第4話「郁子の回想4」
それ以来、郁子は京子とあまり過ごさなくなった。あからさまに避けるということはなかったが、今まで毎日のように一緒に遊んでいたふたりであったので、恐らく京子も戸惑いを感じていたのではないだろうか。
そしてある日のこと、郁子の家に佐伯美智子がやって来た。
この日も朝から強い陽射しで、京子ではないが、帽子でもかぶらなくては外を歩けないほどだった。だが、ずいぶんと太陽が高いというのに、美智子は何もかぶらずにいた。見た感じでは、それほど暑さを感じているふうではない。
そして、彼女は玄関先でいきなり郁子にこう言った。
「今日はあの女はいないの?」
「あの女って……?」
素知らぬ顔で聞く郁子に、美智子はピンクの唇を突き出した。
「小西京子に決まってんじゃない」
「ああ……」
郁子は微かに顔をしかめた。
「今日は遊ばないんだ」
「あーら、そう。それはよかった」
にっこり微笑む彼女に、思わず見入る郁子であった。
美智子は確かに美しい少女だった。
今日の彼女は、いつもの過剰な服装ではなく、いたってシンプルであった。若草色のTシャツに同系色のミニスカートで、真っ白なスニーカーをはいている。すらりとした脚は白いが、京子のように病的ではなく、血色のよい健康的な白さである。今日の髪型は、きつく結わえたポニーテールで美智子によく似合っていた。それでもやはり、Tシャツとスニーカーにはブランド名がしっかりと入っていた。
「じゃあ、今日はわたしと一緒に遊びましょうよ」
美智子の言葉に頷いてから、郁子はあたりをきょろきょろと見回した。
「そういえば、いつものあの子たちは?」
「郁子と遊ぶのにじゃまだわよ」
至極あたりまえといったふうに、美智子は言った。
「さ、外へ行きましょ」
そうして、郁子と美智子は連れ立って出掛けた。
空は青く、遠くに入道雲が見える。夏休みに入ってから一滴の雨も降っていないので、あたりを彩る木々の青さも全体的に色あせて見えるようだ。ときおり、思い出したように吹き抜けていく風も、むっとする熱気を子供たちに与えるだけで、暑さを吹き払うという効果は望めそうにない。
郁子たちは埃っぽい道を歩いていた。アスファルトで固めてあるとはいえ、まわりは畑が広がっている。必然的に砂が風にのって黒い道にもやってくるのだ。
「あ、しんきろう……」
郁子が指さした。
「しんきろう?」
立ち止まった郁子に、美智子は怪訝そうな顔を向ける。
「うん。ほら、道路の向こうがゆらゆら揺れてるでしょ。あれって、しんきろうっていうんだって」
「ふぅーん……」
あまり興味を示さない美智子に、郁子は微かな溜め息をついた。再び歩きだした美智子に声をかける。
「あの…みっちゃん。どこいく?」
「わたしねえ……」
「え……?」
またもや美智子は足をとめた。郁子も慌てて立ち止まる。すんでのところでぶつかるところであった。
「今日は郁子に聞きたいこともあるし、森の公園に行かない?」
美智子は振り返って言った。
「うん……」
郁子は何となく不安に思った。聞きたいこととは何だろう。だが、彼女にはなぜかそれが分かったような気がしていた。
ふたりは再び歩きはじめた。歩きながら郁子は空を見上げた。
夏の空は鮮やかなブルーだ。京子が好んで着ているブルーのスカートよりももっと深い色──だからというわけではないが、郁子はブルーが好きだった。
郁子は見つめつづける。
そんな彼女の目を、まるで青く染めてしまうかのように、空は限りなく眩しく輝いていた。
彼女たちが「森の公園」と呼ぶそこは、こんもりと繁った樹木に囲まれた場所だった。
公園と呼ばれている通り、子供たちの遊ぶブランコとかシーソー、滑り台などが設えてあった。子供だけでなく、大人たちも寛げるようにとベンチも設置してある。
都会とは違う田舎とはいえ、ここら辺りもずいぶんと昔とは景色が変わってきた。近代的な建物も見られるようになり、こんなふうな、うっそうと森林が広がる場所というものも少なくなってきているのが現状だ。郁子が好きなあの道も、その数少ない昔ながらの林道なのであった。
そして、この「森の公園」も、人工的に作られたものではない、自然なままの公園であるということだ。といっても、設置された遊具は自然なものとはいえないが。
森の傍らには川が流れていた。コンクリートで固めた川底で、川というよりは用水路みたいなものであるようだ。今は雨が降らないために、固まった泥が見えているばかりである。悲しいかな、お菓子の袋やジュースの空き缶、ペットボトルなどのゴミが投げ込まれている。
「よっこらしょ……」
郁子はブランコに腰掛けた。
「やーね、郁子ったら。年寄りみたいなこと言わないでよ」
顔をしかめながら、美智子は郁子の横のブランコに腰掛けた。とても優雅に。
「ふう……」
それでも、美智子も溜め息をつかないではいられなかったようだ。じわりと額に汗が滲んでいる。
夏の午後、確かに陽射しは強かった。しかし、この森の公園は、あの林道のように木々のおかげで直射日光は射してこない。
──サワサワ……
折しも微風が吹いてきた。まわりの木々を揺らし、気持ちのよい音を立てている。
「すずしい……」
郁子はブランコをこぎだした。
先程までの暑苦しさが吹き飛ぶようだ。森の木々達が、町を渡っている熱風を清涼にしてここまで運んでくれたようだ。まるで、不純物をフィルターで濾過していくように。
「…………」
気持ちの良さそうな郁子の顔を黙って見つめていた美智子だったが、彼女も同じくブランコをこぎだした。
──キィ、キィ──
しばらく、ブランコの錆びついたような軋りが聞こえるばかりだった。
遠く近くで蝉の鳴き声が聞こえてくる。
──ザザッ──
「郁子」
とつぜん、美智子がブランコをとめた。
「え…なに?」
急なことだったので、郁子は驚いた。美智子にならってブランコをとめる。
「あなた、小西さんのこと好きなの?」
「え……」
いきなり核心を切り出してきたもので、郁子はどう答えてよいものやら言葉につまってしまった。
しかし、美智子は彼女の言葉を待たなかった。
「わたしのこと好きだって言ってたでしょ」
美智子は整った唇を噛みしめて、郁子の方を見つめた。少し恨めしそうな目をしているのは気のせいばかりではないだろう。
「わたしと彼女とどっちがいいの?」
「そんな……」
郁子はうろたえた。
郁子は本当のところ、美智子も京子もどちらも同じくらいに好きだったのだ。ふたりとも自分とはまったく違う種類の少女だ。そして、ふたりとも互いにまた違った魅力のある女の子たちだ。どちらかを選べと言われても郁子にはとても一方を選ぶことは出来なかった。
彼女には知る由もないが、この状況は男と女の場合にしばしば見られるものである。もちろん、男が誰で女が誰であるかは一目瞭然ではあるが。それを知ったら、おそらく郁子は激怒するかもしれない。彼女は自分の粗野なところを嫌っているから。
「あたし……みっちゃんも好きだし、京ちゃんも好き……」
「どっちかにしてよっ!」
「………」
思いのほか強気の美智子に言葉をつまらせる郁子。
「わたしはね。郁子が一番好きよ。あなただけよ。男なんてだいっきらいだし。でも、郁子はそこらへんの男よりもカッコいいし、わたしには負けるかもしれないけど、それなりにキレイだし……だから、郁子もあたしだけ見て。あんな今にも死にそうな女のことなんか考えないで」
「………」
郁子は何も言えなかった。美智子の気持ちも何となくわかるような気がしたからだ。
自分も相手に一番に好きになってもらいたい。そんな気持ちがあることも確かだ。そして、幸運にも郁子の場合、美智子も京子も彼女のことを一番に想ってくれている。自分の想いが通じぬことは、とりあえず郁子は経験したことがなかったのだ。
(だけど……)
しかし、彼女の心に何かが生まれようとしていた。それは白いシーツにポタリと落ちた一点のシミのように、最初は大した汚れではなかったのが、だんだんと広がっていくような、そんな感じにも似ていた。
そんなときだ。とどめの一言を美智子が告げたのが。
「わたし、あの子が告げ口したのを知ってるのよ」
「え?」
何といったのか──「告げ口」とはまた尋常ならざる言葉ではないか。
「なんなの。その告げ口って……」
不安に心を掻き乱されながら、郁子はそう言った。声は震えている。
「まったく、あーんな澄ました顔してるくせして、あの『逃亡事件』は自分はまったく関係ない。郁子が無理やり自分を連れて校外に出たんだって言いふらしてるのよ」
「!」
聞きたくなかった。
郁子は耳を塞ぎたい欲求にかられた。疑心に満ちていたおのれの感情が一気に爆発しそうになる。
彼女たちの小学校ではすでにあまりにも有名になってしまった『逃亡事件』───そう、郁子と京子が授業をさぼって校外に出てしまったあの事件である。
大人たちは、あのような学校始まって以来の大事件に右往左往するばかりで、パニック状態になりながらも何とか郁子たちを捜し出したのだ。もちろん、ふたりの上には轟くほどの雷が落とされたことは言うまでもない。
「わたしは郁子を信じていたわ。だからあの子に言ったのよ。あなたが連れだしたに違いないってね」
「でも…ほんとは…あたしが……」
郁子は健気にも否定しようとする。
「わかってるわよ。郁子はたとえ自分が悪くなくっても、そう言ってかばう子だってことはね」
「そ…そうじゃ…」
「それなのにあの子ったら!」
郁子が何か言おうとするのを遮って、美智子は怒気もあらわに言い募る。
「自分は悪くないなんて、つんと澄まして言うのよ。わたし、頭にきちゃったわよ!」
「…………」
郁子は黙り込んでしまった。
彼女の心に悲しみとも怒りとも取れぬものがふつふつと沸き上がってくる。
「いい? 郁子。あんな子のこと信じちゃだめよ。わたしと郁子は昔からの幼なじみじゃない。私だけがあなたの味方なのよ。よそ者のやることをよっく覚えておきなさい。今に泣いて傷つくのは郁子ひとりってことになってしまうわよ」
「そんなこと……」
茫然として呟く郁子の顔に、美智子は自分の顔を近づけた。ブランコの鎖を握る郁子の手に、自分の手を重ねる。
「みっちゃん……」
その、細いが血色のよいきれいな指を見つめながら、郁子は心地よい暖かさを自分の手に感じていた。
「わたしには分かってる。郁子はだまされてるのよ。あの子は、ああ見えてもズルイ子だわ。きっと郁子も気づくわよ。あの子の本性をね」
さらに近づいて、美智子は郁子の耳に囁いた。
「わたしたちであの女の本性をあばいてやりましょうよ。ね、郁子……」
「あ……」
郁子は軽い目眩を感じた。美智子の透き通るような声が耳にこころよい。幼い郁子にはあまりにも刺激の強すぎることといえよう。
彼女の心の、あるいは身体のもっとも深い部分が疼くような何とも言えない感覚が、郁子の五感を支配している。いったいこれは何なのか───彼女には分からなかった。だが、とても気持ちのよい気分になっていく自分を郁子は感じていた。
美智子の、子供にしては少し大人の女性を思わせる体つきや、たちのぼる芳しい香り、吐息を含んだ声───郁子はだんだんと神経が麻痺していく───だが、彼女にはそのような自覚はなかった。
森の公園はふたりの少女の秘密の公園と化していく───そして、ふたりの上には揺れる梢をぬって射し込む夏の陽射し。ゆらゆら光る木漏れ日は、いつまでも少女たちを包んでいた。
「京子ちゃん、身体の具合が良くないみたいだよ」
「え……?」
あれからしばらくたった日の午後、家でスイカを食べていた時のこと。
母の言葉に郁子は食べていた手をとめた。
じっと母を見つめる。
兄は遊びに出てしまっていたため、今は家にいない。
「今朝、おうちの人から電話があったよ。とうぶん遊べないから、おまえに謝っておいてくれってさ」
「ふぅーん……」
郁子は何事もないかのように装った。再びスイカにかぶりつく。
「………」
その様子を郁子の母は、訝しそうに見つめたが、彼女もまた娘と同じくスイカに意識を戻した。
(あたしのせいじゃない……)
一心不乱にスイカを食べつづける。
真っ赤で甘いスイカであった。
汁けが多いそれに口をつけると、唇の端から一筋二筋と赤い筋が顎へと流れゆく。
だが今の郁子には、流れる汁に胸もとを汚している自覚もない。ましてやスイカの味などまったく分かってはいないようだった。
彼女は何かを忘れようと必死だったのだ。
(あたしは何もしてない……)
心でそう呟くが、スイカを持つ手が微かに震えた。
(あたしじゃない……)




