夫となる人物
次々発布される倹約令は下へ下へと圧迫して、下々の者には最早鬱憤の持って行き場すらなかった。持てる者と持たざる者、その落差は筆舌に尽くし難く、下から指をくわえて眺める側からすれば鬱々とするばかり。その鬱屈は捨て身にさせ、命知らずに駆り立てる。遂に追い詰められて捨て身になった民衆は一揆へと突っ走り、その頃一揆は全国で頻発していた。上層部はわいろ授受に余念がなく長州も例外ではなかった。江戸時代の年貢の殆んどは農民が負担して商人にその義務はない。商人は冥加金だけでよく現代の固定資産税に当たる地子銭も免除されていた。そのしわ寄せは農民に行き、いくら働いても農民の生活苦は解消されず最早抑制は効かなくなっていた。報われない現実に生きる希望を失った者が考えることは、わが宿業を呪い来世に望みを賭けて死を選ぶこと。長州でも起こるべくして一揆は起こった。防府を皮切りに鬱積した怒りは一つの塊となって集団化し暴動へと発展した。切っ掛けは何でも良かったのだ。事の発端は些細なことであった。その頃牛の皮を剥いで竜神池に投げ込めば物価が暴騰するという言い伝えが信じられていて、ただでさえ物価は高騰しているというのに一八三一年七月二十六日、村役人が犬の皮を荷車に積んで通り掛かり、偶々それを百姓が見つけたことが因となった。庶民の貧困は極限に達しており、瞬く間に中之関から大浜、宮市、三田尻へと飛び火して軒並み豪商が襲撃された。暴力に訴えるしか方法のない農民は暴動化し一揆は二十九日には山口小鯖へと燎原の火のように拡がる。だがもとは話せば解る人間同士、しかも農民は純朴である。吉田の代官・林喜三郎は人格者で一揆の首謀者に、
一、みなみな腹立ち尤もに候
一、上はお気の毒に思召され候
一、早々しずまり帰るべし
と書き物を渡すと早々に解散し立ち去ったのであった。しかしそこはその程度で取り敢えず治まったものの、一揆の噂は流言飛語を交えて既に広まっており、八月二日には阿武郡、三日には小郡、船木、十三日には遅ればせながら村から村へと波及し大島へ、大島郡では米の積み出しを狙って襲撃。そして十六日は大津、美祢、吉田、船木、当島、阿武宰判に及んだ。更に船木から小野村、瀬戸村、一揆の数は百姓に加えて浪人、無宿者、盗人など千人を超えて膨らみ、豪農を襲い略奪して暴動は一向に治まる気配を見せない。次は我が身かと波及を恐れる船木の大庄屋・中屋家は現場に使者を派遣して毎日その状況を書き付けにして早飛脚で届けさせる。八月二十二日、二十三日、二十四日と一揆の現状を知らせる書状は続き、二十七日、中屋家が漸く終結を知らせる書状を勘場の代官所役人へ謝辞を書き添え届けて一揆は終結した。
中屋家はいざという時には鎮撫に役人の出動を約束していた。この件で協力した者には藩は褒賞を、非協力的であった者は役職を降格されたり罷免されており、国家老の吉敷毛利十二代蔵主はその時上手く対処出来なかった咎を受け蟄居を言い渡された。
一方中屋家では中屋家に協力的であった百姓、中に盗賊まで紛れ込む総勢百五十人に一揆収束の後、労をねぎらう酒や御馳走が振る舞われた。こうして役人の移動の際、駕籠の前後に警護を付ける程警戒された長州の一揆は一段落したのだった。だが全国的に一揆は頻発しており、どこかで治まってもどこかで勃発、一向に鎮まる気配はない。どの藩も極度の貧困に喘いでどうにかしなければならないほど生活は切羽詰っていた。
大阪でも、一八三七年役人と結託した豪商の米買占めによる米相場の暴騰に腹を立てた民衆が大塩平八郎を首謀者に祭り上げ暴動を起こす。世に有名な大塩平八郎の乱である。だがこれも大塩平八郎の打ち首で終結、根本的な解決には至らなかった。貧すれば民衆の心は荒び血生臭い事件は後を絶たず、世情はなおも一触即発の危険を孕み不穏な空気が充満していた。暗殺に報復、襲撃やその断罪によるさらし首が川原などに放置され、民衆はそのような残虐行為に見慣れていた。しかしながら国政を牛耳る上層部に民衆の悲痛な叫びは届かない。それに対する危惧も皆無、逆に拝金に走り私利私欲に駆られて収賄を貪る。
その年モリソン号が薩摩に現われ開国を要求、だが意図の読めない薩摩藩が江戸幕府に責任を転嫁すると、遭難して漂流していた日本の漁民を救助してその交換条件として通商を要求しているにも拘らず、やはり状況の読めない幕府は浦賀沖に着岸したモリソン号を襲撃して幕臣の失笑を買い猛烈な批判に晒される。
モリソン号の件に限らず、開国を迫る大国からの接触は試みられていた。十年前に起こったシーボルト事件もその発端と見られているが、幕府の要人達にその切迫感はない。情報を閉ざされた社会で平和ボケした為政者にそんな声は打ち消されて愚策ばかりが取り上げられていった。
勅子に縁談の話が持ち上がったのは丁度そのような時勢にあった。
時一八三七年勅子、花も恥じらう十八の時である。相手は毛利一門六家に属す石高八千石の厚狭毛利十代当主元美。一門六家は藩士の中で最上位の階級に位置し代々家老職を世襲する。藩初からの制度で首席は初代元就と妙玖との間に出来た娘の嫁ぎ先である宍戸家、二番目は元就の第七子元政を祖とする右田、三番目が元就の第五子元秋を祖とする元美の厚狭。四番が第九子秀包の子元鎮が祖の吉敷、五番が吉川元春の次子・元氏が祖の阿川、六番が吉川広家の次子・秀頼が祖の大野と続く。大野毛利は旧族吉見の祀を継ぐことから吉見毛利ともいう。他に毛利家とは旧知の仲の益田、毛利家庶流に端を発する福原の二家が加判役に参与する。
因みに勅子の出自である徳山は本家に最も近い四支藩の一つ。家格が最重要視されるこの時代、宋藩の要職は一門六家からと限られており、名門の役職はいずれも重い。 (船木郷土史話)
当時元美も萩附近防御総奉行として辣腕を奮う気鋭の若者で、本藩の奉行を勤める傍ら厚狭の梶浦古開作の工事も手掛けていた。まさに才媛の勅子の結婚相手として不足のない人物であった。
よって話は速やかに進められる。
一万石以上の領主の屋形は城と言い、それ以下は居館という。厚狭毛利の居館は厚狭の郡にあったが、本藩の家老職を務めるからには近辺に住む必要があり、萩城のお堀の内側に出屋敷を構えていた。堀内の西北に縦三十八間、横八十三間という公大な敷地に、長さ二十四間の武家長屋としては最大級の広さを誇る出屋敷であった。そこを拠点に六十七歳になる祖母の遊昌院、正室遊昌院の実子である五十二歳の父親房晃とその正室瑶光院等と共に元美は暮らしていた。門をくぐるとすぐの所に、いかにも長年風雪に耐えたことを偲ばせるような風格ある四本の老松が目を惹くことから、萩の厚狭毛利は通称・四本松呼ばれた。。厚狭の居館には既に身分の低い下働きの家女との間に一歳になる男の子が居たが、毛利元就の言によれば正室以外の腹から生まれた子は虫けらの子であり、家督を継ぐ順位は低く、勅子との間に子が生まれればその子が当然嫡子となる。その頃の武家の跡継ぎに妾の存在はごく当たり前の常識である。身分の吊り合いからして妥当であったこの縁談は、老獪な大人達によって熟慮に熟慮を重ねて計画されたのだから、よほどのことがない限り覆されることはない。武家社会の縁談に当事者の感情や意思は反映されない。交渉に本人抜きは当たり前、勅子を取り巻く重臣達の決定に勅子が口を挟む余地はなかった。どうしても性格的に合わなければ結婚後に破縁にすればよいのである。しかしこの縁談に関しては文句のつけようのない良縁であった。 (船木郷土史話)