第19話 デイ 孤立無援
先日までは良い天気が続いていたのに、テノス国では夕方になって雲行きが怪しくなってきた。
黒い雲がたちこめ風が吹き始める。
自分の部屋の窓からデイがうつろな目をして外を眺めていた。 床には赤い表紙の絵本が一冊、無造作に放り投げられていた。
このどんよりとした天気は、いまのデイの心境そのままだ。
今、デイは巨額の借金を背負っていた。 カジノで口車に乗って作ってしまった借金だ。
カジノの支配人から、これが公になればテノス国王にも迷惑がかかると言われたデイは、何とかするから誰にも言わないでと頼んだのだ。 利子がつきますよと言われたが、それが借金が膨らみますよという意味だとは理解していなかった。
最初は右大臣に相談しようとした。 だが右大臣は、今は忙しいから後にしてくれとか他の者に相談してくれと、話を聞こうとする姿勢すらなかった。
お金。
どうにかするといっても、子供であるデイにどうにかできる話ではなかった。
たった一度の負けだったが、そのたった一度で追い込まれていた。
「ふぅ……」
デイは子供らしからぬ重いため息をつき、床に放置してある絵本に目を向けた。
先日、クララが約束していた日にサロンを訪れてくることは無かった。
デイはとても楽しみにしていたのに。
クララになら、お金のことも、相談できると思っていたのに。
いや、相談できなくてもいい、ただ会えれば嬉しかったのに。
そしてクララが来られなくなった理由を、誰もが口を濁して教えてくれなかった。
だからデイは気づいていた。
何かが変だった。
ケセム先生も、ヤン先生も、急に勉強しなさいと追いかけ回さなくなった。
近衛兵も、王宮付き女官も、みんなデイを避けていた。
まるでデイに関わると人生を狂わされると怯えるかのように。
そして、右大臣もクローク卿もレッシェル嬢も、前みたいに異常に親切ではなくなった。
それはまるでデイが頼れる相手は自分達だけだというおごりのようにも思えた。
普通ならば王族には、常に身の安全を守る者が側に仕えているのだが、右大臣が「王族もプライバシーを尊重されるべきだ」と言って、かなり前にお付きの兵制度を廃止していたので、デイの側には、今、本当に誰もいなかった。
「せんせー……」
デイは呟いた。
誰か側にいてくれるかと考えた時、思い浮かぶのはラムールの姿だった。
きっと何が起こってもラムールは避けたりしないだろう。
いつでも側にいてデイの意見に真っ正面からぶつかり簡単に跳ね返す、そんなラムールにここにいてほしかった。
今ここにラムールがいたら、何と言ってくれるのだろう。
デイは考えた。
でも、わからなかった。
「あ」
デイは顔をあげた。 窓の外に見える財務大臣室前の通路にパルドラの姿があったのだ。
パルドラがいるのならば、その店で働くクララもいるのではないか?
そう思ったデイは迷わず部屋を飛び出した。
+
「弁償金2億ゴールドでございます。 お受け取り下さいませ」
パルドラは頭を深々と下げ、弁償金を差し出した。
隣でクララも同じく深々と頭を下げていた。
財務大臣は嬉しそうに金を眺める。
「……ふっ、ふっふっ」
堪えきれずに唇の端がゆるむ。
右大臣から頼まれ、クララにちょっといいがかりをつけただけで2億ゴールドを手中にしたのだ。 笑いがとまらぬとはこのことだった。
しかし慌てて表情を固く作ると、重々しく頷いた。
「うむ。 よかろう。 パルドラ。 お前の誠意に免じてこの件はこれ以上は不問にする。 もういいぞ。 去るがよい」
「はっ」
パルドラは素直に頷き部屋を出た。
結局、店を2軒手放して、最後の一軒を借地に移転して土地を売却し、やっと金を作った。
今はもう何の蓄えもない。 文字通り、一からやりなおしだった。
しかしパルドラはめげてはいなかった。
クララが落ち込みそうになると、逆に叱った。
確かに店は手放したが、逆にパルドラはとても良い物に気づいたのだ。
それは信頼。
なぜなら、こんな状況になっても、お客のほとんどは離れなかった。
従業員達も文句を言うどころか、パルドラを男だと褒め称えてくれた。
それは彼が地道に誠実に生きてきた証だった。
クララをかばったことは間違ってなかったと、パルドラは胸をはった。
「さぁ、これから頑張ろうな、クララ」
その堂々とした笑顔をクララに向ける。 バルドラの瞳に応えるようにクララが頷く。
その時、デイの声が響いた。
「クララ!」
パルドラとクララは振り向く。
するとそこには急いで走ってきて肩で息をしているデイがいた。
だが財務大臣室前で警備にあたっていた近衛兵達が間に入り、デイの進路を塞いだ。
「いけません! 王子!」
「なんだよ!? ボクはクララに話があるんだ、どけっ!」
「なりませんっ!」
近衛兵達は壁となって絶対に通さない。
「どけっ! 王子のボクの命令だっ!」
デイは荒々しく叫んだ。
しかし近衛兵達はひるまなかった。
「なりませんっ! クララは女官職を退いた、ただの一般人でございます! 一般人と王族が許可無く接することは認められておりません!」
それを聞いたデイが、言葉を一瞬失う。
「……ク、クララがもう女官じゃない?」
それはもう二度と、クララと会うことは叶わないということだった。
「ど、どうして? ねぇ! どうして!?」
デイは叫んだ。
「何だ騒々しい」
そこに騒ぎをききつけた右大臣がやってくる。
これでもう平気、そう思ったデイは慌てて右大臣に助けを求めた。
「右大臣! クララがもう女官じゃなくなるって、どうして? そんなの止めて! クララを女官のままにして!」
デイは右大臣にしがみついて一生懸命に言った。
だが右大臣は困ったように息を吐くと、ゆっくり言った。
「王子。 クララは、ク ラ ラ の 都 合 で、女官を辞めるといってるのてす。 我 々 が 辞 め ろと 言 っ た 訳 で は な い ので、無理ですな。 ――なぁ? クララ」
右大臣はクララを冷たく見た。
クララは青くなって視線を逸らした。
「クララの都合って、何? だってボクのサロンに遊びにきてくれるって約束したじゃない! ボクと約束したじゃない!」
クララに向かって叫ぶデイに向けて、右大臣が再度ゆっくり口を開く。
「さあ? 王子との約束を破るくらいですから、王 子 よ り も 大 事 な 事 があったのでしょう。 おそらく 自 分 勝 手 な 理 由 ではありませんかな? なぁ、クララ?」
クララの唇がわなわなと震える。
「そうなの? クララ、本当なのっ?」
デイが泣きそうな声で叫ぶ。
クララは辛そうにデイを見た。
ここで、自分が本当にデイに伝えたいことを言えば、きっとまたパルドラに迷惑をかけるのだ。
ならばクララには何も言えなかった。
「デイ王子――御多幸を……」
クララは絞り出すようにそう告げた。
「行くぞ、クララ」
パルドラがクララの手を引いて歩き出す。
クララがデイに背を向ける。
「クララぁっ!!」
デイが何度呼びかけても、クララは振り向かなかった。
「……みんな、だいっきらいだっ!」
クララの姿が見えなくなると、デイは近衛兵達を突き飛ばして駆け出した。
「デイ王子!」
近衛兵が慌てて後を追おうとするが、右大臣が制する。
「構わぬ。 放っておけ。 王子は何もどうすることもできぬ。 そのうち寄ってくる」
どこか満足そうにしている右大臣を見て、近衛兵も唇を噛んだ。
デイは怒りに身を任せて走った。
あてはなく、ただ広いこの王宮内を走った。
窓の外の天気がどんどん悪くなり、周囲が薄暗くなっていく。
遠くでピカッと稲光が光って、やっとデイは驚いて足を止めた。
窓の外は、ぽつりぽつりと大粒の雨が落ちてきていた。
「雨……」
デイは窓の外を眺める。
ぜいぜいと息を切らしながら、見る。
そしてうつむいてゆっくりと歩き出す。
ポツポツと、雨が窓を叩きはじめる。
デイは袖で涙を拭った。
――こら、デイ、泣かないの!
いつか懐かしい誰からかかけられた、優しい声が胸に響く。
――大丈夫だよ。 私が守ってあげるから。
その優しい声の思い出が、かろうじてデイを支えた。
とぼとぼと歩いていると、端の古びた事務室に明かりがつき、ヤン先生達の声が漏れてきた。
「クララには可哀想なことになったのぉ……」
「本当に」
ローズ婦人の声も聞こえる。
デイは思わず聞き耳をたてる。
「ワシらがデイ王子に学びをさせるために協力させなければこんなことには……」
「いいえ。 クララは”させられた”のではありませんわ。 協力したかっただけですわ。 王子が大好きだったから――」
「しかし、そのせいで女官職を剥奪された」
「優秀な女官だっただけに、私も残念です。 でもこうして無理矢理やめさせるしか方法がありませんでした。 でなければ右大臣はもっと残酷な罪をクララに被せたに違いありません」
「――そう、じゃな。 デイ王子に近づこうとする者はことごとく排除しおるからの、あやつは」
「ケセムもワシも、こんな離れの事務室に隔離されたしの」
デイは黙って聞いていた。
先生達の話は続く。
「右大臣は何をどうしたいのじゃろう。 まともに王子を育てていこうと考えているとはとても思えん」
「甘やかし、放置、そして真にデイ王子の事を思う臣下をクビにして遠ざける……。 ああ、ラムール教育係がここにいたら」
「ラムール教育係……。 彼ほどデイ王子に対して心を尽くした者はいなかったのに……」
デイの脳裏にラムールの顔が浮かぶ。
しょっちゅう怒っている、口やかましいラムールの顔が。
でもそれが今ではとても懐かしかった。
デイはそっとその場を去ろうとした。 しかしケセムの声がデイを引き留めた。
「教育係が死刑になるとは、やりきれん……」
ざわっ、とデイの毛穴が開いた。
「死刑になったのっ!?」
驚いたデイは、いきなり部屋に入って尋ねた。
「デ、デイ王子!」
事務室にいたケセムとヤンとローズ夫人が驚く。
デイはケセムに詰め寄る。
「ねぇ! せんせーが、死刑にされたのっ!?」
「い、いえ、まだ、処刑はされておりませんが……。 国家反逆罪は死刑が妥当と右大臣が……」
「これ、ケセム!」
慌ててヤンがケセムの口を塞ぐ。
「右大臣が? どういうこと?」
デイは尋ねるがケセム達は目を見あわせた後、黙ったままだ。
「だって、右大臣は言ってたよ? せんせーは、せんせーをやめちゃうだけだって。 死刑とか、こっかなんとかって、言ってなかったもん! だから気にしないでいいって!」
デイがケセムの服の裾を掴んでゆらす。
「ねぇ! 教えてよっ! 誰か、教えてよっ!」
デイが必死に言う。
「デイ王子」
やっと、ヤンが口を開いた。
デイは乞うような視線でヤンを見る。
ヤンは床に跪き、デイの手を取り、同じ目線になって言った。
「真実は――人それぞれによって違います。 よろしいですか? あなたに嘘をつかないと、あなたが一番信頼している人にご質問なさいませ。 それが私だとおっしゃるのであれば、私は私なりの真実をお答え致しましょう。 私でないのならば、右大臣でも、左大臣でも、国王陛下でも、とにかく誰でも構いません。 自分が一番信じている者にお尋ね下さい。 その答えが真実なのです」
それを聞いてデイは、震える手をそっと離し、後ずさり、再び走り出した。
――ボクに嘘をつかない人?
デイは自分の部屋に駆け込んだ。
窓にはりついて、外を見る。 外は雨が少しずつ激しさを増し、遠くで地響きのような雷音が唸っていた。
雷はとても苦手で、怖かった。
だけど、デイは彼に会いたかった。
デイは雨合羽を着込み、王宮を出て、端の壁際にやってくる。
ここは先日、佐太郎と出会った場所。
佐太郎は特別な抜け穴で外から来たと言った。
絶対、ここに何かあるはずなのだ。
その瞬間、天が稲光で激しく光り、大音量の雷が轟く。
「ひっ!」
デイは怖くなって目をつぶってしゃがみこむ。
そして部屋から持ってきた、教育係の記章をぎゅっと握りしめた。
その記章の堅さが、しっかりしなさいと励ましているような気がした。
雷の音が去り、やっとデイは瞳を開ける。
すると壁の下のほうに、草木でカモフラージュされていたが穴が空いていた。
「これ……」
デイは四つん這いになってその穴を抜ける。
穴の先は沢山の草木が生えて、こちらも外から穴が見えるのを防いでいた。
デイはその間を通り抜け、山の斜面を下った。
細いトンネルがあり、そこを突き進んだ。
道はしばらく行くと家と家の間の細い路地に出た。 大きな通りに出ると、そこは城下町だった。
デイはどしゃぶりの雨の中、周囲を見回して、迷わず走り出した。
ラムールが前に地理を教えてくれていたから、進むことができた。
「せんせー!」
嵐に心が負けぬよう、彼の名を口にしながらデイは進んだ。
スイルビ村の陽炎の館へと。
+
「ひどい嵐だな」
一夢が窓から外を見て呟き、振り向く。
「おい――お前ら、外には遊びに行くなよ?」
「えー? 雨じゃん、外。 行くわけねーって。 なー、巳白♪」
リビングで走り回っていた羽織達を捕まえたままアリドが言った。
「そうそう。 行かない行かない。 ほらアリド、そいつらちゃんと捕まえとけよ? 来意がまだ捕まってないから油断できないぞ?」
巳白が部屋の中を飛びながら見回す。
「いないな、あいつ、どこに隠れたんだ?」
そんな巳白に一夢が声をかける。
「お前達なぁ、かくれんぼもホドホドにしろよ?」
「あっ、違う。 かくれんぼじゃなくて、缶蹴り鬼」
「缶蹴りなら外でやらんかいっ!」
呆れて大声を上げた一夢に、みんなで声を揃えて返事をする。
『だって、外、雨だしー』
「……っ、かぁ〜! ムカついたぞおっ! おまえらぁっ!」
一夢がみんなに飛びかかる。
全員が、わぁきゃあ、言いながら一夢に掴みかかったり乗っかったり、ひっくり返されたり大騒ぎだ。
そこにソロソロと来意が現れてカコーンといい音を立てて床に置いてあった缶を蹴る。
『あ〜〜〜ッ!!』
アリドと巳白が声を出す。
「んもー! 一夢さんのせいだからなぁっ!」
「ちっくしょ〜、これで何連敗?」
「4」
「やべ、リーチじゃん」
二人はブツブツ言っている。
「はっは、スマンスマン」
一夢はそんな子供達を見ながらその場を離れる。
雨と風の音にまぎれて、玄関の扉に棒か何か当たっているような音に気づいたのである。
一夢は玄関に向かう途中で、その音が誰かのノックだと気づく。
「客? こんな天気の日に?」
一夢は不思議に思いながら玄関の扉を開けた。
一瞬、誰もいないように見えた。
だが少し視線を下げると、そこにかなり質のいい雨合羽を着た男の子が一人立っていた。 うつむいているため、フードで顔が隠れて誰かは分からない。
「……誰だ?」
一夢は怪訝そうな口調で尋ねる。
男の子は声を聞いて少し体を強張らせ、顔を上げた。
デイだった。
「……」
デイも、一夢も、にこりともせず視線を合わせた。 いや、それどころか一夢は怒りに満ちた視線でデイを見た。
お互いにずっと黙っている事に、先に耐えられなくなったのはデイだった。
「せ、せんせーは……」
「あいつなら今はいない。 何の用だ」
一夢はデイにそれ以上何も言わせないかのように厳しく言い放った。
デイが青くなり唇を噛む。
「……いないなら……いい」
「そうか」
一夢はそう言うと扉を静かに閉めた。
デイはすこしの間、閉ざされた扉の前で突っ立っていたが、やがてゆっくりと陽炎の館に背を向けて、来た道を走り出した。
雨と風が小さなデイの体を容赦なく打つ。
一夢は玄関の横の小さな小窓から去っていくデイを見届けると、「ふんっ」と呟いてリビングへ戻った。
子供相手に大人げないとは思ったが、デイのせいで、ライマも自分も愛する新世も命を失うのだ。 それも、デイ王子と同じ年頃の大事な坊主達を残していかなければならないのだ。
優しくしてやるだけの余裕は無かった。