第7話「京子の回想2」
それから、ほんのしばらくの間、三人の少女たちは狭い休憩所で立ちすくんでいた。
──サァァァァ───
木々の葉を打つ雨音が、だんだんと小さくなっていく。ほどなく夕立は過ぎ去っていくことだろう。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も喋る者はいなかった。三人とも黙ったまま、森が濡れそぼっていくのをぼんやりと見つめていた。
京子は少し顔を上にあげてみた。
彼女たちのいる休憩所は、森の公園のほぼ中央辺り、小高い丘陵地に位置していた。屋根があるといっても、木材で組み合わされたログハウスみたいなものである。形は丸く、壁はない。座れるようにと同じ木材で作られたベンチが設置してあるが、食事ができそうなテーブルはなかった。そういうことをするための休憩所ではないということだ。
京子は休憩所の外の風景に目をやった。
(雨があがる……)
そう、雨は上がろうとしていた。
それと同時に、翳っていた森に木漏れ日が戻ってきた。
(なんて……きれいなの)
京子は思わず溜め息をついた。それは小さかったので、他のふたりは気づかなかったようだが。
木々の葉はつやつやに濡れて、よりいっそう緑が濃くなっているようだ。葉についた埃や砂が、雨に洗い流されたからだろう。
葉は雨に濡れ、その葉に木漏れ日が反射している。
きらきら、きらきらと眩しくて、いつか見た夢の世界のワンシーンを見ているようだと京子は思った。
そして、無意識のうちに彼女は休憩所を出て、一歩二歩と足を進めた。
訝しげに見つめる美智子も、戸惑ったような目をした郁子も、今の彼女の頭からは消え去っているように───そんな感じで京子は歩いている。慎重に───まるで何かを壊してしまうのではないかと、心配しているみたいに。
「わぁ……」
京子は小さく声を出した。
(雨の匂いがする)
空気が濡れている。辺りを漂う、しっとりとしたこの感触。雨は森の木々にしみ込み、木の持つ青々としたよい香りを取り込んで、再び空中へとかえっていく。
彼女は、帽子に手をあてながら深呼吸をした。
「ん───」
みずみずしく芳しい空気が肺一杯に広がるのを感じる。
「いい気なものね」
すぐ後ろで美智子の声がした。とても皮肉をこめた声だ。
京子は振り返った。
「なによ、その目は」
睨む京子に語気荒く言葉を叩きつける美智子であった。
「…………」
だが、京子は睨むだけで何も言おうとはしなかった。
「郁子はね。あなたのせいで、ものすごぉーく傷ついてるのよ。わたしの大切なお友達になんてことしてくれたのよ」
「…………」
京子は郁子に視線を走らせた。
「!」
弾かれたようにびくっとして、再び郁子はおどおどと視線を逸らした。
「いくちゃん……」
京子は悲しくなってきた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう───彼女はそう叫びたかった。
「わたしたちは親友じゃなかったの? いつまでも仲良しでいようって言ったのは、あれはうそだったというの?」
「…………」
顔を逸らし、下を向いている郁子の手が微かに震えている。
「いくちゃん!」
京子は叫んだ。
「……じゃない……」
「え……?」
郁子の小さな呟きに耳を立てる京子。
すると───
「うそついたのは京ちゃんじゃないの!」
郁子は悲痛な声を張り上げた。
「あた…あたしのこと……そりゃ、あれは、あたしが悪かったわよ。でも…でも、それを言いふらして回るなんてひどいよ。あたし、信じてたのに。京ちゃんはあたしのことを裏切ったんだ!」
「そ…そんな……」
郁子の言葉に真っ青になる京子。
「わたし…わたし…言いふらしてなんか…」
「うそつかないで!」
「!」
あまりの剣幕に京子は絶句してしまった。
「あらあら」
京子と郁子の間に流れる緊張感を、まるで無視するかのように、美智子の、溜め息まじりの声が上がった。
「やっぱりよそ者はよそ者よね」
「…!」
京子は、澄まし顔の美智子を睨みつけた。
「あーら。本性見たりっていうとこかしら」
美智子はぐっと京子に身体を近づけ、負けじと睨らんで言い放った。
「あなたのような人が一番きらいだわ」
「それはこちらのセリフよ」
京子もきっぱりと言い返した。
その態度は、いつもの彼女のイメージとはずいぶん違う。それを見るかぎりでは美智子が言った「本性見たり」というのも、あながち違うとも言い切れないかもしれぬ。
「………」
「………」
互いに顔を近づけ、ギンギンに睨み合う少女ふたり。郁子はというと、はらはらして彼女たちを見ているだけで、色黒の顔を青くさせているばかりだ。
こうなると、ふたりの男がひとりの女をめぐって争っているとも言えなくもない。それだけ、いつもの少年然とした郁子が、あまりにも弱々しく少女のような感じを見せているからだ。
そんな膠着状態がしばらく続いたが、ついに終止符が打たれることとなった。
「あっ!」
京子が叫んだ。
「返して!」
京子は慌てて手を伸ばしたが、むなしく空を掴んだだけだった。
美智子が京子の頭から、あの白い帽子を掠め取り素早く離れたのだ。
「わたしの帽子を返してよ!」
京子は悲鳴に近い声で叫びつづける。
「お願い、返して!」
先程まで見せていた気の強そうな感じが、今はまったく見られない。
美智子は、ようやく自分のペースに持っていくことができるとばかりに、にんまりとほくそ笑んだ。手に持った白い帽子をひらひらさせて京子を挑発する。
「お嬢さまじゃあるまいし、こんなちょうちょうみたいな大きな帽子が似合うとでも思ってるのかしら。学校行くにも、どこ行くにも、かぶっていらっしゃるけど……」
美智子は帽子を持った右手を上に持ち上げて、冷たい視線を帽子に向けた。
「とってもイヤな気持ちになるわ。さも自分は田舎者とは違うのよ、自分は特別なのよって主張してるみたい……ほんと、むかつくことでこざいますわっ」
美智子の言葉尻は、ふざけた口調になってはいたが、それとはまったく裏腹に目は凶暴なまでに険しくなっている。
自分を特別だという京子の態度がイヤだと美智子は言うが、その彼女自身が「わたしは特別な人間だから死ぬわけがない」と公言したばかりではないか。
自分は何を言っても許される。だが、同じことを他の者が言ったりやったりするのは許せない───まったくもって自分勝手の極みというやつである。
そして、それに美智子はまったく気がついてもいないのだ。
京子はそれが何よりも許せないと思った。
(わたしは何も言ってない)
そう、ましてや京子は、美智子の言うように自分は特別なのだなどと言った覚えもないし、態度にだって示したことはないはずなのだ。言いがかりとしか思えない。
(なんて人なの……)
めらめらと、京子の心に怒りの炎が燃え上がった。
「みっちゃん、それは返してあげなよ」
そんなとき、微動だにしていなかった郁子が、たまりかねたように言った。
「何を言ってるのよ。これは郁子の復讐なのよ。甘いことを言ってはだめよ」
後ろに立つ郁子に振り向こうともせずに、美智子は言い放った。目は京子に釘づけだ。
「………」
だが、何を思ったか、彼女は振り返って郁子のそばにいくと、いきなり腕をつかんだ。
「なに?」
郁子はびっくりして大きく目を見開いた。
「来なさい」
美智子は命令口調でそう言うと、郁子を連れて走りだした。
「あ……」
一瞬、何が起きたのか分からず、京子は茫然とふたりを見送った。しかし、次の瞬間に行動を起こし、ふたりの後を追った。
美智子は森の端を流れる川までやってくると足をとめた。いまだに郁子の腕を握りしめたままだ。
そこへ、少し遅れて京子が辿り着いた。
「帽子を返して!」
叫ぶ京子。美智子はその顔を見て可笑しそうに笑った。
それから、傍らの郁子に視線を向けると優しく諭すように、だが有無を言わさぬ感じで言いつけた。
「郁子、この帽子を川に投げ捨てなさい」
「ええっ!」
郁子は驚愕して大声を上げた。
「そんな…そんなことできない!」
ふるふると首を横に振る。
「何を言ってるの。あの女に、あそこまでコケにされて何とも思わないの?」
「で、でも……」
「あの女は郁子を裏切ったのよっ!」
「!」
美智子のその言葉が、郁子の心のどこかにあるスイッチを押したようである。
真っ青になりながらも、差し出された白い帽子に彼女はゆっくりと手を伸ばす。
郁子の手は震えていた。震える手で、帽子を掴むと、顔を上げて美智子の顔を見た。
「…………」
美智子は黙ったまま頷いた。
それから、郁子は少し離れたところに立つ京子に視線を向けた。
「いくちゃん…お願い……かえして……」
さかんに揉み手で訴える京子。
「わたしの大切な帽子なの…」
「…………」
「何よりも大切な帽子なのよ」
そのとき、郁子の目に狂気めいた光が煌いた。
「そんなに…そんなに大切な帽子なら…」
次の瞬間───郁子の唇から、罵りが迸った。
「部屋んなかに押し込めてカギかけて、外なんかに持ってくんな!」
郁子の手が大きく振られた。
「ああ────!」
京子は悲鳴にも似た叫びを上げた。
帽子は、弧を描いて郁子の手を離れた。その先には川がある。
ゆっくり、ゆっくりと帽子が飛んでいく。
もう、すっかり乾いていた帽子である。まるで本当の蝶々のように優雅に軽やかに宙を飛ぶ京子の帽子。
最近の川なら、ずっと雨が降らなかったために枯渇してしまい、たとえ人が落ちたとしても溺れるということはない。といっても、川に水が流れていたとしても、この森の川は人が溺れるほどの深さになったことは今までになかった。それこそ何ヵ月も降りつづける淫雨であったならば、川底まで一メートルほどあることなので深さもかなりなものになることだろう。
だが、今は───見たところ、川には水の流れはないようである。
先程まで降っていた雨は突発的な夕立であり、からからに乾ききったこの町に潤いを与える天からの恵みだったのだ。そう、あくまでも潤いを与えただけにすぎぬ。
だが───
事態は考えようによっては悪夢といえるかもしれない。
川には堆積した土があった。
それが濡れれば、けっこうな深さの泥になることは明白である。中途半端な雨のため、川底は最悪の状態になる。しかも、川には土だけでなく様々な物が投げ捨てられていた。
菓子袋、空き缶、ペットボトルなどの、濡れたとしても変化のしようがないものならばそれはまだいい。しかし、捨てられているものはそれだけではなかった。
どこから持ち込まれたのか分からない、たぶん誰かの家で飼われていたペットだったのだろう───犬や猫の死骸、近くで酒盛りでもしたのか、乾いた嘔吐物の固まり、食べかけて捨てられた弁当の折など、乾ききって固まっていてもあまり気分のいいものではない諸々の物があるのだ。
それらが、まさに今、冷凍されたものが溶けだし、己の時間を刻みだすように生々しく姿を変えていた。
そこへ───そんな地獄のような場所の真っ只中へ、京子の帽子は落ちた。
「わたしの帽子がっ…」
京子は叫んで川のふちに駆け寄った。むさぼるように下を覗き込む。
ふわりと、重さのない帽子は、泥と汚物の川の表面に落ちていた。
「あらまあ」
川のふちから川底の帽子を見つめている京子のもとに美智子はやってきた。京子の後ろから覗き込む。
「水がなくてよかったじゃない」
くすくすと笑う美智子。
郁子は少し離れた場所で、投げた時の恰好のままで固まってしまっている───
「大事な大事な帽子なんでしょ……」
美智子が含み笑いしながら言った。
その彼女の声に、何か言い知れぬものを感じた京子は、後ろを振り向こうとした。
───そのとき!
「取ってらっしゃいな!」
──ドン!
「ああっ!」
美智子は無情にも京子を突き飛ばした。
振り向きかけた恰好のままバランスを崩して、京子は川へと落ちていく。
「京ちゃん!」
郁子のびっくりしたような声が上がった。
「………」
京子は肩から落ち、どっぷりと泥にはまっていた。いきなりのことだったので、京子はショックでしばらく動けなかった。
「うっ……」
まず、ひどい悪臭が彼女の鼻を襲った。泥は二、三十センチほどはあろうか。衣服は泥まみれになってしまったが、その泥のおかげもあって怪我はなかった。
だが───これはあまりにもひどい匂いだと京子は痛感した。
「く……」
匂いのためもあって、わりあい早く意識がはっきりしてきたようだ。彼女はゆっくりと身体を起こし、立ち上がろうとした。
「あーら、あらあら、まあああ!」
京子の頭の上で耳障りな声が上がった。言わずと知れた佐伯美智子である。
「………」
立ち上がり、顔を上げる京子。見上げる先には高飛車な美智子の姿があった。
「ずいぶん汚れてしまったわねえぇぇ……」
彼女は妙に甘ったるい声で言った。
「………」
京子は何も言わない。じっと泥の中で立ちすくんだままだ。視線は美智子ではなく、その後ろに立つ郁子へと向けられていた。
郁子はといえば、美智子の背中に隠れるようにしながらも、京子の様子をそっと窺っているようだ。
「!」
郁子と京子の視線がぶつかった。とたんに郁子は美智子の背中に隠れてしまった。
それを無表情に近い、だが、明らかに冷たい目で見つめる京子。
「シミになって落ちなくなるかもねえ。ごめんなさいね。わたし、手がすべっちゃって」
あまりにも見え透いた嘘を、しゃあしゃあと言う美智子。それでも京子は黙ったまま、後ろを振り返った。
身体の向きを変えるのに、泥から足を引き抜き、再び泥へと足を踏み入れる。
──ずぶずぶ……
なんとも言えぬ音がする。
京子は少し離れた場所に落ちた帽子に手を伸ばした。手にとってみて、京子は帽子の汚れを確認する。
(そんなに汚れてないみたい……)
ここにきて、ようやく彼女の顔に安堵の表情が浮かんだ。
(でも、身体についた泥を帽子につけないようにしないと……)
京子は、帽子を身体に近づかせないように気をつけた。
「だけど、大丈夫よねえ……」
ほっとした京子に、美智子の声が届く。
「………」
京子は、ゆっくりと振り返り、再び美智子の高慢な顔に対峙した。
「だって、あなたには新しい素敵なお洋服を買ってくださる、お優しいお優しいお母さまがいらっしゃるのだもの」
美智子の顔が険しいものに変わった。
「……?」
京子は怪訝そうに眉をひそめた。美智子の声に何かを感じたからだ。
「また、こーんな田舎では手に入らないようなセンスのいい、素晴らしいドレスでも買ってもらえばよろしいんじゃなくって?」
「……………」
突然、京子の表情が曇った。
「そんな、しおらしい顔したって同情しないわよ」
美智子はヒステリックとも取れそうな甲高い声を上げた。
「なにかといえば、お母さま、お母さまってね、ほんっとにムカつくのよ。やめてほしいものだわ。あなたのお母さまが、どれほど優しいのか知りたいものだわね」
美智子は腰に両手をあてると、顎をそびやかし胸を突き出した。そして、ふふんと鼻で笑うと言った。
「あなたが、そーんな汚い恰好して帰ってきても、お優しいお母さまはやっぱりお優しくて、お怒りにならないのかしらね。とても興味があるわ」
「怒るわけないわ……」
京子は下を向いて囁くように呟いた。
「え…なあに? 聞こえないわよ」
美智子は耳に手をあて、聞こえないふりをして言った。それは滑稽なまでに大げさな身振りだった。
「怒れるわけないのよ!」
京子は激しく頭を振りあおぐと叫んだ。
「お母さまは死んじゃったんだものっ!!」
「ええっ!?」
衝撃的な告白に、美智子はびっくりして目を見張った。
「えっ? なん…なんていま……」
美智子の後ろに隠れていた郁子も、驚いて顔を出した。
「しん…死んじゃった……って…?」
震えているために、郁子の声は途切れがちだ。
京子は、美智子と郁子を鋭く見つめながら言葉を続けた。
「この町に引っ越してくる前の町で、お母さまは死んじゃったのよ」
「………」
「………」
美智子と郁子は、言うべき言葉を失ってしまい、京子の泥で汚れた顔を見つめているばかりだ。
「お母さまは病気だったの。わたしを産んだことがその原因だったって聞いたわ。でも、わたし、そのことを知らなかったの。お母さまが死んでしまって初めて聞かされた…」
いったん京子は言葉をきった。そして、彼女を見つめるふたりの少女に向けていた視線をそらした。その瞳はどこか遠くを眺めているかのようだ。
「わたしは───」
京子は再び喋りはじめた。
「物心ついたときから、わたしはずっとお母さまが具合を悪くしているのを見てきたわ。身体がオンボロなのよって弱々しく呟くのを聞くたびに、わたしが変わってあげたいっていつも思った。でも、わたしがそう言うと、お母さまは悲しそうに首を振って、京子のほうが長生きするんだから、もっとお母さまよりも強くならなきゃって泣くの」
京子の目に涙が溢れた。彼女の脳裏に、そのときの情景が浮かぶ。
「…………」
聞き入る美智子の表情は珍しく神妙であった。少し青ざめて京子の顔を見つめている。
「それでもね。ずっと具合を悪くしてたわけじゃなかったのよ」
京子は鼻水をすすり上げた。
「ほとんど寝たきりだったんだけど、すごく具合のいい時は外出だってできたの。お母さまは婦人雑誌を見たりするのが大好きで、町で流行っている物なんかをよく知っていたから、何ヵ月かに一度は町のお店に行って、わたしのためにお洋服をたくさん買ってくれたわ。わたし、そんなときくらいしかお母さまと外出ができなかったから、とっても楽しみだったの」
京子の口もとに微笑みが浮かぶ。母との楽しかった思い出を懐かしむように。
「お買い物をするお母さまの幸せそうな顔が忘れられない。ほんとうに優しそうで…ううん…ほんとうに優しかったんだから。自分のものは何一つ買おうとせずに、わたしのものばかり買ってくれた……でも……」
京子の目に再び涙が滲んだ。
「お母さまが死んでしまう少し前のこと、今まで自分のものなんか買ったことのなかったお母さまが、たったひとつ買ったものがあったの」
京子の視線が、手に持たれた白い帽子に向けられた。
「この白い帽子……わたしは生まれて初めてお母さまが自分の物を買うのを見たの。なぜだと思う?」
美智子を真っ直ぐ問いかけるように見つめる京子。
「…………」
それに答えられない美智子。
京子の美智子に向けられた眼差しは、憎しみはこもっていなかった。ただ純粋に答えを引き出そうとしている目であった。
「お母さまがお父さまに初めてプレゼントされたのが、こんな感じの白い帽子だったんですって。でも、その帽子は新婚旅行のときにどこかに飛ばして、なくなってしまっていたの。もちろん、もらった帽子とはデザインも違っているのだけれど。お母さまはきっと戻りたかったのかもしれないわね、元気にお父さまと暮らしていたころに。だから、この帽子はわたしにとって、たったひとつの形見なの。この帽子をかぶっていると、今でもお母さまと一緒にいるみたいで安心するのよ」
京子は、いとおしそうに帽子を見つめた。
「そ…そんな…」
美智子の口から泣きそうな声が漏れた。
「わたし…知らなかった…小西さんのお母さまが死んでたなんて……わたし、わたし…」
じりじりと美智子は後ずさりする。
そして───
「わたし知らない!」
そう一声叫ぶと、美智子は脱兎の如く逃げだした。
「み…みっちゃ…」
後に残された郁子は真っ青になって動けずにいた。逃げだす美智子へ、助けを求める視線を向けながら立ちすくんでいる。
だが、すでに美智子はいなくなっており、そこには京子と郁子のふたりだけが残されてしまった。
「いくちゃん」
妙に冴々とした京子の声に、郁子は振り返る。怯えたような表情でゆっくりと。
「…………」
京子は冷たく凍るような視線を彼女へ向けていた。まるで金縛りにあったかのように郁子の身体は動かず、そして顔は引きつったように強張っている。京子が彼女の名を呼んでも、何も答えられない状態だ。
そんな郁子に京子は、ひたと視線を固定したまま言った。
「わたしは忘れない。あなたがしたことを」
「あ…あ…」
郁子は言葉にならない声を漏らす。あんなにはっきりとした物言いの郁子だったのに、何も言えずにいる。
だが、やっとのことで一言、絞り出すように言った。
「あた…あたしじゃない…」
「バカなこと言わないで!」
「!」
京子の鋭い声が、郁子の口を閉じさせた。
「自分じゃないって…よくもそんなことが言えるわね。わたしの帽子を投げ捨てたのはあなたじゃないのっ」
「でも…でも…」
それでも郁子は、何か言い返そうとしている。
「突き落としたのは…みっちゃん……」
「言い訳なんて聞きたくない!」
京子は大声で遮ると、続けざまに言った。
「わたしはあなたを許さない!」




