第11話 気づかれなければ、嫌われることもない
すき【好き】 [名・形動]
1 心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。「―な人」「―な道に進む」嫌い。
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
すき2 【好き】 (名・形動)
[文]ナリ 〔補説〕 動詞「好く」の連用形から
[1] 心がひきつけられること。気持ちにぴったり合うさま。⇔嫌い
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
ライマの脳に「好き」の辞書表現が浮かぶ。
しかし知識で知っていた「それ」と、現実に体験している「これ」とでは、天と地ほどのギャップがあった。
現実に体験している「これ」は、気づかぬうちに精神に根を張っていた。
そして「これ」が「好きであるという感情」であると理解すると、ものすごい勢いで体の隅々にまでその情報を伝達した。
心臓が早鐘のように脈打ち、喉が渇き、体中が熱くなった。
――どうして? いつどこで? なぜ?
ライマは頭の中で彼と出会ってから今までのことすべてを高速で思い出していた。
しかしそれは無謀な行いだった。
彼の事を好きだと気づいた今、思い出される事柄すべてが、彼女自身の分析しようとする理性を押し殺し「好き」という感情を溢れさせるのだった。
「んーっ♪」
メーションの唇が押しつけられる。
タートゥンがささやく。
「あの二人はいつもあんなだから気にしないで」
――イタッ!!
ライマは心で叫んだ。
それを思い出した瞬間、今まで感じたことのない痛みが胸を貫いた。
それと同時に、ベットの隣にいる彼が椅子から立ち上がる音が聞こえた。
それが朝に喧嘩をした時を思い出させる。
彼が怒って去っていったことを思い出す。
「ヤダ! ごめんなさいっ! いかないでっ!」
ライマは毛布を跳ねとばして起きあがった。
いきなりライマが跳ね起きたのでラフォラエルが驚く。
彼の表情を見て、ライマはとても悲しくなる。
彼が喜んでいない、それだけで悲しくなる。
だからほろりと涙がこぼれた。
「……う、ぅ゛〜っ」
ライマはうつむきながら溢れる涙を一生懸命手でぬぐった。
泣いたらみっともないと思うけど涙が止まらなかった。
なぜ泣いてるのかも分からないけど、涙が止まらなかった。
その時、ラフォラエルは言った。
「ちょっと待ってて」
そして寝室を出て行く。
パタンと扉が閉まる。
――行っちゃった。 ……嫌われた?
閉ざされた扉が、そのまま彼の拒絶に思えた。
――嫌われた嫌われた嫌われた。 泣いたから? 面倒だから? 興味が無いから?
胸が押しつぶされそうに痛い。
――恥ずかしい。 いっそ消えてなくなってしまいたい。 ごめんなさいごめんなさい。
誰に謝っているのかも分からずに、息を止めて両手で顔を覆う。
カタン、と再び扉の開く音がした。
ライマは顔をあげた。
彼が手にコップを一つとタオルを持って入ってきた。
不安そうな、困ったような、表情だった。
でも怒っていない様子に、ライマは嬉しかった。
ラフォラエルは近づくとタオルでライマの顔を拭く。
ライマはしゃくりあげながらも少しずつ落ち着く。
彼が自分のためにタオルを用意してくれた、それだけで嬉しかった。
ライマが少し落ち着いたのを確認して、彼は言った。
「もっと簡単に完治させる方法はあるんだ」
ライマはラフォラエルの顔を見た。
それに応えるように彼はまっすぐな眼差しで言った。
「俺はそれで治した」
ライマが一呼吸、間を置く。
「ラフォーが、それで治したの?」
ラフォラエルが頷く。
「でもかなり苦しい。 他のみんなはあまりの苦しさに途中でギブアップしたから普通に薬で治した」
「ラフォーだけが?」
「ああ。 この方法だとすぐ治るのは保証する。 ――信じて貰えたらだけど」
ライマは間髪を入れずに返事をした。
「信じるよ、私」
するとラフォラエルはコップを差し出した。
中には綺麗な水がたっぷり入っている。
「これは蒸留水。 この不純物の無い水を一気に飲み干す。 それだけさ」
ラフォラエルは言った。
「ラエル3が極度の飲食物拒否をするのは、水が弱点だからなんだ。 コレを飲んでたった1分間我慢したらラエル3は消滅する。 大人ならコップ1杯、子供なら半分ってとこかな。 そのかわり消滅するまでの間は地獄のような苦しみがある。 さっき冷凍庫見たけど、氷を口にしたろう? その時に感じたと思うけど煮え湯というか、沸騰した油というか、とにかくそんなものを飲まされた感じ。 ラエル3が消滅するまでの間、飲んだ水を吐き出さなければ、完治だ」
彼はそこまで一気に告げて、ライマの表情を見てからゆっくりと付け加えた。
「信じられないだろ?」
しかしライマは首を横に振った。
「信じる」
再度、迷わず告げた。
今、彼女にとって彼の言葉は何よりも切望するものだったから。
+
ライマは渡されたコップの水をじっと見つめる。
ラフォラエルがそっと肩を抱く。
やはり熱く感じる彼の手。
しかしその熱さが、今は嬉しかった。
彼がここにいてくれる。
それだけでとても心強かった。
「一気に飲んで、後は我慢して。 どうしても無理な時は吐いて構わないから」
ラフォラエルの言葉にライマは頷く。
そして一気に水を飲み干した。
次の瞬間。
ライマの喉と食道と胃に、燃え上がるような激痛が走る。
「んんっ!」
ライマは胸を押さえ息を止めた。
まるで火をそのまま飲み込んだかのように体中を何かが暴れ回る。
体をくの字に折り曲げて苦しみに耐える。
このまま、死ぬのではないのかと思うほどのおぞましい痛みだった。
「ライマっ! 無理するな!」
彼の声が届く。
ライマは今確かに、おぞましいほどの痛みを味わっているのに、何故だろう。 彼の声は、耳に届く、ただそれだけで苦しみを和らげた。 いや、苦しみに耐えるだけの力を沸き上がらせた。
同じ痛みを、苦しみを、彼も体験したのだ。
たったそれだけの事実が喜びにも感じられた。
そしてラフォラエルはライマの肩を抱き手を握ったまま、最初はいつでも吐き出せと言っていたが、途中からは励ましに変わっていた。
「ライマ! 頑張れ! もう少しだっ!」
ライマは顔面蒼白になりながら、小刻みに震える。
しかし、「その時」は想像以上にあっけなかった。
まるで風船が割れたかのような、小さな衝撃が体中に届いた。
するとすうっと汗が引き、苦しみは消え、熱が下がる。
胸に渦巻いていた嘔吐感もなくなり、平衡感覚を失っていた三半規管が正常に戻る。
ライマは目を開けた。
そしてふぅっ、と息をついた。
悪寒、嘔吐、目まい、発熱、どこにもその症状はない。
まるで夢から覚めたかのように世界がすっきりと感じられた。
「やったっ! 偉いっ! ライマっ!」
次の瞬間ライマは喜ぶラフォラエルに思いきり抱きしめられていた。
「!」
ライマは目を大きく見開いた。
彼は強く抱きしめたまま、ライマの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「すっごいぞ! ライマ! 超すっげぇ!」
ラフォラエルの声にライマの心臓がどくどくと大きく脈うつ。
しかし、何より嬉しかった。
彼が子供みたいに喜びながら褒めてくれる。
彼の体温でライマのすべてが包まれる。
――すき――
ライマは目を閉じて心でそうつぶやいてみた。
心地よい切なさと気持ちよさが彼女を満たしていた。
+
ライマはとりあえずそのままベットに横にさせられた。
「念のため横になっとけ。 俺が飯を持ってくる」
そう言われてライマは頷く。
部屋を出て行く直前、ラフォラエルがふと立ち止まり、振り返る。
「なに?」
ライマは尋ねた。
彼はすぐ側に戻ってきた。
「ライマが今着てるスカート、とても似合ってるぜ」
それを聞いてライマは少し恥ずかしそうに頷く。
ラフォラエルは続けた。
「ま、朝着てたのも可愛かったといえば可愛かった。 でも俺としてはあまり好みじゃない」
ライマの胸がちくりと痛む。
「スカート、嫌いだった?」
ライマは尋ねた。
「いーや! あえて言うならあの中途半端な丈ってのがどうも趣味じゃない」
「……それじゃあ、どんなのが好きなの?」
「ズバリ、膝上20センチ位の短いやつか、長いスカートでも……何ていうかな、すそをこう持ち上げて、膝上までめくれて太腿が見える位がかなり好き。 今のライマのスカートのすそみたいな感じ」
そう言われてライマは自分の足を見る。 確かにスカートがめくれて太腿が露わになっている。
「ラ、ラフォーのエッチっ!」
ライマはスカートの乱れを直し、真っ赤になりながら枕を掴んでラフォラエルに向かって投げた。
「あっはは、ごめんごめん」
ラフォラエルは笑いながら枕を受け取って更に言う。
「パジャマに着替えきれる? 一人で無理なら着替え手伝おうか?」
「自分で、で・き・ま・すっ!」
ライマがもう一個の枕を投げてあっかんべぇをする。
「それだけ元気があるなら絶対平気だ♪」
ラフォラエルはそう言いながら、もう一個の枕も上手に受け取るとライマに手渡した。
少ししゃがんでライマと目を合わせて尋ねる。
「すぐ帰ってくるから、向こうの部屋に行くけど、いい?」
ライマは一瞬、ぽかんとした。 しかしその言葉がつい先ほど、行かないでと泣きわめいた事に対する心遣いだと気づいた。
自分が思わず叫んだ言葉を思い出し、赤面する。
「あっ、あれは……具合が悪くて心細かったから……で……」
「だろうなぁ」
ラフォラエルは優しく笑って部屋を後にする。 扉が閉じられて、ライマはふうっと息をつした。
パジャマに着替えながら、いまだに続く「ラエル3の症状」とは別の熱い感覚を確かめる。
その感覚は「好き」という感情と重なると、非常にしっくりと体に順応した。
脱ぎ捨てた服に視線をやると、再びメーションがキスする姿が脳裏に浮かんだ。
胸がとても痛かった。
でも、幸い、今は彼女はここにいなかった。
ラフォラエルがいるだけだ。
メーションが今は彼に触れることはできない。
それだけで少しホッとしていた。
今だけはどんな形であろうと、彼を独占できる事実は正直嬉しかった。
ライマは閉じられた扉を見つめた。
彼に拒否されるのが、何より怖かった。
メーションという相手もいるし、この気持ちは受け入れてもらえないだろう。
それに、自分はテノス国に帰らなければいけないのだ。
彼に素性を明かすことはできないのだ。
ここで体力が戻ったら最初の約束どおり、島民達を法術で治療しよう。
そしてその後は何食わぬ顔でこの島を去ろう。
それまで理性の力で感情を抑えつけて、彼に自分の気持ちを気づかれないようにしよう。
気づかれなければ、嫌われもしないだろう。
嫌われさえしなければ、「こんな少女と出会った」と、彼の記憶の片隅に刻み込んでもらえるかもしれない。
彼が自分の事を記憶という名の己の体の一部にしてくれるのなら。
それだけで嬉しい、と思った。
陽炎の館に、一人の婦人が訪れた。
トントントン、と軽くノックすると、中から新世が返事をして現れた。
「あらミエルさん」
新世が微笑む。
ミエルと呼ばれた女性は手にした皿を差し出した。 そこには鶏の唐揚げがうずたかく積まれている。
「新世ちゃん。 おすそわけ。 作り過ぎちゃってね」
「わぁ嬉しい! 最近、あの子達とっても食べるんです。 助かりますわ」
新世が喜ぶ。 ミエルも笑う。
「そうだよぉ? これからもっともっと食べるからね、子供ってやつは」
「ふふ。 怖いです。 ……ちょっと待っていて下さいね。 お皿だけお返ししますから」
新世はお皿を受け取ると一度奥に入り、そして綺麗に洗った皿と小さな紙袋を持ってきた。
「ありがとうございました。 これ、山桃のゼリーを作ったのでよろしかったらどうぞ」
「あらあらすまないね♪ でもお言葉に甘えて」
ミエルは喜んで紙袋を受け取った。
「だれ? おばちゃあん?」
新世の後ろから羽織達が顔を覗かせる。
きゃあきゃあと家の中で騒ぐ声も聞こえる。
「唐揚げのおすそ分け頂いたのよ。 ほら、羽織、弓。 御礼は?」
「あっ、ボク、おばちゃんの唐揚げ大好き!」
「わたしも!」
目を輝かせて二人は答える。 褒められて嬉しそうにミエルも頷く。
「ありがとうね。 いい子だねぇ。 そうそう、最近タチの悪い風邪がはやっているから気をつけるんだよ」
「タチの悪い風邪?」
新世が尋ねる。
「そうなんだよ。 ちらほらとね。 その風邪はねぇ、いっくら休んでもよくならないし、食欲がなくなって、薬もきかないから長引いてるって城下町で噂になっててさ」
「風邪……」
それを聞いた新世の胸に、言いようのない不安が広がった。