第30話 キスまでの道のりは遠く
その一言を聞いたラフォラエルは勢いよく起きあがった。
「本当?」
するとライマもゆっくりと起きあがり、ちらりとだけ横目で視線を向けてから、正面を向く。
「だってどうもモヤモヤして眠れないんだもの」
膝をかかえて自分を納得させるように話し出す。
「ラフォーがハーレム持っていたっていうのはショックだったけど……。 でもどうしてここまでショックなのか考えたら、なぜかメーションとのキスが頭にちらついて絡んでくるんだもの。 それが無かったらもっと素直に納得できたような気がするし……」
それって嫉妬じゃ、という言葉をラフォラエルは飲み込む。
「それじゃあ、もう、私もキスしたら気持ちが何か変わるかなぁって思って。 というか、それしか打つ手がないって結論」
ライマはそこまで言うとラフォラエルに向き直った。
そしてまっすぐ視線を向ける。
「キスして」
潔く、瞳を閉じた。
「ち、ちょっと待った!」
ラフォラエルが慌ててライマの肩を掴んでゆするので、ライマは不満げに瞳を開ける。
「ライマ、俺は全然OKだけど、お前は本当にそれでいいのか?」
「え?」
「だから、キスだぞ? こんな夜中、キスしたら俺は、その、あの」
しどろもどろになるラフォラエルを見てライマが首を傾げる。
「だからもなにも、キスでしょ?」
「いやお前、半ばやけくそになってキスしてみようとか思ってるんじゃないか? って俺も何を余計なことを……!」
自らに突っ込みを入れる彼に向かって、ライマは告げる。
「やけくそ……かもしれないけど、ラフォーとなら、キスしてみたい」
それを聞いて、ラフォラエル、固まる。
「……俺となら?」
「うん」
ライマが頷く。 ラフォラエルはツバを飲み込んだ。
そこでライマが続ける。
「だいたい、キスっていっても、唇と唇が触れるだけでしょ? いわば皮膚と皮膚の接触。 握手となんら差はないはずなのよ。 だから私もキスしたってことで考えすぎちゃう事自体が変なのよ」
今度はラフォラエルが眉を寄せて首を傾げた。
「握手……と、差はあるぞ……?」
「接触する皮膚の厚さの違いくらいね」
「い、いや違う! ライマ、お前ってもしかしてキスした事無い!?」
ラフォラエルが信じられないといわんばかりの声を上げた。
ライマは拗ねたように口をとがらせた。
「無いんだ!? マジかよ? いくらそっち方面に無知とはいえ、お前もう、15だろ? キスくらい……」
「悪かったわねっ!」
「あ、いや。 ゴメン。 でも、お前ってどうやって育って来たんだ……? ちょっと俺って責任重大?」
ラフォラエルの言葉の最後はなぜか独り言。
彼がそんな感じなのでライマは悲しげに見つめた。
「……こんな私じゃ、キスできない?」
「いや絶対するっ!」
ラフォラエルは大きな声で即答。
ライマは目を丸くして驚き、それからクスクス笑った。
「あ、やっと笑ってくれた」
ラフォラエルが嬉しそうに微笑んだ。
「だぁって、ラフォー、断言なんだモン」
ラフォラエルはそんな風に笑う彼女をとても愛しく感じた。
「ライマ、キスしよっか」
「うん」
素直に返事をしたライマの肩にラフォラエルの手が回され、ゆっくりと引き寄せる。
ライマは緊張した不安げな表情を残しつつ、目を閉じる。
「キス、教えてあげるよ」
ラフォラエルがそう告げ、唇を近づけた――が!
「ちょっと待って!」
ライマが慌ててラフォラエルを押して体を離す。
「?」
ラフォラエルは面食らって目を開ける。
「どした?」
そう言ってライマの顔を見るが、彼女は難しい問題の回答を考えるような、妙な表情をしていた。
キスが嫌なわけではなさそうだった。
「キス、教えるって、ラフォーは言ったの?」
「え、ああ」
「でもキスで、何を教わることがあるの?」
「はい?」
「だって、キスってほんの一瞬。 長くても2、3秒で終わるでしょ? メーションのもそうだったし、新世の結婚式の時だってそんな感じだったわ」
真顔で言うライマにラフォラエルは毒気を抜かれる。
「それはソフト。 プレッシャーやスタンプキスのこと」
「ええ? キスにも種類がっ?」
「当然。 他にもスウィング、ニプル、バインド、スロート、オブラート、カクテル……とまあ、色々」
「さすが……って言っていいの?」
「いや、どーなんだろう。 ソフトとディープの、大きく分けて2種類って位は知ってるのが普通だと」
「それすら知らない……」
ライマが激しくショックを受けたので、ラフォラエルの手が肩から離れてベットに置かれた。
ラフォラエルが苦笑する。
「全部俺に任せてくれ、って言いたいとこだけど、まぁ確かに、いきなり踏み込んだらショック受けるかもなぁ」
彼は心の準備ができぬまま全てが進む不安はとてもよく理解できた。
そんなこと理解せずに突き進みたくもあったが。
「まぁ簡単に言えば舌を使うってこと」
「舌ぁっ?」
声を裏返して驚くライマを見て笑って、ラフォラエルは片手でライマの手を握ったままベットに横になった。
「怖い?」
彼の問いにライマは小さく頷く。
「じゃあもうキスは止めておく?」
ライマは首を横に振る。
ラフォラエルはクスッと笑う。
そして少しの間、二人は沈黙する。
しばらくしてライマが困ったように質問した。
「ねぇ、とりあえず基本だけ、教えてくれる?」
「また微妙に難しい注文だな」
「時間ってどのくらいかかる?」
「ふふふふふ。 何十分でもいけるけど?」
「何十分も? 呼吸はどうするの?」
「ふふふふふ。 とりあえずやったら分かるかな」
「もぉ、ラフォー」
「ふふふふふ」
「その笑い方、気持ち悪いー!」
「ふ、ふふ。 ゴメンゴメン。 ライマに合わせるよ。 時間、どの位で教えて欲しい?」
ラフォラエルは少し意地悪な目をしながら尋ねた。
ライマは考える。
「……1分。 息が続かないからその位が限界」
「オッケー。 じゃあ、どうやって計る? ストップウォッチでも持ってこようか?」
ラフォラエルが尋ねる。 だが本気で言っている訳ではなかった。 ライマに心の準備をさせたかったのだ。
うーん、と必死に考えるライマを見るのも、楽しくて愛しかった。
そんなライマの目が壁時計で止まる。
「あの時計」
「は?」
「あの時計の鐘が鳴る1分前から始め、って、どう?」
確かにキスを始めて1分後にはボーンと鐘が鳴り始めて分かりやすくはあるが。
「まだその時間まではたっぷりあるけど?」
「待ちましょ」
ライマはあっさりと言った。
「……ま、いっか」
ラフォラエルは穏やかにそう言った。
「決まりっ♪ じゃあ何かそれまで話をしてよっか♪」
ライマは機嫌良くそう言うと手を繋いだままベットに寝ころんだ。
いつもと同じ、ベットでの端と端。
だが今日はベットの中央で二人の手は固く繋がれていた。
++
「にしてもさー」
天井を見つめたまま、唐突にラフォラエルが言った。
「どうしてライマって頭いいくせに、キスとかの知識が全くないんだ? 普通はっていうのもなんだけど、友達の話とか、雑誌とか、微妙にどこからか仕入れて、知っててもよさそうなのに」
ライマは少し考えながら繋いだ手を軽く揺らした。
「確かに、キスはね、新世と一夢――あ、姉と兄ね、の、結婚式の誓いの口づけで初めて見て知ってたけど――でも種類があるなんて知らなかったわ。 一夢達も知ってるのかなぁ?」
「結婚してるんだろ? 知ってるさ。 名前は知らなくても、やり方は、な」
それを聞いて、ライマはため息をついた。
「ってことはやっぱり、あの本棚に入っている本が全部そうなのかなぁ?」
「あの本棚? あ、兄さんの本棚で、ライマは触るなって言われてるとか?」
「ちょっと違うわ。 私ね、生まれた頃から本が大好きで、とにかく何でも読んでいたのよね。 そしたら老師――育ててくれたヒトね、が、何冊かの本をまとめて一つの本棚に入れて言ったの。 ”この本棚に入っている本は決して読んではならぬ。 何がなんでも読んではならぬ。 これは、そうじゃな、お前達が16才位になるか、結婚しようと思った時に初めて読め”って」
「アヤシーな、それ。 背表紙とか覚えてないの?」
「全部に無地のカバーがかけられていたから知らないけど、老師がその本棚を作るきっかけになった本なら覚えてる。 老師の部屋にあった、”図解・48手”」
「ず……」
ラフォラエルが吹き出しそうになる。
「そ、その図解48手、読まなかったの?」
「うん。 護衛術の一種かなぁ、役に立つかなぁ、って思って開こうとしたら、老師が吹っ飛んで来て取り上げられたもん」
「ご、護衛にはならないな、それ」
「あ、じゃあやっぱりアレがそっち系のモノなのね」
納得したようにライマは頷き、老師の低い声を真似する。
「図解48手はとても危険な技じゃ、お前が大人になるまで決して他人に教えてくれと言ってはならぬ。 口に出すのも禁止じゃ、それほど危険なものなのじゃ、ってすっごく真面目な顔で言われたの」
「……ライマが瞬間記憶能力保持者ってのは、その老師さんは知ってたよな?」
「うん」
「……なら、老師さんがそんなことしたの、わかるかも」
「そう?」
一目見ただけで記憶してしまうライマに、幼い頃だからこそ性的な本を目に入れることは良くないから。
なのにライマときたら。
「なぁんだ〜。 秘伝の技じゃないのかぁ。 16才になったら本の紐解いて制覇してやるって思って楽しみにしてたのに。 ラフォーは知ってていいなぁ〜。 ねぇ、教……」
「おぅげっ!」
ラフォラエルは変な返事をしてむせる。
「ラフォー?」
ライマが心配そうに問いかける。
ラフォラエルはむせながら返事をした。
「お、お願いだから、いったいどんなコトなのか教えてって台詞はナシな。 今の俺には危険な単語だ、それは」
むせすぎて涙まで浮かべたラフォラエル。
「そんなに危険なコトなんだ……」
ライマは神妙に頷いた。
ラフォラエルはなぜライマが性的な事に関して無知なのかやっと理解した。
老師も、一夢も、新世も、一度もそのテのものを彼女に近づけなかったのだろう。
そして彼女も教えを素直に守り、その本棚には触れなかったに違いない。
とはいえ、ここまで無知で育つとは、果たして予想していたのか?
逆に下手に教えきれなかっただけなのかもしれない。
――俺、ホントにこいつにキスしてもいいんかな?
ラフォラエルはほんの少し不安になった。
「老師はまだご健在?」
ラフォラエルは尋ねた。
「ううん。 もう、かなり前に」
「そっか」
申し訳ないと思いつつ、なぜかほんのちょっとホッとしたラフォラエル。
ライマは気づかず続ける。
「優しい方だったわ。 私を怖がらずに預かってくれたの」
「そうなんだ」
「母は私を怖がったけど」
「……そうなの?」
「うん……。 あ、あのね、ラフォー」
ライマは握った手に少しだけ力を込めた。
「ラフォーの昔も大変だったけど、私も昔、大変だったっていうか普通じゃなかったの。 後で知られてキスしたこととか後悔されたくないから、キスする前に話しておきたいことがあるの。 いい?」
一気に口にした。
ラフォラエルは手は繋いだまま、寝返りをうってライマを見た。
ライマの表情が強張っていた。
精一杯の勇気を振り絞った顔だった。
「いいよ? 聞いてあげる。 教えて?」
ラフォラエルは優しく言った。
ライマは話し始めた。
誰にも、そう、新世にすら話していなかった、過去を。
+++
ライマはまず質問した。
「ラフォーの、最初の記憶って、いつ?」
ラフォラエルは天井を見ながら答える。
「2才半くらいかなー。 迷子になって。 そしたらピエロがアメくれた。 アメがピンクだったってこと覚えてる。 そういやライマは瞬間記憶能力持ってたよな? お前のって、いつだ?」
ラフォラエルがライマの顔を見る。 ライマも天井を見ていた。
「最初の記憶はね、音なの」
「音?」
「ザザーッ、ザザー、ザックン、ザックン、って感じで、波が一定のリズムを奏でる感じ」
「へぇー? 海かな?」
「ううん。 そしてね、色んな音や声が聞こえてきたの」
「へぇ」
「音や声は聞こえなくなる時もあったけど、ザザーッて音は一瞬も休まることなく聞こえてた。 目は最初は開かなかったわ。 でも平気だった。 暖かくて、気持ちよくて、とても心地のいい場所だったの」
「それって……?」
ライマはラフォラエルの方を向いて、真っ直ぐ目を見つめながら告げた。
「そう。 胎児の頃の話」
「胎児……? お母さんのお腹の中ってことか!?」
ライマは頷いた。