嘘だと言ってよ、みおねぇ
「嘘だと言ってよ。……冗談、よね? 澪」
鈴香は思わず立ち上がっていた。
「もう決めた、って……、何よ、それ!」
持っていたマグカップをテーブルに叩きつける。鈴香は呻いた。
澪は涼しい顔で座ったまま、長い髪を掻き上げる――優雅な仕草に、鈴香はいっしゅん見とれてしまう。
「そんな……、だって、昨日までは、何にも……」
俯いて絞り出すような鈴香の声。涼しい顔の澪。
「本当に、出て、いくの?」
鈴香、すがるように。
ぽろぽろと涙を落とす。
テーブルが雨で煙る。
「今、あなたに出ていかれたら、私」
想像して怖くなったのか、両肩を抱く鈴香。
一緒に暮らしてきた三年半の思い出が最初から最後まであっという間に脳内で再生される。鈴香にとって、そのどれもが宝石と同じで、得がたく、替えがたく――失いがたかった。
立ち上がる澪。がたん、という椅子の音が鈴香には死刑執行の音に聞こえた。
「ま、待って!」
鈴香が澪の背中にしがみつく。背の低い鈴香は、澪の腰のあたりで震えている。
澪は歩みを止め、けれど正面を向かず、迎え入れない。
「私の何がいけなかったの? 話し方? 笑い方? 身体? 私、何でもするからっ……」
澪の背中で静香は泣き続ける。
しばらく、まるで罰を受けるように澪は動かなかった。そうしていればじき放免されるとでもいうように。
やがて腰に回されていた鈴香の手をゆっくりと引きはがす澪。
「澪っ!」
鈴香が澪の正面に回る。ため息混じりの澪。
「言いたくなかったって、な、何よ」
そこで、初めて鈴香の顔がたじろいだ。
「昨日、あそこにいたの……?」
目をいっぱいに開き、両手で口を覆う鈴香。
澪は唇をきつく閉じて、咎めるように彼女を見下ろした。
「ああ……。だ、だって、いつも仕事で遅い澪が私に、構ってくれないから……」
へなへなとくずおれる、鈴香。
「あなたが、あなたがいけないんじゃない……」
鈴香を避けて、玄関口に歩いていく澪。
「ま、待って! 待ってよ」
けれどその場からは動けず、鈴香は手だけ廊下に突き出して、思いの力で澪にくさびを打ち込もうとする。
玄関で振り返る澪。
「僕は、誰でも良かったんじゃない」
「みお……?」
「――君しか要らなかった」
鈴香は静かに話す澪の声に気圧される。怜悧で、触れるだけで凍り付きそうな声。
「君だけで良かったんだよ」
向き直り、彼は静かに出ていった。
「待ってよ……、お願いだから。澪、ねぇ……」
くすんだフローリングに、鈴香の涙が落ちる。