第8話「郁子の贖罪」
「絶対に許さない」
京子は憎々しげにそう言い放った。
大人になった京子と郁子。
かたや人指し指を突きつけ罵り、かたや何も聞きたくないと言いたげに耳を塞いでうずくまっている。
折しも夏の熱風が、彼女たちのいるデパートの屋上にも届いた。どんどん雲行きは悪くなっていき、もうまもなく夕立が降りだすことだろう。
風が京子の帽子を揺らし、郁子の足もとの花束も同じく揺らしている。色褪せているとはいうものの、白い帽子は十五年たった今でも昔のままである。反対に、白いユリの花束は眩しいくらいに真っ白だ。
「どうして…」
その時、郁子の囁くような声が上がった。
「…………」
京子はまだ指を突きつけたままだ。
「どうして私だけなの?」
ゆっくりと顔を上げ、立ち上がりながら郁子は言う。
「確かに私も悪かったと思う。だけど私、わからない。なんで私だけをそんなに憎むの。みっちゃんだって非道いことしたじゃない。たった一回の苛めで、そこまで憎まれなきゃならない理由がわからない」
京子は突きつけていた指をおろした。
「たった一回……?」
京子の口の端が歪んだ。それは皮肉めいた笑いにも似ている。
「そうね。確かに一度だけ。反対に佐伯さんはずっとわたしを苛めつづけていた。わたしの憎しみは、あなたのような幸せな人にはわからない感情だわね」
「そんな…幸せだなんて……」
「幸せだわよ!」
京子は吐き捨てるように叫んだ。
「健康な身体。元気で陽気なお母さん。佐伯さんに限らず誰からも好かれる人柄。何もかもわたしには持っていない物を手にしている幸せなあなた……」
「そんな……」
郁子は戸惑ったような表情を浮かべた。
「わたしがどんなにあなたに憧れていたか、あなたにわかる?」
京子の表情が少し和らぐ。
「わたしは、そんないくちゃんが大好きだったわ。わたしにはお姉さんも妹もいなかったから、お姉さんがいたらきっとこんな感じかなって、いつも思っていたの。それに、前の学校にいたときには仲良くしてくれる人なんかいなかったから、普通の友達っていうよりも、よく物語なんかに出てくるような親友のような存在だったのよ、あなたは。それほどあなたのことを好きだったのに……」
京子の目は険しくなり、声も刺々しく変化していった。
「あなたはわたしを裏切った」
「謝ろうと思ったのよ!」
慌てて郁子は叫んだ。彼女の目からは涙が溢れている。
「みっちゃんも私も、京ちゃんのお母さんが亡くなっていたなんて全然知らなかったんだもの。本当に悪かったって思って、ふたりで謝りに行ったんだよ。だのに、京ちゃんは急に引っ越して行っちゃって、もういなかったんだもの。大人たちには怒られるんじゃないかって聞けなかったから、京ちゃんがいったいどこに引っ越したのか分からなくなってしまったのよ」
「…………」
郁子の訴えにも京子の心は動かされた様子はなかった。冷たい視線を見せているばかりである。
「………」
郁子は震え上がり黙り込んでしまった。
「どんなに辛かったかわかる?」
そんな彼女の姿を目の当たりにしても、京子は動じていないようだった。構わず続けて喋る。
そして、その声は身を引き裂かれそうなほどに悲痛だった。
「佐伯さんはどうでもいいのよ。あの人は最初からわたしを良く思ってないって分かってたから、どんなに苛められたって堪えることができた。だけど、信じていた人に裏切られるって、こんなに辛いことはないわよ。わたしの心は、あの日あなたによって粉々に壊れてしまった。憎んでも憎み足らない……」
京子は一歩、また一歩と郁子へと足を進めていく。
「この十五年というもの、わたしはあなたを憎みつづけてきたわ。そして、この日をようやく迎えることができる」
「ど、どういうこと……?」
フェンスを背にして、郁子は言った。
──ヒゥゥゥゥ───
風が少しきつくなったようだ。郁子の足もとに置かれた花束も、花びらが飛んでいきそうなほど揺れが激しくなっている。
雨雲が上空を覆って、あたりがぐっと暗くなった。しかし、まだ雨は降ってこない。
京子がだんだんと郁子に近づいていく。ひたと視線を郁子に向けたまま、表情はとても冷たい。郁子はというと、怯えたように目を見張り、胸のところで組んだ両手が震えている。
「復讐よ。あなたにもわたしと同じ苦しみを与えてあげる……」
「や…やめて……」
郁子は首を振った。
「あの日もこんな天気だった───」
京子は上空に視線を向け、囁いた。
「京ちゃん、やめて……」
涙でぐしゃぐしゃになった目をしながら郁子は言った。
「あなたにも味わってもらわなくちゃ……」
まるで夢遊病者のように、京子は両手を前に伸ばす。
「京ちゃん……」
京子は郁子のすぐ目前に辿り着き、ようやく足をとめた。
彼女は郁子の目を覗き込み、口を開いた。
「復讐する……」
続けて何かを言おうとしたそのとき!
「何をしているの!」
誰かの甲高い声が上がった。
「!」
その声に一瞬ひるむ京子。さっと振り返った。
「あなた、そこで何をしているの?」
屋上への出入口に、このデパートの制服を着た女が立っていた。なかなか映える顔だちをした、でも少し澄ました感じの女だった。
「………?」
その女店員は、険しく睨み付ける京子の顔をしげしげと見つめている。そして───
「あなた…もしかして……」
女の表情が驚きに変わった。
「小西京子……?」
「え……?」
今度は京子が驚く番である。
「まさか……佐伯…さ…ん…?」
そう、屋上にやってきたのは佐伯美智子であった。彼女はこのデパートに郁子と一緒に入社していたのだ。
もともと、このデパートのオーナーが美智子の父親であったので、美智子は入るべくして入ったと言えなくもない。そして、美智子にとって、郁子は離れたくない相手だったので、当然のこと郁子も一緒に入社させたのであったのだ。
「くっ…くくく…」
突然、京子は可笑しくてたまらないといったふうに笑いだした。
「あのときと同じだわ。ああ、なんてこと…歴史は繰り返すっていうけど、まったくその通りだわね」
「………?」
美智子は怪訝そうに首を傾げた。
「いいでしょう」
京子は笑うのをやめ、美智子に向かって言い放った。
「これで役者はそろったってことかしらね。覚悟なさい、佐伯さん。これから十五年前の復讐を……」
「復讐ですって?」
美智子は目を見張った。
「あなたたちふたりに復讐をしてあげる」
京子は微笑みを浮かべて叫んだ。
「あなたたちに未来永劫の苦しみを!」
「まって! あなたたちふたりって…?」
慌てて美智子が叫んで走ったが、すでに遅かった。
京子は振り返ると、あっというまにフェンスを飛び越え宙へと舞った。
デパートは七階だった。そして、屋上はその上である。下は道路が通っており、落ちたら絶対に助からないだろう。
──ビュゥゥゥゥ───
京子が飛び下りたと同時に、突風が屋上を襲った。
そして、京子の白い帽子が舞い上がる。
「小西さん!」
美智子がフェンスへと駆け寄った。身体を乗り出し、はるか下を覗き込む。
「小西さぁ────ん!」
叫ぶ美智子の足もとには、相変わらず白いユリの花束が揺れているばかりであった。
そして、今この屋上には彼女のほか誰もいない───
──ヒュゥゥゥゥ───
風の音だった。
いま京子は落ちていた。
「復讐よ……」
彼女は満足そうに微笑んでいた。
──ヒュゥゥゥゥ───
風の音が耳にうるさい。
でも京子は幸せだった。
「ようやく憎しみから解放される」
彼女は呟いた。
落ちていく───限りなく深い奈落へと落ちていく───
「………」
京子は目を閉じた。
もうまもなく身体に衝撃がくるだろう。
(だ…め…)
「!」
何か耳に聞こえ、京子は目を開けた。
「?」
京子は不審に思った。
「止まっている?」
京子の身体の落下が止まっていた。
慌ててまわりを見回す。
「ええっ!」
京子はひどく驚いて叫んだ。
そこは空中のようだった。だが、彼女が落ちていたはずの空中ではないようだ。
見回してみてもデパートはないし、道路も木々もない。ましてや、町も見えなかった。
何もない空間───しかし、真っ暗というわけでもない。白っぽい色が京子を取り囲み、ゆらゆらと蜃気楼のように空間が揺れている。
「こ…ここは、どこ?」
京子は恐怖を感じた。
憎い相手のために自殺さえも厭わなかった彼女が、なぜか非常な恐怖を感じている。
(だめだよ、死んじゃ……)
誰かの声だった。
それは、声というよりも思念のようなものだった。
「だれなの!」
さらなる恐怖を感じ、京子は誰何した。
(私よ……)
その声がそう言ったあと───
──パァァァァ───
京子の目の前が明るくなったかと思うと、郁子の姿が現れた。
「京ちゃん……」
「………………」
京子が驚愕のため口をぱくぱくさせていると、郁子が笑った。だが、それは見ていて泣きたくなるほど悲しそうな微笑みだった。
「ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。あなたの言うとおり、謝ったって許されることじゃないけど、私にできることといったらこうやって謝ることしかできない。だから、私のこと許さなくたっていい。でも、復讐なんてやめて。こんなこと私が言ったって何の慰めにもならないけど、復讐したってあなたの心は救われない。確かに生きつづけることは辛いかもしれないけれど、死んじゃだめだよ。死んじゃったらそれでおしまいだよ。これから素敵な人と出会って恋をして、結婚して、かわいい子供を授かって……それに、私よりももっと誠実な親友だって手に入るかもしれない。だから、死ぬなんてやめて。お願いだから」
「いくちゃん……」
郁子の目に涙が浮かんだ。
「私、京ちゃんが本当に好きだったよ。知らなかったかもしれないけど、私だって京ちゃんみたいになりたかったのよ。京ちゃんは私の憧れだった。私みたいな粗野で乱暴な女に比べたら、何十倍もおしとやかで女らしい完璧な女の子が京ちゃんだったのよ。京ちゃんになりたかった。大好きだった。今から思うと、みっちゃんよりも京ちゃんのほうが一番好きだったんだわ。私は馬鹿だった。本当に愚かだった。ごめんなさいね、京ちゃん」
郁子は泣きながらそう言った。
涙が彼女の頬を伝って顎からしたたり、ゆらゆら揺れる空間に漂っている。
「いくちゃん……」
京子も泣きながら呟いた。
「でも、どうして……?」
「………」
京子の問い掛けに、郁子は答えない。
「どうなってしまったの……?」
「鉄男くんなの……」
ぽつりと郁子が呟いた。もう、彼女は泣いていなかった。
「あの噂は本当だったのよ」
「うわさ……」
京子は考え込むように呟いた。
郁子は深々と頷いて続けた。
「といっても、鉄男くんの幽霊がそうさせていたわけではないと思うわ。自殺した人たちは、見るべくして見てしまったというべきかもしれない。悲しいまでの深い傷で満たされた人間の心が、抱えきれない傷を持った鉄男くんの幽霊の姿を己の目前に呼んでしまうのよ。だから、何も知らない人たちは、まるで鉄男くんの幽霊を見たから死んでしまったというふうに思えてしまう。だけど、鉄男くんの幽霊は本当に存在するのよ」
「………」
京子は郁子の言葉に頷いていた。
「鉄男くんは力を貸してくれたわ」
郁子は京子に手を伸ばした。
「力……?」
京子は訝しそうに言った。
「そうよ。京ちゃんは死んじゃだめ。これからもずっと生きつづけるの。生きて、幸せになってほしい……」
郁子は京子の身体を引き寄せ、包み込むように抱きかかえた。
「ずっと守ってあげる……」
郁子が優しく囁く。
京子は郁子の囁きを耳もとに聞きながら、だんだん睡魔に取り込まれようとしていた。
「いつまでも傍にいてあげる……」
心地よい声が遠くなったり近くなったり、京子は深い眠りに引き込まれていく。
眠りに入るその瞬間───京子は白い帽子をかぶった郁子の姿を見たような気がした───
「忘れないで……いつまでも……」
消え入りそうな声で呟く郁子───
もうほとんど京子には聞こえていないかもしれぬ。
「大好き……」
郁子は微笑んだ。京子も美智子も、誰も見たことのない天使のような微笑みだった。
そして───空の彼方からか、それとも海の底からか、郁子は限りなく優しく囁いた───
「大好きよ、京ちゃん……大好き……」




