第31話 ライマの生い立ち
しんと静まりかえった寝室に、とても透き通ったライマの声が言葉を紡いでいく。
「さすがにお腹の中じゃ時間感覚は身に付かなかったわ。 だからどの位の間そこにいたのかは分からないし、いつ命として目覚めたのかも分からない。 ただ、最初の記憶は母の体内の血流の音……。 信じられないでしょ?」
しかしラフォラエルは真面目に答えた。
「胎児の記憶がある人間もいる報告はある。 稀だけど」
「うん。 ……で、そこまでは普通。 私の場合はここからが多分人と違うの。 人に言ったことはないから絶対とは言えないけど」
「きかせて」
ラフォラエが、励ますように小さな力で握った。
ライマの手が握り返した。
***
声を何度も聞いているうちに、それが言語でどんな意味があるのか理解し始めたわ。
他に聞こえてきたのが、音。 音は音楽や、生活音。
そのうち、一番よく聞こえる心地よい声は何だろうって思ったわ。
そしたらある日、別の声が聞こえたの。 [奥様、ご懐妊でございます]って。
私、その時のコトを覚えてる。
ふわっと暖かい血が私に流れ込んで、体の中をかけめぐったわ。 それはとても優しくてくすぐったくて嬉しくて。 ――とてもびっくりしたの。
それと同時に、一番よく聞こえる声の主が言ったわ。
[私のお腹に子供が……? 本当に? 私は母親なのですね? なんと嬉しいことかしら! 神よ感謝します]
って。
……私も嬉しかった。
この声の主がハハオヤで、私はその人のコドモ。
母は優しかったわ。
私がお腹にいると分かってから、沢山話しかけてくれたの。
気が早くって、さっさと名前までつけてくれた。
ライマ、元気? 何してる? 大好きよ、愛してる。 そして――何があってもあなたを守るわ、って。
***
「いいお母さんじゃないか」
ラフォラエルが言った。
ライマは頷いた。
「その頃は、ね」
***
胎内っていう所は、今考えても不思議な所だったわ。
お母さんと体が繋がっているせいもあるけれど、母を通じて色々学んだり考えたりできたの。
母が見たり聞いたり調べたことは全部血に乗って私に入ってくる。 私の脳がそれを理解する。 疑問点は私から血に乗って母に流れる。 母はそれを受け取り私の疑問の答えを探す――。 私と母は会話はなくても繋がっていた。 血で繋がっていた。
私はまず言葉をもっと理解したわ。
次に母以外の沢山ある声の中から、”父”の声がどれか理解したわ。
父が話しかけると、母の血が優しく流れ込んでくるの。 この声に話しかけられると嬉しい、大好き、それが父だったわ。
父のところには毎日多くの人が拝謁に来ていたのよ。
学者、商人、役人、戦士、旅人、芸人、賢者、魔法使い……
そして母はいつも父の側にいたの。
だから私は母の胎内で、父に会いに来た人達が話すことを全部聞いたの。
母から、父から、そして拝謁に来た方々から、私は多くのことを学んだわ。
言語、歴史、国のこと、世界のこと、民話、学問……楽しかったわ。 飽きなかったわ。
そのうち私は目が開いたの。 でも大して何も見えなかったわ。
だから体を動かすことに熱中したわ。 お母さんのお腹の中で飛んだり跳ねたりして、楽しかったわ。 ほとんど眠らなくても平気。 疲れは血に乗って母が貰ってくれていたから。
お腹の中で、たくさん考えて、たくさんの事、覚えた。
そして一瞬一瞬、どんどん私の体は成長していったわ。
そんなある日、私はみんなの話を聞いていて、あることに気がついたの。
私は不安になって、今まで聞いた知識を総動員して考えたわ。 そして証拠を集めるかのように母に色んなコトを調べてとお願いし、母は私に答えをくれた。
すると一つの結論に達してしまったの。
――コノママデハ コノクニガ ホロビル――
って。
それが私の出した結論だったわ。
だから私は、計画をたてることにした。
私ね、「跡継ぎ」だったの。
跡継ぎは、誕生後すぐに母とは離されて、乳母や召使いに預けられるの。
冗談じゃないって思ったわ。
国が滅びるなんて話、きちんと母や父に伝えたかった。
だから私は生まれる日を決めたの。
その日は予定日よりも15日ほど早い日。
父と家臣達は宴で気をとられ、母は身重だから早々に公務を切り上げて自分の部屋に戻った日。
私は医師や母に気づかれないように、静かに生まれる準備をしていたわ。
だから母が陣痛に気づいて私が胎内から出てしまうまで、10分もかからなかったわ。
私は母の体の外にて一度だけ大きく息をすって肺呼吸へと切り替えた。 慣れるのに20秒もかからなかったわ。
母が私を抱き上げてくれた。
母の瞳は琥珀にも似た大地の色だったな。
どこか儚げで、でも、とても優しげで。
お母さんにやっと直接会えて、私はとても嬉しかったの。
お母さんも、とても嬉しそうに[私の赤ちゃん、ライマ]って話しかけてくれた。
私は、今だと思った。
一刻も早く大事なことを伝えなければと思った。
[――お母さん、緊急事態です。 国が滅びます。 すぐみんなを避難させなければなりません]
私がそう告げると、母の顔色が一変して、まるでこの世で一番恐ろしいものでも見るかのような目で私を見たわ……。
***
「ら、ライマって生まれた時から話せたってこと?」
ラフォラエルが驚いて尋ねる。
ライマは頷いた。
「胎内ですごく練習したわ。 羊水と空気じゃ声帯の使い勝手が多少違ったけど、大事な事を伝えるためには必要だったもの。 頑張った甲斐あって完璧だったけど、――でもまぁ、生まれたばかりの赤ん坊がいきなり普通に話し出したら誰だって驚くわよね」
納得ぶったような口調でライマが言うので、ラフォラエルは手を繋いでいないもう片手をライマの頭にポンと乗せた。
「――でも、驚かれて悲しかったろ?」
その言葉を聞いてうっすらとライマの瞳に涙が浮かぶ。
瞬間記憶能力がある彼女にとって、その記憶を思い出すということは「その時」に戻るということでもあった。
胸が痛い。 悲しくて辛くて痛い。
ライマを慈愛の眼差しで見つめてくれた母。
だが、次の瞬間には青ざめ、額に汗を浮かべて恐怖でこわばった母。
「……」
ライマの変化に気づいてラフォラエルが言った。
「泣いていいよ?」
ラフォラエルの言葉にライマは頷き、彼の手を取ってほんの少しだけ泣いた。
泣き声のままライマは続けた。
***
母は私が生まれたことを他の誰にも気づかれまいと部屋に閉じこもったわ。
私は何回も何回も母を説得したわ。
私が胎内で聞いた、地質学者や天文学者、各地の異変や過去の災害の分析、だからこの国はまもなく自然災害で滅びると。 一刻も早くみんなで非難しなければならないと。
でも母は耳を塞ぐばかりで聞いてくれなかった。
それどころか部屋に誰かが近づくと、厳しい顔で私に黙っていろと言ったわ。
私は母の言うことをきいた。
母には母なりの考えがあると思っていたから。
早く父にもこの一大事を伝えたかったのに。 ううん、それ以前に父にも会いたかったのに。
私が生まれて5日目の朝、医師の検診を前に、母は私をおくるみに抱いて城を抜け出したわ。
城を抜け出す時も、母が絶対外では話すなって言うから、私、一言も声をあげなかったわ。
そしてその頃の私は、母と臍の緒で繋がっていなかったから、疲れはすべて自分で処理しなければならなかったわ。
つまり、眠らなきゃいけなかったの。
だから母がどこをどうさまよったのかは断片的にしか分からない。
だけど覚えている限り、母はまず、私を橋のたもとに置いて去ったの。
私は訳が分からなかったわ。 それに数分したら母が戻ってきたから特に考えなかった。
母は何度も何度もあちこちに私を置いては戻ってきた。
何回目かのときに、母に尋ねたの。 [ねぇお母さん、何をしてるの?]って。
母はものすごい剣幕で[絶対話すなって言ってるでしょっ!]って叫んだ。
そして母は呟いたの。 [こんな場所ではすぐ見つかってしまう。 この子をどこにやればいいの?]って。
その時気づいたの。 母が私を捨てようとしていることに。
私は慌てたわ。 そして何度も尋ねたの。 ねぇ、どうして?どうしてって。 でも母は答えてくれなかった。
母は森をさまよい歩いた。
何度か私を木の根っこの所に置き去りにしたわ。
獣の気配のする暗い森だった。
私は怖かったけど、声は出さなかった。
だって、私が話すとお母さんが怖がるんだもの。
もう、国が滅びる話なんかしたくなかったわ。
だって、お母さんが嫌がるんだもの。
何も言わなかったらお母さんは帰ってくると思ってた。
案の定、少ししたらお母さんは私を迎えに来た。
でも決して城に戻ろうとはしなかった。
[こんなところではダメ]とか[まだ誰も連れて行ってない]そんな言葉ばかり。
そして私が生まれて10日目、やつれきった母が、ふと「神の樹」のことを思い出したの。
神の樹のことは知ってるでしょ?
古に生まれ神となりし樹。 その葉あらゆる万病に効き、実は命を延ばす。 その枝を燃やせばこの世とあの世をつなぎ、樹液は奇跡を起こす。
糧となるのはあらゆるもの。
そう言われている樹。
私の国にも一本あった。
そこを目指して、母は森の深い深い所に入って行ったわ。
私が生まれて13日目。 神の樹の前に到着した。
そこにある神の樹は、城に訪れてた旅人が言っていたとおり、朽ち果てていまにも倒れそうだった。
母は樹の前までくると、私をそっと、地面に置いたの。
そして、樹に向かって言ったわ。
[この子をお与えします]って。
母はしばらくの間、ずっと私を見ていた。
すると私をくるんでいたおくるみだけが小さく震えて、地面にスッと吸収されたの。
それを見て、母が泣いたわ。
[どうして、どうしてこの子を吸収してくれないの?]って。
地面に突っ伏して泣いてたわ。
母は私を、神の樹の糧にしようとしたの。
私は、ただ、悲しかったわ。
私がいることによって母が苦しんでいる。
私が母を泣かせている。
ごめんなさい、お母さん。
私はもう話さないから。
何も言わないから。
だから私を嫌いにならないで
私を捨てないで。
一緒にいさせて。
私は【心の中で】ずっとそう叫んでいたわ。
2日ほど、母と私はその神の樹の横にいたの。
神の樹はどんどん朽ちていった。
母がふと、顔を上げた。
母の視線の先には、枝が垂れ下がってすだれ状になった神の樹の一部分。
母が私を抱いて立ち上がった。
母はまっすぐ前を向いていた。
母の胸の鼓動が、恐ろしく規則的で静かだったわ。
母は私を抱いたまま、そのすだれ状になった木の枝をくぐった。
すると、一瞬にして空間が移動していたわ。
そこには朽ち果てた神の樹のかわりに、まるで小山かと見まごうばかりの、壮大で立派な神の樹があった。
私と母が信じられないといった気持ちでその神の樹を見上げていると、遠くから小枝を踏み折る音がして、一人の老人がゆっくり歩いてきたわ。
私が生まれてから2番目に顔を見た人。
その老人が――老師なの。