第35話 天国と地獄
デイは一人で「クララと魔王」の本を勉強していた。
「あ、右大臣」
デイは慌てて本を隠す。 今更勉強をしているところを見られるのはなんとなく嫌だった。
「お利口ですな。 お勉強ですか」
ところが右大臣は穏やかに微笑みながら近付いてくる。
「う、うん」
デイは恥ずかしそうに頷いた。
実はカジノで大借金してからというものずっと、後ろめたくて右大臣と離れていたのである。 無論、支払っていないので日々利子が膨らんでいることなど理解していなかったが。
「勉強するときには、気分転換も必要ですぞ」
そう行って右大臣はレモン水を差し出した。
「うわぁ! ちょうど喉が渇いてたんだ!」
デイは顔を輝かせ、その差し出されたレモン水を一気に飲む。
「おいしかったぁ」
喜ぶデイを右大臣はまじまじと見つめる。
「……? どうしたの右大臣」
「え、いや、いえいえ!」
右大臣は笑いながら部屋を去り、そこから先は、デイの運も悪かった。
「……レモン水のんだら、お腹すいちゃったなぁ」
デイはそう呟くと調理場に行く。 すると女官達がきゃあきゃあ騒いでいた。
「どうしたの?」
「あ、王子様! 御覧下さいませ、特大ゼリーでございます!」
「女官ポロロが試しに作ったのですわ。 こうも見事に出来るとは!」
見るとテーブルの上にプルプルと震える、デイの頭よりも大きな――コーヒーゼリー。
「さあさあ、食べましょう♪」
女官達はゼリーを取り分けておいしそうに頬張る。
「僕もいい?」
デイが尋ねると女官達は嬉しそうに”おすそわけ”をした。
デイはそれをペロリとたいらげる。
ポロロは相当スイーツ好きの女官とみえる。 それはとても美味しいコーヒーゼリーだった。
「ごちそうそま♪」
デイは満足してそう言うと、自分の部屋に戻った。
そしてもう一度、本を開く。
この本を見ていると、ラムールが側にいてくれるような、そんな気がした。
だが。
しばらくしてデイは自分の体が熱っぽいことに気づく。
「……あれ?」
視界がゆらぐ。
デイは机に伏せった。
「……きもち、わるい……」
どの位時間が経ったのだろうか。
「デイ王子!?」
見回りの近衛兵が床に伏せて吐き続けるデイに駆け寄った。
+++
一方、テノス国で何が起こっているか知るよしもないロアノフ島では――
「……という仮説を裏付けるには十分な結果だと思うんだ」
「うん。 それってかなり面白い! ということは……」
ラフォラエルとライマの二人は、ずーっとあの定理やこの法則やその仮説について語り合っていた。
ボーン、と柱時計が時を知らせる。
「ありゃ、もうこんな時間」
ラフォラエルが時計を見て言った。
「ええ、もう?」
見ると夕食の準備にとりかからないといけない時間だ。
ラフォラエルが冷蔵庫の中を見て「買い物に行かないとな」と呟いた。 そしてちらりとライマを見る。
「一緒に買い物行こうか?」
ライマは激しく頷く。 今は一瞬たりとも離れていたくなかった。
「じゃあ、行こう」
ラフォラエルが手を差し出す。
ライマはおずおずとその手を握った。
ロアノフ島の小さな商店街は島民の寄り合いの場でもある。
買い物に来た者もいれば、通路に碁盤を出して勝負に興ずる者もあり、井戸端会議に花を咲かせる者あり……
「おや、先生だよ」
井戸端に花を咲かせていた婦人が一人、気づいて視線を向ける。
遠くからラフォラエルとライマが歩いて来ていた。
「……あら?」
更に数人が気づく。 いつもの二人ではないことに。
二人は、手を、つないでいた。
ラフォラエルがまず肉屋に寄った。
「おやっさん、スペアリブある?」
「何グラムすか?」
「500」
「オッケ」
いつも通りのやりとりをして品物を貰い、店を出る。
「……え?」
すると周囲の視線が妙につきささる。
オジさんもオバさんも爺さんも婆さんも、みんなニヤニヤしている。
変に思いながらも次の八百屋に行く。
「へいへい! 何にしましょっ!」
異常に威勢よく店主が返事をする。
「レタスと、えーと、ニンニク……」
「ニンニクッ!」
「ど、どーかした?」
すると八百屋の店主が商店街の皆に向かって叫んだ。
「おいおまえらっ! 先生が精のつくものをご所望だっ!」
するとその言葉を聞いて商店街の皆は弾かれるように店や家に入り、各々色んなものを持ってくる。
「やっぱり自然薯でしょ!!」
「マムシの焼酎漬けだよ!」
「スッポンのエキス! 後生大事に取っておいた甲斐があった!! どうぞっ!!」
ラフォラエルを取り囲んで色々なものが差し出される。
「ち、ちょっ、待て、みんな。 何なのこれ?!」
ラフォラエルが驚いて尋ねる。
するとみんなにやけ顔のまま、ラフォラエルとライマの繋いだ手に視線を向ける。
「……手?」
ライマが首を傾げる。
呆れたようにラフォラエルが言った。
「あのなぁ、みんな。 奥さんと、手ぇ位、繋ぐって」
しかしその言葉は島の女達のスイッチをオンにしてしまった。
「きャ〜! 先生ったら男らしいわっ!」
「人前で手を繋いでデートなんて、何十年前の話かしらっ? 懐かしいわぁ♪」
「やっぱり新婚さんは違うわねぇ!」
まるで十代の少女に戻ったかのような盛り上がり方である。
男らも同じだった。
「先生! 羨ましいっすなぁ! でも今だけっすよ、今だけ!」
「最初がバシーっと肝心!」
「とりあえず精のつくもん、持ってけ持ってけ」
そして最後に一言。
「昨日の夜は頑張ったんでしょ?」
ラフォラエルは目が点になる。
「……はっ?」
島民達はニヤニヤだ。
「もう喧嘩しちゃあ、ダメよぉ」
「先生、浮気はダメよぉ」
その言葉にラフォラエルは気づく。
昨日の朝、港で一悶着あったことを。 ライマが怒って駆けだし、自分がそれを追った姿は島民にも見られていた訳で。
「……あ、その……」
ラフォラエルがまごつく。 そこに声が飛ぶ。
「また今晩も頑張るんだろ? よっ! 先生、色男っ!」
「が、頑張ってなん、か……」
否定しようとしたラフォラエルの言葉が途中で止まる。
島民の視線が全部ライマに注がれているのに気づいたからだ。
ライマといえば――
「……」
俯いて耳まで真っ赤になっている。
見事な赤面っぷりだ。
「ダメだよ、お前さん、奥さん純情だから真っ赤になっちゃったじゃないかい」
「先生、そんなに頑張ったのかい」
そんなことを言われ、ラフォラエルもつられて赤面する。
島民の言っている「頑張る」の意味とライマが思い出している「頑張る」の意味にズレがあるのは百も承知だが――ライマが赤面しているのを見るとまるで島民の言う”頑張った”が事実のような気がして……。
「はやく子供の顔が見たいねぇ」
「二人の子供なら絶対カワイイだろうねぇ」
気の早すぎる婦人達はすでに子供の話になっていたり。
ラフォラエルはライマを見る。
ライマはただただ、真っ赤で――
なんだか可愛かった。
「!」
ラフォラエルはライマを引き寄せて言った。
「分かった。 今日も頑張る」
その言葉に島民達がオオオー!!と歓声を上げた。
そして妙なものばかりゲットして二人は家路につく。
ライマは嬉しくて恥ずかしかった。
どうしてみんな、自分と彼がキスしたことを知っているのだろう?
でもみんなが自分の事を彼の奥さんだと思って、そして彼もそれを否定しないことが、前よりずっと嬉しかった。
そんな事を考えていた。
家に入って扉を閉めると、ラフォラエルが床に荷物を置くや否やライマを抱きしめて唇を重ねた。
きつく抱きしめあいながらキスを交わす。
そして唇を離すと、ラフォラエルがライマを熱っぽい眼差しで見つめながら言った。
「シャワー……浴びる?」
しかしライマはキョトンとした目をして答えた。
「? ううん」
それを聞いてラフォラエルは、当然か、というように自嘲ぎみに笑ってもう一度ライマを抱きしめて言った。
「今日も頑張ろ……」
そして再びライマとキスを交わす。
絡まり、吸いあい、求め合う。
少しずつ、ライマはキスが上手くなっていく。
「明日は朝からピクニックに行こう」
ラフォラエルがキスをしながら言った。
「……うん」
ライマは彼の唇を求めながら返事をした。
キスは気持ちよくて、嬉しくて、幸せで――
きっと天国にいるってこんな感じだ、とライマは思った。
+++
【面会謝絶・立ち入り禁止】
その札が王宮の離れの部屋に掛けられるのにそう時間はかからなかった。
デイが発病するや否や、右大臣の指揮のもと、デイはその部屋に隔離された。
原因不明の病気が拡大しては大変だということで、誰も近付かないように命令が下された。
こともあろうか、医師や看護士さえも。
どうせ飲食しても逆に吐くのだから無駄だと、食事も与えられないことになり、看病する者も完治するまでは王子と同じく隔離、そして仮に王子が死ねば責任を取って自害もしくは病原菌を拡大させないためにも処刑、と言われれば誰が看病をするだろうか?
だから看病をすると申し出たのは2名だけだった。
一名は王宮付女官総長ローズ婦人だった。
もう一人は財務大臣室前でクララに駆け寄るデイを制し、なおかつ具合の悪いデイを最初に発見した近衛兵だった。
しかしローズ婦人が看病にあたることは女官の統率が取れなくなるという理由で右大臣が却下した。
よって看病にあたるのは、病気にも薬にも何の知識もない近衛兵ただ一人だった。
看病といっても、デイが嘔吐して汚したシーツを取り替えたりする程度だ。
他には何も応援はない。
実際、彼に科せられた使命は、デイ王子がいつ死ぬかを確認するだけの役としか思えなかった。
近衛兵は吐き続けるデイのシーツを交換し、近くのタオルを水に浸してデイの額を拭く、それで精一杯だった。
泣きながら苦しむデイを見ながら、その近衛兵は思った。
ここは、地獄だと。