとは見えなかったが、今悪霊化仕掛けている美優は違う。
さっきまで普通の女子高生の見た目だった美優の顔の半分が、恐ろしい形相をへと変化していた。
『コ……ロ……ス』
いつもの明るかった美優の声とは真逆の、地響きかと思えるほど低くそう言って片手を突き出し、ゆっくりと力強く握る仕草をした。
「ぅぎゃあああああぁぁぁぁ! う、腕がぁ!」
沙奈絵さんの近くにいた犯人が突如悲鳴のような絶叫を上げる。
美優から視線を外して叫び声の聞こえた方を見ると、犯人の右腕の曲がるはずがない場所が、曲がってはいけない方向に曲がり、その腕の関節が針金のように七つへと増えていた。
「これが悪霊の力?」
さっき俺を助けてくれた明日葉とは別の、人に害を与えるための凶悪な力だ。
これだけの力を使うってことは、当然代償もあるはずだ。
『悪霊は私たちと違って人に害を及ぼすもの。発揮する力は普通の幽霊の比じゃないわ! このままだと、美優ちゃんが元に戻れなくなっちゃう!』
明日葉が俺の思考を読んだように教えてくれた。
確かに普通の幽霊と違って悪霊は人に害を与える存在だ。害を与えるということは、それ相応の力が必要だ。
悪霊の力が強力な理由はそれか。
そしてもう一つ、
「元に戻れない?」
どういうことだ? 幽霊も悪霊も既に死んでいるのだから、元に戻るも何も無いはずだ。
『一度悪霊化しちゃうともう普通の幽霊には戻れないの。除霊されるまで永遠に人を呪い殺す存在になっちゃうの!』
「除霊されるまでって……。ん? 除霊ってまさか!」
『除霊って言うのは成仏するのとは違って存在そのものを消すことなの。そうなったら輪廻の枠から外れて、永遠に転生出来なくなっちゃうの』
明日葉が俺にしがみつき、懇願するように俺を見上げる。
「永遠に? 生まれ変わることも出来なくなるってことか?」
『人を殺す前の今ならまだ間に合う。隼人! 美優ちゃんを助けてあげて!』
「当然だ! っ痛えぇ!」
『隼人、その傷!』
今の今まで忘れてた。
そういえば今の俺は腹と脚を刺されてたんだった。驚くことが多すぎて痛みを忘れていた。
動くか? 大丈夫だ。我慢すれば歩ける。
「大丈夫だ。何とか動ける。沙奈絵さん、俺のスマホで警察に連絡を!」
心配そうな明日葉の視線を受け止め、沙奈絵さんに向かって叫んでからスマホのロックを解除して投げる。
放心状態の沙奈絵さんだったが、俺がスマホが飛んでくるのを見て我に帰り、スマホを受け止めた。
すぐに通話画面に移動さえたのだろう、人差し指が三回――間違いなく「一一〇」――をタップしてから視線を俺に移して口を開いた。
「西園寺さんはどうするんですか?」
沙奈絵さんに俺と明日葉の会話は聞こえていない。今の美優の姿も分からない。
だが突然犯人に起こった出来事と、俺の言動から自分の姉が悪霊化していると予想したんだろう。
「美優を止めます!」
そう言い残して犯人を襲っている美優の元へと脚を引き摺りながら急ぐ。
「あ……ぅ……」
美優に襲われた犯人の右腕はだらりと力なく垂れ、左膝が逆方向に曲がっていた。
俺の目の前で犯人の右腕を破壊した後、左足を折ったのだろう。
その目は恐怖に染まり、口からはだらしなく涎が垂れていた。美優の方を一瞬だけ見てから黒目が上がり、気絶してしまった。
犯人にも今の変わり果てた美優の姿が見えたのだろうか。
『コ……ロス。コ、ロス。コロス。コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスゥゥゥゥゥ!』
「美優うぅぅぅ!」
怨嗟のように殺意を露わにして迫る美優と犯人の間に入り、両手を広げて犯人の姿を隠し、精一杯の音量で美優に訴える。
「やめるんだ! 人を殺してはダメだ! 奴はもうすぐ警察に捕まる。だから元の美優に戻るんだ!」
そう言いながら美優の姿を視界に入れる。
さっきまで半分しか変化していなかった顔は怒りに染まり、明るい笑顔を作っていた口からは鋭い牙が伸び、頭の左右から角が生えていた。
全身を黒い靄が装束のように覆い、わずかに見える手は凶悪なほど爪が伸びている。
これが悪霊……。もはや地獄の鬼じゃないか。
『ガ……ガ……』
鬼と化した美優が唸る。俺の声が届いたか?
『コロスウウゥゥゥ!』
「ぐは!」
俺の希望は美優の怒号のような叫び声にかき消され、重い衝撃波が俺を襲い吹き飛ばされ、そのまま後ろで警察に連絡していた沙奈絵さんの横を通り過ぎて壁に叩きつけられた。
その衝撃で傷を負っていた右脚と腹部から血が吹き出し、砂と混じって地面に赤黒いまだら模様を作り上げた。
アニメではよく見るシーンだが、まさか俺がこの状況を味わうことになるとは。想像以上に痛い。
「俺が、分からないのか?」
「西園寺さん!」
俺の元に沙奈絵さんが来て肩を貸してくれた。
女子中学生の沙奈絵さんには俺の体重は重いはずだ。なるべく体重を掛けないようにしたいが、さすがにやせ我慢できる限界を超えている。
申し訳ないと思いながら沙奈絵さんの肩を借りて立ち上がり、美優へと視線を移す。
鬼と化した美優は、もう俺には興味がないといったようにゆっくりと背中を向け、犯人に向かって一歩ずつ夕闇に染まった廃工場の中を迫っていった。
幽霊はこの世の存在ではないから足跡などは残らないのだが、美優の通った箇所にどす黒い影が残り、炎のように立ち上っている。
「くそ! もう何を言っても聞こえないのか?」
衝突した壁を拳で叩き歯を食いしばる。壁を叩いた音が空しく響き、残響音が遠く聞こえた。
その残響が俺の無力を示しているように聞こえて、それが余計に悔しい。
このままだと見えていないとはいえ、沙奈絵さんの前で美優が殺人を犯し、この誰もいない廃工場で人を襲う悪霊になってしまう。
どうすれば良い? どうすれば……。
「熱っ!」
俺の肩を支えていた沙奈絵さんがそう叫び、突然俺を放して胸のあたりに手を当てた。
シャツの襟元から何かを抜き取り、掌に乗せてそれを見て驚愕の表情をした。
「これって……お姉ちゃんのネックレス。西園寺さん! お姉ちゃんのネックレスが!」
支えを失った俺がバランスを取りながら立ち上がり、沙奈絵さんの手元にあるそれをみようとした時、彼女の目が驚愕の色を移して口が開くのが見えた。
「……あれが、お姉ちゃん?」
恐怖からか、それとも再び見ることが出来た姉の姿に感動してか、その声は震えていた。
「沙奈絵さん、美優が見えるのか?」
どんな原理か知らないが、沙奈絵さんは今の美優が見えるらしい。
俺と美優の関係は偽物の兄妹だが、沙奈絵さんは実の妹だ。俺の呼びかけには反応しなかったが、彼女なら……。
「美優! 沙奈絵さんが美優の姿を見れるみたいだ!」
一縷の望みを掛けて美優に叫ぶ。
『サナエ?』
俺の言葉を聞いた美優の足が止まった。美優を止めるなら今しかない。
「そうだ! お前の可愛いがっていた妹の沙奈絵さんだ! 良いのか? 大切な妹に殺人を犯すところを見せて。本当に良いのか?」
正直俺は美優がどれだけ沙奈絵さんを大切にしていたかは知らない。
だが兄弟姉妹っていうのは、家族であり最も近い友人でもある。親に話せないことでも二人なら打ち明けることも多い。
場合によっては親よりもお互いのことを理解してる間柄だ。
その妹に自分が罪を犯すところは見せたくないはずだ。その気持ちを声に乗せて、全力で掴みに行く。
『サナエ……サ奈エ……沙奈エ……沙奈、絵……沙奈絵、ちゃん?』
徐々に美優を覆う黒い靄が晴れ、美優の身体の中に吸い込まれていった。
角と牙が元に戻り、表情が元の俺が知ってる美優に戻っていた。
そして今まで俺が見たことない、涙を目一杯に溜めて俺たちを見つめる美優の姿が現れた。
妹である沙奈絵さんをダシにした、あまり褒められないやり方だったが、何とかうまくいったようだ。
「お姉……ちゃん? お姉ちゃんなの?」
沙奈絵さんの方に視線を移すと、沙奈絵さんの瞳もまた涙で濡れていた。
まだ自分に起きたことが信じ切れていないのか、おぼつかない足取りで美優に近づいていく。
『沙奈絵ちゃん!』
美優の意識が戻り、沙奈絵さんの場所まで走って行き抱き着く。
「お姉ちゃん! 美優お姉ちゃん!」
沙奈絵さんも美優を抱きしめ返し、現実であることを確認するように名前を呼ぶ。
「見える! 触れる! 会いたかった! ずっと……お姉ちゃん!」
『沙奈絵ちゃん! 何で? どうして?』
「わからない! でもこれ。これってお姉ちゃんが大切にしてたネックレスでしょ! これが急に熱くなって、それで」
不幸な事件に巻き込まれ、引き裂かれた二人の姉妹。文字通り住む世界が違う二人が、再び出会い、触れ合い、会話をしている。
今俺が見ている光景は奇跡と呼ぶほかない。
『どうやら一時的に沙奈絵ちゃんの霊力を上昇させる道具になったみたいね』
「明日葉!」
二人を見ていた俺の横に、いつの間にか明日葉が来てそう呟いた。
『霊具って言ってね、死んだ人が大切にしていたものって、不思議な力を持つことがあるらしいわ』
「なるほどね。それで美優が大事にしていたネックレスを身に着けてる沙奈絵さんは、美優の姿が見れるってことか」
『うん。そうだと思う。あ! 警察が来たみたいだよ』
「やっとか……さて、どうやって説明しようかな? まぁこれだけの傷を受けてるし、正当防衛……じゃなくって過剰防衛にはならないだろ!」
致命傷ではないが俺もかなりの重傷を負った。
犯人の腕と脚が若干――もとい、かなりやばいことになっているが、死にはしないだろう。
これなら警察の現場検証でも、かなりの格闘があったと判断されるだろうな。
『そういえば、もう大丈夫なの?』
今後の事について考えを巡らせ、一息ついていた俺に明日葉が問いかけてきた。
大丈夫? 何が? あ、そうか俺が受けた傷。かなり深手だよな。
って言うか、そんなことも考えられないってことは……。
「いやまぁ……ぶっちゃけもう限界かも……」
『隼人!』
明日葉の言葉を最後に、俺の意識は闇に溶け込んだ。




