第15話 ささやかに、誘惑?
あんみつを完食すると、ライマは皿を持って立ち上がった。
「ごちそうさま。 お皿洗ったら、シャワー浴びてくるね。 ちょっと汗かいちゃった」
朝からずっと島内を歩いて往診していたせいもあり、さっぱりしたかった。
「あ、じゃあいいよ。 オレが皿を洗うから、シャワー行ってきな?」
彼も立ち上がって手を差し出す。
「えっ……と、じゃあ、お願い」
ライマはそっと皿を差し出す。
皿を受け取る彼の指がライマの手にわずかに触れた。
「アリガト」
ライマは平静を装い、お風呂場へと向かう。 脱衣所に入って、扉を閉めた。
「ふ、ふぅぅ〜」
ライマは息を吐いてクタクタと座りこんだ。
そして手をさする。
彼の触れた場所が、熱い。
そしてその手を自分の頬にあてる。
手の熱さが、頬に伝染する。
――なんてことを……。 触れて欲しかったから、あえて素直に頷くなんて。
ライマは目を閉じて、じっとその熱さに意識を向ける。
本当は”作ってもらったんだから私が洗うよ”と言うべきだろう。
でも彼が手を差し出した時、彼に触れるチャンスだという願望が働いた。
少しでも気を抜くと、口元を拭かれた感触も思い出してしまう。
とても胸がドキドキする。
苦しくて、嬉しくて。 それから先はわからない。
この感覚をどうしてよいのか分からない。
記憶は自分でコントロールできるから、すべてファイルに閉じてしまえば平静になれるはずなのに、気がつくとファイルは勝手に開いている。
勝手に開いて、勝手に頭の中を彼でいっぱいにしていく。
彼の目、彼の声、彼の鼻、彼の口、彼の指、彼の腕……
もっと見ていたい。 もっと聞いていたい。 もっと触れたい。
そう考えると首筋がぞくぞくして体が震えて頭がじんとしびれる。
好き、と思うだけで自分の体にしっくりきていたこの感覚は、それだけでは足りないと成長していく。
何をどうすればいいのか分からないまま、成長していく。
――ラフォーは私のことをどう思っているの?
ライマの胸に、この数日で何回くり返したか分からない質問が沸き上がる。
ただライマは知っていた。
感情は暴走しつづけることはできない。
何回もくりかえすうち、やがて疲れて、ちょっと大人しくなる。
それまで待った。
少しして、窓から入ってくるそよ風を頬に感じた。
――あ。 落ち着いた。
ライマは自分の感覚がちょっと疲れて他に向いたことに気づき顔を上げる。
「シャワー浴びようっと」
ライマは服を脱ぎ、洗濯機にいれて浴室に入っていった。
熱めのシャワーで体を流すと、気持ちがすっきりした。
気分転換もできたライマは濡れた体で脱衣室に戻る。
「……あ」
そこでライマは気がついた。
着替えの服を持ってきていない。
先ほどまで着ていた服は水の張ってある洗濯機の中。
幸いバスタオルはあるので、これで体を巻いて寝室に着替えを取りに行くしか方法はない。
ある意味、一生の不覚。
そしてある意味、――いい口実。
ライマは頷くと、体にバスタオルを一枚巻いた。
この姿でここを出て、寝室に行くついでに、彼がこの姿を見る、と。
見たらどんな反応するのだろう。
彼が私の事を好きかどうか、そこから推理できないかしら?
何の理由もなくこんな姿で出て行ったら、彼を好きだということがばれてしまうかもしれない。
でもこれは不可抗力なのだ。
仕方のない出来事なのだ。
決して彼を好きだからしてるって訳じゃないのだ。
”ついで”に、彼が私のことをどう思っているか、わかるかもしれないってだけだ。
好きだったら――興味をもって見るとか……。 好きじゃなかったら――興味をみせないとか。
散々言い訳を考えて、ライマは、バスタオル姿のまま、扉を開けた。
+
ラフォラエルはテーブルに書類をひろげて何やら書いていた。
ライマはゆっくりと脱衣所を出て、壁に背をつけて横歩きで進み出す。
いつもとは違う動きに彼が気づき、視線を上げた。
ライマと視線がぶつかる。
「ああ、上がった?」
ラフォラエルはそう言いながら銀縁の細長い眼鏡を外した。
「実は! あの、着替えをね、持っていくの忘れちゃってて、それで仕方なく、それ……って、ラフォー、それ、眼鏡?!」
ライマはしどろもどろになりながら、急に彼の眼鏡に気づく。
「ん? ああ。 眼鏡だけど?」
ラフォラエルは目頭のあたりを指で押して答えた。
「視力、悪かったの?」
「いーや。 これはちょっと特殊な眼鏡。 いわゆる老眼鏡」
「ろーがんきょう?」
ライマは声を裏返して驚く。
ラフォラエルはその驚き具合をみて軽く笑った。
「特殊なレンズを使っててな、文字が大きく見える。 俺の必需品」
彼は持っていた書類を軽く持ち上げた。
「あっ! もしかして?」
ライマは駆け寄って書類を見た。
そこにはとても小さな文字がびっしりと書き込まれている。
「眼鏡、かして」
言うが早いかライマは眼鏡を借りる。
「うわぁ! すごい。 読める読める!」
「小さな文字を大きく見るって意味じゃあ、老眼鏡だろ?」
ラフォラエルは楽しそうに告げた。
「この眼鏡ってラフォーが作ったの?」
「まぁね」
「器用ねぇ」
「ありがとさん」
そこまで言って二人の視線が再び重なった。
話をしていたせいだろうか、ライマはすんなりと彼の瞳を真っ正面から捕らえることが出来た。
彼の瞳孔がわずかに開く。
そこに彼を見つめる自分の姿が映る。
彼の虜になっているライマが、瞳の中から真っ直ぐ見つめ返していた。
「んー……コホン」
ラフォラエルは軽く咳払いをした。
「どうかした?」
その咳払いでふと我に返り、ライマは彼を気遣った。
「ん、あ、いやー」
ラフォラエルは視線を泳がせた。
彼のことを好きな事が気付かれたような気がして、ライマは慌てて眼鏡に視線を向けた。
まじまじと眼鏡を観察しているうちに、この眼鏡が欲しくなる。
彼との思い出に、欲しくなる。
――私のこと、嫌いじゃなかったら、欲しいって言ったらくれるかな?
「でも、これっていい。 欲しいかも」
ライマはあくまで自然に、さり気なく呟いた。
きっと相手が彼でないならば素直に「頂戴」と言えたであろうに。
「ホントにいい? 欲しい?」
そこにラフォラエルが、あっさりと話に乗ってきた。
「うん、欲しい」
ライマは嬉しくて即答した。
彼は何やら思いついたかのように唇の端を少しだけ上げて頷いた。
「じゃあ、俺の出す問題に答えきれたらあげようか」
「ホント!?」
それは願ってもない申し出だった。 問題正解の景品として受け取るのならば体裁が良い。
ライマが顔を輝かせて彼を見た。
ただラフォラエルは少しだけ意地悪な微笑みを浮かべた。
「んじゃいくぞ?」
「はーい」
目を輝かせるライマに、何やら思惑を隠したような真面目な顔でラフォラエルが質問した。
「一個、十個、百個、千個、この法則でいくと……次は?」
「万個」
ライマがはっきり応えると、なぜか彼は予想外だったみたいで、一瞬、絶句する。
気を取り直すようにもう一度、彼は問題を出した。
「えっと……じゃあ次は、L万個、M万個、N万個とくる法則だと、次は……?」
「L、M、Nだから……」
アルファベットの並び順も、他国の文化だが簡単な話だった。
ライマは真顔で答えを述べた。
するとラフォラエルの方が言葉につまり、頬を赤らめた。
「あ……う、うん」
ラフォラエルの小鼻がぷくりと膨らんだ。
しかし彼はなぜかより一層真面目な顔をして質問を続けた。
「それさ、触ってもいいもの?」
「は?」
「俺が触れたらどうする?」
「え? 何言ってるのか分からないけど、危険なものや、他の人のものじゃなかったら……」
ライマは首を傾げた。
正直、何の謎かけなのか、皆目見当がつかなかったのだ。
しかし、触れていいのかと言われれば、それが何を表しているかは知らないが……
「何してもいいよ?」
その返事は彼に大きなツバを飲み込ませるには十分だった。
少し声をうわずらせながら彼は言う。
「何しても? 舐めたり、好きにいじっても?」
それは食べられるものなのかと不思議に思いつつ、ライマは答える。
「うん」
するとラフォラエルは顔を赤く染め、いきなり顔をそむけると、手近な紙に図形の問題を書きだした。
――次は筆記問題?
そんなコトを考えながら見ると、それは証明の問題だった。
「あ、私、証明の問題大好き」
目をきらりと輝かせ、ライマは体を寄せる。
証明していくのはパズルのようでとても楽しいから、問題を見ているだけでも嬉しくなる。
顔色を元に戻したラフォラエルが優しく告げた。
「これ解ける?」
解けと言われたなら。
「これは、こう」
ライマはあっさりと解く。
「じゃー、この問題は?」
「こう」
「これならどうだ?」
「……んーっ。 けっこうひねってる……」
難問を出されてライマは考える。
少し考えていると、再度、ラフォラエルが口を開いた。
「なぁ、ライマ、問題解くのって好き?」
ライマは考えるのを止め、にっこりと微笑んで頷いた。
「うん♪」
再び、彼が意味ありげに尋ねた。
「もっと奥まで突っ込んで、出してもいい?」
「うん。 基本よりも応用の応用みたいな、深く突っ込んでるのって、好き」
「……ホントに奥まで突っ込んでいい?」
「♪」
「もっと……欲しい?」
「欲しい。 出して出して♪」
ライマが素直に答えれば答えるほどラフォラエルは妙にうろたえながら続けた。
「よしっ! じゃあ、出す時は、外と中と、どっちがいい?」
ライマには全く質問の意味が分からなかった。
問題を出すのに中でも外でも変わりはないはずなのに、どーして外なのかと。
ちらりと彼を見ると、瞬きの数が増え、少し前のめりになって唇を固く結んでいる。
どうやらかなり、深刻な問題らしかった。
答えあぐねているとラフォラエルが更に続けた。
「中出しと外出し、どっちがいい?」
先ほどと言葉尻が違うが、二度も質問するのならそれはそれなりに意味があるのだろう。
ライマはそう考えて、外よりは中の方が静かだし、と思い。
「中で出して」
「!」
赤面したラフォラエルが体を強張らせ、視線を逸らす。
「ラフォー?」
ライマは彼が具合でも悪いのかと不安になり、その顔をのぞき込んだ。
だが、ラフォラエルは再度視線を逸らした。
「俺、シ、シャワー浴びてこようかな。 あー! なんか、汗かいた!」
唐突にそう言って背伸びをしながら歩いていく。 それはまるで気持ちを切り替えようとしているようにも見えた。
「風邪ひかないうちに洋服は着ておけよ」
そう言い残して彼は脱衣室の扉を閉めた。
+
ライマは彼が脱衣所に入ったのを確認してから、自分の姿を見た。
バスタオル一枚、である。
あのまま壁を伝ってさっさと寝室に行って着替えを取るつもりが、彼が眼鏡という妙なものを持っていたものだから好奇心が沸いてしまった。
知識に触れるのが大好きな彼女の弱点は、興味が沸いたら集中しすぎて他は忘れるということ。
つまり。
眼鏡に気づいてから今まで、バスタオル姿ということを忘れていた。
彼がこの姿にどんな反応するかと調べるつもりが、失念していた。
「んー」
ライマは両手を組んで考える。
さて。
彼の態度はどう分析すればよいのだろう。
裸にバスタオル一枚の姿だというのに、彼はたいした会話はしなかった。
会話を繰り返して思い出すが、自分の事をどう思っているか判断するには無理としか。
「あえていうなら……どうでもいいって感じかな」
不快そうには見えなかったし。
褒めてくれた訳でもないし。
――って、この姿のどこをどう、褒めろってっ?
自分でつっこみを入れる。
「分からないなぁ」
ライマはそう言って閉じられた脱衣場の扉を見た。
とりあえず、ずっとバスタオル姿でいて風邪をひいても怒られるし、露出狂と思われてもマイナスだ。 さっさと、着替えるべし。
ライマは寝室に行った。
寝室で服を選ぶ。
とりあえず、さっきのバスタオル姿がわざとではなく、仕方がない状況だったのだと主張せねば。
仕方がなかったのだとアピールできれば、きっと印象はマイナスにはならないだろう。
ダボダボのズボンと、首もとの締まったロンTと、大きめのTシャツの二枚重ね。
これを来てしまえば、体のラインはまず出ない。
ライマはその服に着替えて、鏡に自分の姿をうつして、頷く。
――これで、オッケー!
するとその時、寝室の扉がコン、コン、と優しくノックされた。
「入っていい?」
ラフォラエルの声が扉の向こう側から聞こえてきた。
ライマの心臓がばくばくと音をたてる。
――平気平気! ばれない!
ライマはごくりとツバを飲み込んだ。
「……うん。 いいよ」
ライマの返事のあと、一呼吸おいて扉が開く。
そこにはタオルを腰に巻き付けた姿のラフォラエルが立っていた。
「俺も着替え持っていくの忘れてたから、取りに来た」
彼はそう言って照れくさそうに笑うと、ずかずかと部屋に入り自分のタンスから服を取り出す。
「んじゃな♪」
そして何事も無かったかのように寝室を出て再び風呂場へと直行した。
扉の閉まる音をきいてライマはホッと胸をなで下ろした。
「なぁんだ。 着替えの服を忘れちゃうのってよくある話なのね。 だからラフォーって別になんでもないって感じだったんだ」
ライマはそう結論づけた。
ある意味、無知は幸せなのか、不幸せなのか……。